八 霜降⑧
さて。
場所が変わり、丹雀の館がある辺りとは逆方向の王都の外れ・色街。
そろそろ店々に灯りが灯り始める時刻である。
その一角に、こじんまりしているが知る人ぞ知る上品な揚屋がある。
『燕謡亭』だ。
ここの女将は『つばくろ』という通り名の女。
ごくまれに現れる、十歳ほどで成長が止まる『愛でられ者』と呼ばれる特殊な体質の女であり、童女や童子を好む性癖を持つ者相手の茶屋で長く務めた後、この店を持った。
この体質を持つ者は元々、老いにくい上に長寿である。
つばくろがここに店を構えてからすでに五、六十年、いやもっと経つのではないかと言われている。
その老舗と呼んでいい揚屋の裏手にある、小さな離れにつばくろは暮らしていた。
女将としての差配は、近頃は娘分の若女将に任せて半分隠居の状態だったが、『燕謡亭の女将』ではない方のもうひとつの顔は未だ現役。
こちらは残念ながら、跡継ぎに相応しい『器』を持つ者がいないのだから、仕方がない。
(……はあ、やれやれ)
床に柔らかな敷物を敷き、目を閉じて横になっていたつばくろは、のろのろと息を吐きながらゆっくりとまぶたを開いた。
(妾に似合わぬ節介を焼かせおってからに。大白鳥神のお血筋の方には、面倒な方が多いねえ)
胸の内でぼやきながらも、つばくろは優しい笑みを浮かべていた。
悩み苦しみ、無理に我を通したりそれでいて相手を気遣ったりする若い恋人たちの姿は、長く生きてきた者の目には眩しくもほほ笑ましい。
彼女自身はそんな甘苦い青春を過ごすことなく、仕事柄、偽りの軽薄な愛をうそぶくしかなかった。
その苦しみや恨みを、彼女はようやく昨今、認めて許せるようになった。
もう一度経験するかと問われればまっぴらごめんだと思うが、仮初めの儚い愛でも必要とする者には救いだったのだと、ようやく腹から納得出来るようにもなった。
(愛しいとか恋しいとかの欲を伴った感情は、綺麗なだけじゃすまないもんさ。苦いのも辛いのも飲み込んで、手探りでいい方向へ進むんだよ、あんたがた)
ふと彼女の顔が暗くなった。
互いを縛り合った運命の恋人たちから、意図せずはじき出されたもう一人の乙女を思う。
(貴女様にゃ何の罪もないし、少なくとも今生で悪いこともしていない。業を背負って生まれてきたのは、別に貴女個人のせいじゃないってのに……ひどい外れくじを引いてしまったねえ。この世で一番貴い血を濃く引いたというさだめのせいで、余計なものを背負う羽目に陥った上……信じていた男が心変わりをするんだからさ。やりきれない話だよ)
だが、大白鳥神の神気である光あふれる九重の内深くで大切に育てられている、大王の総領娘に関わるなど、燕雀の頭・つばくろであっても簡単ではない。
姫君ご本人が望むのならばまだしも、公的には色街にある揚屋の女将ごときの下賤な者、そもそも関わることすら出来ない。
(妾が依り付かせる『くろ』の神気は、そもそも大白鳥神の神気と相性がよくない。互いに食い合う力だからね)
あの方の心を救う努力をするのは、あの方に不当に重い業を背負わせた大白鳥神の役割だとつばくろは思うが。
峻烈な気性の大白鳥神が、たとえ自分の血筋の末裔であったとしても、苦しみを受け止めて優しく慰めたり諭したりするとも思えない。
(大白鳥神が垂れ流した昏い思いが凝って、王族へ被さる業になったんだよ、わかっているのかどうか妾は知らんがね。責任を取れとまでは言わないが、優しくあの子の話を聞くくらいはしたらどうだい?)
始祖大御神・『あお』のみことの末子たる神々の王へ、つばくろは胸の中で呼びかけた。
当然ながら応答はない。
が、世界の隅で何かが小さく揺らいだのを彼女は感じた。
苦笑じみたかすかな笑みを浮かべ、つばくろは再び、ゆっくりとまぶたを閉じた。




