五 ゆく鳥・追う鳥①
縹の御子は今、夢と現の狭間にいた。
己れがしっかりまぶたを閉じ、未だ眠っている自覚はあった。が、辺りのかすかなざわめきや気配を、うっすら感じ取っている自覚もあった。
(紅姫、紅姫、紅姫!)
几帳を隔てた向こうに、紅姫の気配を感じる。
寝息にまじる苦しそうな息遣い。起きて様子を見に行かなければと、御子は眠りの中で焦る。
女房たちに拝むように諭され、寝具に身を横たえてどのくらい経ったのだろうか?
ずいぶん長く眠っていたような、短い時間で驚くほど深く眠った後のような、そのどちらともいえない感覚が目覚め切らない身体にまとわりついている。
(紅姫、紅姫、紅姫!)
逝かないで下さい!
無意識に胸でつぶやいている言の葉に、御子自身がぎょっとする。
縁起でもないと己れを叱りつける。
だが、そくそくと忍び寄る不吉な予感を、完全に振り払うことは出来なかった。
ふがいなさに歯噛みした、その瞬間。
突然、まるで引きずり込まれるように、御子の眠りが深くなった。
薄闇の草原。
空に墨を流したような雲が冷たい風に吹かれてたなびく、枯れ草の広がる果ての見えない草原。
「……ああ」
またこの夢か、と、御子は苦く思う。
さわさわさわ、と、草を踏んで歩く軽い足音。
不意に白い影が御子の前をかすめる。
「母君さま!」
白い影は、幼い頃に亡くなった御子の母君・縹の御息所だ。
こうして夢で出会う毎に御子は、声を限りに母君へ呼びかける。
しかし母君は決して振り向かない。
最初に見た時から今まで、ただの一度も。
白い衣を着た母君は、つややかな栗色の髪をなびかせて草原を進む。
その先に、まるで大切な目的があるかのような迷いのない足取りだ。
「母君さま、お待ち下さい!」
無駄とわかっていても御子は呼びかけ、母君を追う。
母君・縹の御息所は信じられない速足で、まっすぐ草原を進む。
どれほど必死に追いかけても、決して御子は母君に追いつかない。
わかっていても追わずにいられようか。
ある日突然、流行り病に斃れた母君。
さようならも言えず別れざるを得なかった母君。
叶うことならばもう一度だけ、互いの目を見て言の葉をかわし合いたい。
「母君さま、母君さま!」
叫びながら、力の限り御子は走る。
唐突に高い声が草原に響き渡る。
断末魔を思わせる鳥の声。
たとえ今まで何度聞いていても御子は、初めて聞いた時と同じようにぎくりと身を竦ませ、足を止める。
しかし母君は振り返らない。
おそらく、まったく聞こえていないのだろう。
再び鳥は鳴く。
いや、泣いているのかもしれない。
血を吐きそうな絶望に満ちた声が御子のすぐ後ろで響き……乱れた羽音を立て、大きな白い鳥が頭上を飛んでゆく。
甲高い鳥の声は、言の葉と二重奏のように草原に響く。
『いくな、いかないでくれ!お願いだ縹ー!』
断末魔に似た鳥の声は、長く尾を引いて御子の耳へ突き刺さる。
(……父君さま)
あの鳥は父。
『雅男』と呼ばれる前の、御息所を深く愛していた月影の君。
言われなくともわかる。
まっすぐ迷いなく冥府へ向かう母君を追う、大きな白い鳥。
決して追いつかないと知りながら、自らも冥府に落ちるぎりぎりまで追う白鳥の深い哀しみに、御子の胸は強く締め付けられる。
あの方が今現在、どうしようもなくだらしない男であったとしても。
死へと向かう母君を追う彼の心には、どこまでもまっすぐな真の思いがあった。
御子が、芯から父を嫌いになれないのは、あのときのあの思いに一筋の嘘もなかったからでもある……。




