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侯爵令嬢カレンは二度目の生を望まない  作者: Amri


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『星喰らいの蛇』

 血の匂いが洗い流された庭園に、朝の光が差し込んでいた。しかし、昨夜の激闘の痕跡は、踏み荒らされた花壇や、所々に残る黒い染みとなって、ヴァルラン侯爵家の美しい景観に痛々しく刻まれている。その庭を見下ろす一室で、カレンはレクシスの手で、頬の傷の手当てを受けていた。消毒薬のしみる痛みに、カレンは微かに眉をひそめる。


「動くな。傷が残るぞ」


 レクシスの声は、ぶっきらぼうだが、その手つきは驚くほど優しかった。彼の指先が触れるたびに、昨夜の恐怖と、それを上回る安堵が蘇り、カレンの心臓が小さく音を立てる。


「……こんなことまで、あなたにさせてしまって」


「当然だ。君は私の、ただ一人の助手なのだからな。備品は大切に扱わねば」


 軽口を叩きながらも、その瞳は真剣そのものだった。彼は傷口に軟膏を塗ると、白いガーゼを当てて、慎重に顔に固定した。その間、二人の間に流れるのは、言葉にならない穏やかな空気だった。戦いを経て、彼らの間には、単なる協力者以上の、深く、確かな信頼関係が根付いていた。


 手当てを終えたレクシスは、カレンから視線を外し、窓の外へ目を向けた。


「アルフレッドは、地下牢で目を覚ました頃だろう。さて、どうやってあの男の口を割らせるか」


「私が、行きます」


 カレンは、即座に言った。その瞳には、昨夜までの死地へ赴く悲壮感とは違う、冷静で鋭い光が宿っていた。


「アルフレッドを最もよく知るのは、この私です。彼のプライドがどこにあり、彼の弱点がどこにあるのか、私には分かります」


 レクシスは、カレンの顔をじっと見つめた。その白い頬に残る傷跡が、彼女の覚悟を雄弁に物語っている。彼は小さくため息をつくと、諦めたように肩をすくめた。


「……君がそう言うのなら、止めはしない。だが、私も同席する。一人で行かせるわけにはいかない」


「ええ、もちろんそのつもりです。あなたという『脅威』が隣にいてこそ、私の言葉は、より重みを増すのですから」


 カレンは不敵に微笑んだ。その笑みは、もはやかつての侯爵令嬢の面影をとどめていなかった。絶望の淵から蘇り、己の力で運命を切り拓かんとする、一人の戦士の顔だった。



 ヴァルラン侯爵家の地下は、ひやりとした石の冷気と、湿った黴の匂いに満ちていた。松明の炎が、壁に長い影を落とし、不気味に揺らめいている。その一番奥の牢に、アルフレッド・クライネルト子爵次男は、鎖で壁に繋がれていた。その顔には憔悴の色が浮かんでいたが、瞳だけは憎悪の炎を失わず、カレンの姿を認めると、まるで獣のように唸った。


「カレン・ヴァルラン……! よくも、ぬけぬけと顔を見せられたものだな!」


「お久しぶりですわね、アルフレッド様。昨夜は、手荒な歓迎、痛み入りました」


 カレンは、牢の前に置かれた椅子に、優雅に腰を下ろした。レクシスは、彼女の背後に腕を組んで、黙って佇んでいる。その圧倒的な存在感が、アルフレッドに無言の圧力をかけていた。


「さて、茶番はこれくらいにして、本題に入りましょう。あなたの背後にいる組織、『星喰らいの蛇』について、全てお話しいただきたい」


「……ふん、知らんな。何かの聞き間違いではないか?」


 アルフレッドは、嘲るように鼻を鳴らした。


「そうですか。では、仕方ありませんわね」


 カレンはあっさりとそう言うと、立ち上がろうとした。


「お望み通り、このまま何も語らず、反逆者として王宮に引き渡されるがいいでしょう。クライネルト子爵家は、今度こそ完全に取り潰し。あなたの愛するセリーナも、反逆者の共犯として、修道院送りか、あるいは……もっと悲惨な末路を辿るやもしれません」


