十 冬来たりなば……⑥
半ば茫然としながら、縹の御子は日の宮・東の対屋へ向かう。
『綾の一族 所縁の姫』が誰なのか聞かされて以来、彼は狐につままれたような心地が続いている。
あの後、大王はこうおっしゃった
「詳しい話は紅姫からお聞きになって下さい。我から言えるのは結果と、この結果が容易に覆らない決定事項だということのみ。ここへ至る道は、主に宮の太政大臣と紅姫が調えたそうですよ。母や伯母、そして大王としてこの結果に、特に異を唱える部分は認められません。……縹の御子」
ふっ、と、大王の瞳が和らいだ。
冷徹な為政者の眼ではなく、子の幸せを慮る母の眼であった。
「この後、少しでいいですから東の対屋へ顔を出してみて下さい。紅姫も、貴方と話をしたいと申しておりました故に」
東の対屋へ向かう渡殿を歩いていると、かすかな笛の音が聞こえてきた。
奏している曲そのものは、一般的によく使われている初心者向けの練習曲のようだ。
ただ……その音色に。言うに言えない、不思議な深みが感ぜられた。
(名人の高みにある奏者が奏でれば、単純な練習曲であっても心惹かれる演奏になるものだが。この奏者はおそらく本当の初心者だろう、指使いがぎこちない。それなのに奏でる音色は趣深いとは。一体誰が奏でているのだろう? 少しこちらに無沙汰をしているうちに、笛の才のある子でも新しく来たのだろうか?)
そんなことを思っているうちに東の対屋へ着く。
主殿から先触れが行っているので、すんなりと通された。
相変わらずこちらの対屋の女房は対応に冷ややかさがほの見えるが、まあそれは仕方があるまい。
紅姫がいらっしゃる間へ導かれる。
今日は女童たちと楽器の稽古をしているのだと、先導の女房が言う。
「そう言えばこちらへの道すがら、雅やかな笛の音が聞こえてまいりました。誰が奏しているのでしょう、かなり伸びしろのある奏者ですね」
女房は一瞬立ち止まり、軽く息をついたが、
「さて。どうでありましょうか?」
と、やや投げやりに答えた。
御子は思わず首を竦める。
もしかすると、新しい子に色気を出していると邪推されたのかもしれない。
そんな訳はないのだが、ましろを妻にした自分に、こちらの者たちに信用も信頼もないのは当然だろう。
薄氷を踏むような慎重な対応を、しばらくは心得なくてはなるまい。
(自業自得だが、信頼されていないのは辛いな)
扇の陰で彼はかすかにため息を落とした。
紅姫の部屋に着く。
女童たちは一人もいない。
今からなされる話の内容を慮り、あらかじめ人払いをしたのであろうが、なんとも寒々しい思いが胸をかすめる。
が、それを寂しいと思う資格など己れにないくらい、縹の御子も心得ている。
円座の上で紅姫は、こちらへ目を向け、ほほ笑みかける。
紅梅に白の、雪の下 襲ねの色目が、神々しいまでに白い髪の彼女によく映えていた。
きちんと合わせた襟元から伸びる彼女の細い首がハッとするほど艶めかしくて、御子は軽く狼狽える。
大白鳥神の求婚以来、紅姫は、一足飛びに大人になられたようだ。
「お久しぶりでございます。『あらたまごと』のご準備は、如何であらっしゃいましょう?」
落ち着いた声音でそう問う紅姫は、十一、二の少女とも思えないほどろうたけていた。
「お蔭さまで恙なく。間もなく潔斎に入り、予定通り儀式に参ずることが出来そうです」
縹の御子の返答に、紅姫はうなずく。
「ようございました。何卒ご無事にお務めを終えられますよう、お祈り申し上げます」
形ばかりのやり取りの後、互いに茶菓を嗜み、改めて向かい合う。
「『みどりの宮』の御息所がお決まりになられたようで、おめでとうございます……ああ、いえ」
顔をこわばらせる縹の御子へ、紅姫は気の毒そうに眉を寄せた。
「皮肉でも当てこすりでもありませんよ、今までの我の態度を考えればそう思われるでしょうが。もちろん正直に申すなら、思うところが皆無ではありませんが……それでも」
どこか諦観のにじむ笑みを浮かべ、紅姫は言った。
「あの子が後ろ盾もないまま、身分的にも不安定な囲い者であり続けるのは……やはり良くない話です。我自身も、よく見知ったあの子を必要以上に不幸せにしたくはありません」
御息所になれば余計な気苦労が増えるのは確かだが、『王族の妻』として公に身分が保証される。
また今回の場合は、古くからの朝臣である『綾の一族』という後ろ盾も出来る。
一番良い形に収まったと言って過言ではない。
……しかし。
「紅姫」
お茶で唇を湿らせ、御子は訊く。
「ましろ……鶺鴒の総領娘を。一体どうやって、綾の一族の養女として認めさせたのでしょうか? 彼らは狡猾さも強かさも十分すぎるほどもちあわせております。いえ、そうでなければ長く臣であり続けるのは不可能でしょう。あちらに……何か弱みを握られたということは、ございませんか?」
紅姫は声を立てて笑った。先程の大王のたたずまいに、ひどく似ている。
「その辺りはご心配なく。交渉の筋書きの大部分は、宮の太政大臣がお書きになったのですから。あちらに、下手な弱みを握られるようなことはありますまい」




