六 大白鳥神の禁術④
常にない空気の震え……に、大王はハッと顔を上げた。
(これは!)
『大白鳥神の禁術』のひとつ、自らの身体へ神をおろした後、『神になった』建前で神域へと飛翔する術。
『神域』であるのなら、自らの『光』の領域だけでなく『闇』や『夢』へも、行くだけならば行ける。
ただし依りついた神気が依代の寿命を糧にする、前提で。
大王は目を落とすと、力なく横たわり、かすかな呼吸を繰り返す彼女のただひとりの娘・紅姫をじっと見つめた。
紅姫が危篤になった上、縹の御子が人事不省に陥ったと聞き、あわてて紅姫が臥せっている対屋へ向かったのが昼過ぎ。
そして、縹の御子は深く眠ってしまったが行き違えるように紅姫は息を吹き返したという、どう解釈していいのかわからない話を、大王はそば付きの者らから聞いた。
二人とも、目は覚まさないものの今すぐ儚くなるような兆候はない、という薬師の診立ても聞き、ひとまずは安堵した。
だが明らかにこれは普通の事態……少なくとも、手筈通りに事が進み、紅姫の魂に深く巣食う業のさだめが解消されたとは思えなかった。
大王はこの日の務めをすべて中断し、紅姫の枕元にいると決めた。
何が起こったのかはわからないが、何が起こってもすぐ対応できるよう、密かに護衛士たちに命じて丹雀の館の様子を改めて探らせもした。
宮の太政大臣が彼の筆頭護衛士だけを連れ、禁中に向かっているという知らせを受け、大王の中で嫌な予感が大きくなった。
形代を使う紅姫の魂呼びに、確実に不測の事態が起こったのだと覚る。
(どれほど綺麗ごとをならべ、『血を次代に繋げる為』だと言い訳したとしても。何の罪もない少女を形代に使うこの儀が、大白鳥神の本性から卑怯と断じられ、我らに神罰が下っても仕方がないと覚悟していましたが……)
元よりそれに対する覚悟はあった。
この儀に関わった、あるいはこの儀を知りつつ黙認していた大王の世代の『大白鳥神の器』である大人たち、すなわち大王に月影の君、宮の太政大臣三人の命が、この世ならざる力によって奪われる可能性があるかもしれない、と。
仮に命は奪われなかったとしても、『器』であることを祖伸から拒まれる可能性もある。
であったとしても、縹の御子がもうすぐ成人になる。
最悪『大白鳥神の器になれる巫覡が、当代に皆無』という事態は避けられるだろうとも、彼らは考えていた。
しかしその大事な縹の御子すら昏倒したまま目覚めないような事態など、大王をはじめ大人たちはまったく想定していなかった。
「大王」
不意に呼びかけられ、大王は軽く驚く。
月影の君……夫だった。
用がない限りこの宮殿で会うことも久しい夫だが、さすがに昨今は紅姫の様子を見に、こちらへちょいちょい来るようになっていた。
来るが、この二人があまり親しく話をすることはない。
決して仲が悪いのではないが、互いが互いに、相手が本当に想う者が誰なのかを知っているだけ、会うのも気が置けるのが実情だった。
その夫が珍しく大王のすぐそばへ寄り、軽く目顔で合図してそばにいる者たちを遠ざけた。
そして彼は、扇で口許を隠し加減で囁く。
「水晶の御神体の予備を、御物の蔵から出します。許可をいただきたい」
「なっ……」
叫びそうになった次の瞬間、大王は夫君の真意を覚り、口をつぐむ。
(そこまでしなければならない……、仮にそうしてもどのくらい取り返せるかわからない、事態、だというのですね)
大王はわななく身を抑え、息を調えた後にうなずく。
「わかりました。月影のお心のままになさいませ」
それからしばらく後の、夕刻近く。
早い秋の日は、すでに西の空で燃えていた。
子供たちの容体は変わらない。
静かな呼吸がなければ儚くなっているのではないかと思う顔色で二人とも、静かにまぶたを閉じていた。
そして大王は、空気の揺らぎにハッとした。