「セリーナを巻き込むな!」


 アルフレッドが、鎖を鳴らして激高した。カレンの狙い通りだった。彼の最大の弱点は、義妹のセリーナだったのだ。


「巻き込んでいるのは、あなたでしょう? 彼女を唆し、偽りの証言をさせ、私の断罪に加担させた。全ては、あなたの指示。違いますか?」


「……あれは、お前がセリーナを虐げていたからだ! お前のような傲慢な女から、彼女を守るためだった!」


「守る、ですって?」


 カレンは、心底可笑しいというように、くすりと笑った。


「あなたは、何も分かっていらっしゃらない。セリーナは、あなたに恋をしていた。ただ、それだけのこと。あなたは、その乙女心を利用して、彼女を犯罪者に仕立て上げた。恋する男性のために嘘をつく健気な自分に酔いしれ、その罪の重さにも気づかぬまま。……可哀想なセリーナ。彼女こそ、最大の被害者ですわ」


 カレンの言葉は、冷たい刃のようにアルフレッドの心を抉った。彼の顔から、血の気が引いていく。


「違う……私は、セリーナを……」


「利用したのでしょう? あなたが所属する『星喰らいの蛇』のために」


 そこで、今まで沈黙を守っていたレクシスが、低い声で口を挟んだ。


「クライネルト家は、かつてヴァルラン家との領地争いに敗れ、没落した。君はその怨恨を結社に利用され、ヴァルラン家への復讐という餌をちらつかされて、手駒として使われているに過ぎない。違うか?」


 レクシスの冷静な分析が、アルフレッドの最後の砦であるプライドを粉々に打ち砕いた。


「……黙れ……黙れ!」


「そして、君の計画が成功した後、セリーナはどうなる? 用済みとなった反逆者の共犯だ。口封じのために、真っ先に消されるのが関の山だろうな」


「そんなはずは……ない……!」


「なぜ、ないと言い切れるのです?」


 カレンは、アルフレッドの揺れる瞳を真っ直ぐに見据えた。


「あなた方がやろうとしているのは、国家を揺るがす大罪です。そのためなら、彼らはどんな犠牲も厭わない。一人の少女の命など、塵芥に等しい。……あなたは、本当にそれでいいのですか? あなたの復讐心のために、本当に愛しているはずの女性を、不幸のどん底に突き落としても?」


 アルフレッドは、もはや何も言い返せなかった。がっくりと頭を垂れ、その肩は絶望に打ち震えていた。彼は、復讐という大義名分と、セリーナへの愛情を履き違え、全てを失おうとしていたのだ。


「……話す。全て、話すから……」


 絞り出すような声が、地下牢に響いた。


「だから、どうか……セリーナだけは、助けてやってくれ……」


 それは、復讐者の仮面が剥がれ落ちた、一人の愚かで、哀れな男の、魂の叫びだった。



 アルフレッドの自白は、数時間にも及んだ。

 それは、カレンとレクシスの予想を遥かに超える、恐ろしく、そして周到な計画だった。


『星喰らいの蛇』の目的は、やはり王国の転覆そのものではなく、内側からの支配にあった。彼らは建国記念祭の当日、王侯貴族が一同に会する夜会で、特殊な香炉を用いて、無味無臭の神経毒を散布する計画だった。その毒は、致死性はないものの、吸い込んだ者を数日間、仮死状態に陥らせる効果があるという。


 王族や大臣たちが一斉に倒れる中、あらかじめ解毒薬を服用していた結社のメンバーとその協力者たちが、混乱を収拾するという名目で実権を掌握。そのまま、傀儡の王太子を立て、事実上のクーデターを完成させる。まさに、血を一滴も流さずに国を乗っ取る、悪魔的な計画だった。


「毒の製造所と、計画書の原本はどこにある」


 レクシスの問いに、アルフレッドは力なく答えた。


「……王都の西地区にある、施療院の地下。表向きは、貧しい人々に薬を施す慈善施設だが、その院長こそが、結社の幹部の一人……」


 カレンは息を呑んだ。その施療院は、王妃が後援する、慈悲の象徴のような場所だったからだ。最も神聖に見える場所にこそ、最も邪悪なものが隠されている。その事実に、カレンは改めて敵の底知れぬ狡猾さを思い知った。


 全ての情報を聞き出すと、レクシスは護衛に合図を送り、アルフレッドを連れ去らせた。彼は王家の名の下に、正式な司法取引の対象として保護されることになるだろう。

 二人きりになった牢の前で、カレンは崩れ落ちそうになる膝を、必死で支えていた。


「……カレン、大丈夫か」


 レクシスが、そっと彼女の肩を支える。


「ええ……。ただ、少し、気分が……」


 人を追い詰め、その心を壊して、情報を引きずり出す。それは、清らかな世界で生きてきた彼女にとって、魂を削るような行為だった。頬の傷よりも、心の傷の方が、ずっと深く、痛んだ。


