九 たとえ、形代であったとしても。①
冬の気配が濃くなり始めた。
月の宮・西の対屋へ向かう縹の御子は、渡殿の途中で一度、立ち止まった。
踏みしめる床板がひどく冷たい。
無意識のうちに彼は、小さなため息をついた。
『あらたまごと』までひと月あまり。
そろそろ本格的に潔斎が始まる。
そんな時期だというのに御子の心は乱れがちで、巫覡の修行の方もあまりうまく進んでいない。
そんな御子の様子を漏れ聞き、宮の太政大臣は心配になったようだ。
『あらたまごと』について話したいこともあるのでと、御子を西の対屋へ呼んだ。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
床の中へ入れた、特別に作らせた背もたれと脇息にもたれかかるようにして、かの方は笑んだ。
どことなくやつれの残る顔であり、まだ節々に痛みはある様子。しかし彼の目には臥せる前の強い輝きが戻っている。
「心ならずもご無沙汰いたしておりました、伯父君さま」
座して深く頭を下げ、御子は言った。
あの日。
紅姫と話をした後いたたまれなくなった御子は、翌日には逃げるように月の宮へ戻った。
その時とその二、三日後に一度、丹雀の館で初めて泊まった日の前日、そして三日夜の祝いの後に二度ほど、見舞いを兼ねて御子は太政大臣を訪ねていた。
痛みはあるものの意気軒高な彼に安堵したのがひとつ、御子自身の心に余裕がなかったことがひとつで、以降、こちらへ訪れなかった。
本音を言えば、『訪れにくかった』のであろう。
『ましろ』こと鶺鴒の総領娘たる妻が心を閉ざしてふさいでいたし、何度こちらから関係を改善しようと紅姫へ働きかけても、まるで梨のつぶてで無視される日々。
御子は、心身ともに消耗していた。
彼女たちを苦しめている原因は己れだとわかっていたが、ではどうすれば良かったのか、どれだけ考えても御子にはわからなかった。
『ましろ』を冥府へ送り、何事もなかったかのように紅姫と結ばれるのが一番、摩擦のない道であったのかもしれない。
だが、あの瞬間にましろを見捨てることなど御子には不可能だ、たとえ何度同じ場面に臨んだとしても。
逆に、ましろのみを引き留めて紅姫を失った場合を考えても、御子は同じくらい不幸だったとしか思えない。
『……でもそれは。身内を大事に思う気持ちであらっしゃいましょう?』
あの朝、紅姫が最後に言った言の葉が、何度も何度も御子の頭の中で巡る。
紅姫はあの日、大切な『縹にいさま』の思い人の命を奪って生きるなら死んだ方がましだ、と言った。
この女のせいで我が最愛は死ぬことになったと、顔を見る度お思いになられるであろう方とこの先も共に生きるのは辛い、とも。
そんな風に決して思わない、と言い切る自信は、御子にはない。
だが、仮にましろのみが生き残ったとしても、紅姫を偲んで密かに同じように悔いたであろうとも思うのだ。
『妹へ、従妹へ向けるお気持ちであり、なずなへ向ける気持ちとは違う筈です』
紅姫の言の葉に、そんなことはない、と彼は反射的に思った。
確かに、身内へ向ける類いの穏やかであたたかな気持ちはある。
だけどそれだけではない。
幼い頃から、否、初めて出会った頃からこの方は伴侶だと、誰よりも大切な方だと、そう感じて御子は生きてきた。
が、なずなへ向ける気持ちとは違う筈という指摘を、否定しきれない己れがいるのも自覚していた。
『我らの父君と、我の母君は。決して仲がお悪くはありません。しかし伴侶として愛し合っているのではないということくらい、我も察しております。あの二方は……互いに心を殺し、お務めとして妹背になられた。我らも……否。貴方さまも、そうなるのだとわかっております』
(……違う。それだけは違う)
もはや怒りすらわかないと言いたげな、紅姫の、感情の抜けた白い顔。思い起こす度に御子は、泣きそうな気分でそう思う。
そんな、寒々しい気持ちであの方と婚姻しようなどとは思っていない。
確かに紅姫へ向ける気持ちは、なずな……ましろへ向ける気持ちと微妙に違っている。
違っているが、でもどこかしら同質の想い……伴侶として恋人として見ている気持ちが、皆無なのかといえばそうでもない。
しかしどれだけ言の葉を尽くして説明しても、このあたりの御子の気持ちは紅姫の心へ届かないであろうこともわかる。
逆の立場で考えてみればすぐわかる。
もし紅姫が、御子付きの童子なり護衛士なりを愛し、貴方も好きだが彼も同じように好きだと言い出した場合。
彼女のもうひとつの恋を、笑って認める度量など御子にはない。
(己れが出来ないことを己れより年下の少女に求めるなど……愚の骨頂だ)
ではどうすればいいのか。
答えの出ない、堂々巡りの物思いが続いている。
深く叩頭する甥御へ、宮の太政大臣は微苦笑をもらした。
心なしかやつれている御子の姿に、彼は憐れみに近い痛みを感じる。
過去の愚かな己れとは違うが、愛する者を愛するが故の悩みが、この少年に近い若者の心を陰らせていることはわかっている。
茶菓を用意させた後、太政大臣はそれとなく人払いをして姿勢を正した。
「お顔の色が優れませんね、縹の御子。……丹雀の館の人はこのところ、どうお過ごしですか?」