「君は、よくやった。君がいなければ、彼は決して口を割らなかっただろう」


 レクシスの言葉が、温かくカレンの心を包む。


「さあ、ここからは私たちの番だ。休んでいる暇はないぞ」


 彼の力強い言葉に、カレンは顔を上げた。そうだ、まだ終わってはいない。ここからが、本当の戦いだ。



 その日の午後、ヴァルラン侯爵家の書斎には、カレン、レクシス、そしてこの屋敷の主であるヴァルラン侯爵の三人が集まっていた。

 カレンは、父に向かい、これまでの経緯と、アルフレッドから聞き出した計画の全てを、一言一句、包み隠さず報告した。娘を毒殺しようとし、その変貌ぶりに怯えていた侯爵は、話が進むにつれて顔色を変え、やがて、その目には驚愕と、後悔と、そして、今まで見たこともない、娘への誇りの色が浮かんでいた。

 全ての報告が終わった時、侯爵は椅子から立ち上がると、カレンの前に進み出て、深く、深く頭を下げた。


「……カレン。すまなかった。この父を、許してくれ」


 それは、家の名誉や体面に縛られていた男が、初めて一人の父親として、娘に心から詫びた瞬間だった。


「お父様……」


「お前は、この私が失いかけた、ヴァルラン家の真の誇りを、その身を懸けて守ろうとしてくれた。……もう、お前を一人で戦わせはしない。このヴァルラン家の全てを懸けて、お前の力になろう」


 侯爵の瞳には、かつての弱々しさは微塵もなかった。娘の覚悟が、父親をも変えたのだ。


 建国記念祭まで、あと二日。

 ヴァルラン侯爵家とグライフ辺境伯家は、全ての力を結集し、水面下で目まぐるしく動き始めた。

 レクシスは、侯爵を通じて王宮内の数少ない信頼できる重臣たちと接触。驚天動地の計画を前に、彼らは最初こそ半信半疑だったが、レクシスが提示した緻密な情報と、ヴァルラン侯爵の必死の説得により、徐々に協力体制が築かれていった。

 レクシスの部隊が、施療院の地下へ突入し、毒薬と計画書を押収したのは、祭りの前日の深夜だった。物証は、完全に揃った。


 残るは、建国記念祭当日、犯人グループを一網打尽にすることだけだ。

 作戦会議は、レクシスの研究室で、夜を徹して行われた。


「敵は、夜会の広間に設置された複数の香炉から、一斉に毒を散布する。我々は、その直前に、香炉を偽物とすり替える。そして、奴らが計画実行の合図を送った瞬間、会場に配置した兵士たちで、結社のメンバーを現行犯で捕らえる」


 レクシスの立てた作戦は、完璧に思えた。だが、カレンは地図を見つめながら、静かに首を横に振った。


「……一つ、懸念があります。もし、彼らに予備の計画があったら? 香炉が使えないと分かった時、別の手段で混乱を引き起こそうとしたら?」


 その場にいた誰もが、その可能性を考えていなかったわけではない。だが、それを防ぐ具体的な手立てがなかった。


「私が、会場に入ります」


 カレンは、決意を込めて言った。


「結社のメンバーの顔を、完全に把握しているのは、私とあなただけ。私が貴族たちの中に紛れ込み、彼らの動きを内側から監視します。万が一、不審な動きがあれば、すぐにあなたに合図を送ります」


「危険すぎる!」


 侯爵が、即座に反対した。


「お前を、これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない!」


「お父様。これは、私でなければできない役目です。そして、私自身の戦いの、最後の締めくくりなのです」


 カレンは、静かに父を説得した。レクシスは、何も言わなかった。ただ、カレンの瞳を見つめ、彼女の覚悟が揺るぎないものであることを、再確認していた。


 やがて、彼は重々しく口を開いた。


「……分かった。カレンの言う通りだ」


 苦しそうに言う侯爵の言葉を引き継ぐように、レクシスが口を開いた。


「彼女の洞察力が、我々の作戦の成否を分ける最後の鍵になるだろう。ただし、護衛は万全にする。そして、合図はこれを」


 レクシスは、小さなイヤリングをカレンに手渡した。


「これは魔導具だ。これを軽く二度叩けば、私と、周囲の護衛にだけ聞こえる音が出る。それが、緊急事態の合図だ」


「承知いたしました」


 カレンは、その小さなイヤリングを、お守りのように強く握りしめた。

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