四 丹雀の館③
その日のその時、なずなは、氷室から出されて切り分けられた氷を取りに、厨へ向かって渡殿を歩いていた。
紅姫のお熱は、いったん下がったかと思えばまた上がるを繰り返している。
日を追うにつれ姫のお身体が弱ってゆかれているのを、そばにいる者は皆感じ取っていたが、誰も何も言わない。
額やお身体を冷やす為の氷水もすぐに温くなってしまうので、日に二度ほどはそば付きの誰かが、厨へ氷を取りに行く。
その時はたまたま、なずなが向かうことになった。
渡殿で彼女は、すっきりとした立ち姿の老練そうな衛士がいるのを見た。
あまり見かけない衛士だ。
見かけないが、まったく知らない訳でもないというか、多分どこかで出会っている、そんな漠然とした記憶があった。
最近こちらへは、お見舞いに来られる貴い方が多い。おそらくそのうちのどなたかの護衛士なのだろう。
なずなはそう判断し、軽く目を伏せるようにその衛士に目礼して、急ぎ足で厨へと向かった。
「なずな殿」
不意に呼び止められ、彼女は驚いて足を止めた。
まさか名を呼ばれるとは思わなかった。
「突然お声をかけてしまい、失礼する」
衛士は静かな声で言うと軽く目礼をした。
「我は宮の太政大臣の護衛士を務める佐嘉希と申す者。主の命により参りました、実はなずな殿にお頼みしたき事が。少しお時間をいただけませんかな?」
「……みやの、おおきおとど?」
大王や月影の君に次ぐ貴きお方の名に、なずなは思わず首を傾げる。
そのような方が、紅姫付きとはいえ女童のひとりに過ぎない己れなどに、わざわざ名指しで『頼みたい』ことがあるなど、信じられないのが正直なところだった。
「不審に思うのもお困りになられるのも当然。第一お務めのさなか、勝手なことは出来ますまい。その辺りは、なずな殿のお務めを代わる者を用意しているのでご心配なく。……おい」
衛士が小さく首をしゃくると、どこからともなく地味な色合いの小袿を身に着けた華奢な女が現れた。
氷を入れた桶を捧げ持ち、会釈しながら足早になずなの横をすり抜けていった。
「我の部下がなずな殿の代わりを務めさせていただくので、気を病まれることはない」
そう言った後、だし抜けに彼はやわらかく笑んだ。
優しげな、こわばった心がふっとゆるむような、極上のほほ笑み。
つられるようになずなは笑みを返し……記憶が曖昧になった。
ハッと気付いた時、なずなは見知らぬ部屋にいた。
何故か彼女は、香りの高い緑茶の入ったゆのみを手に円座に座っている。
「……え?」
おまけに、かたわらに置かれた高坏には上等の餅菓子まである。
自分がどうやら、誰かの客としてもてなされているらしいと気付き、慌てて辺りを見回した。
ひどく静かで見覚えのない部屋であったが。
設えのあれこれの雰囲気から、ここが大王のおわす主殿のどこからしいと、なずなは見当をつける。
(で、でも、何故?)
部屋の格といい上等の茶菓といい、一介の女童に対するもてなしとは思えない。
混乱し、困惑している彼女の耳へ、涼やかな衣擦れの音が聞こえてきた。
立ち居振る舞いの美しさがしのばれる衣擦れの音、これはかなり高貴な人に違いない。
なずなは深く腰を折り、頭を下げた。
「楽になさい。無理を言って来てもらったのはこちらだ」
太政大臣の声。
恐る恐る、彼女は顔を上げる。
目が合うと、かの方はひどく苦しそうな顔で苦く笑った。
紅姫が寝付く前はいつも、茶目っ気のある顔で冗談ばかり言っていたこの方とも思えない、余裕のない顔だった。
「なずな……いや。鶺鴒の里の、次代の大巫女よ。貴女に頼みがある。いや……」
太政大臣は更に苦く笑った。
「頼み、ではないな。貴女に拒否は出来ないことを頼むのだ、王族としての命令でしかない。命令でしかないが……可能なら。我らの『頼み』に応えるつもりで、貴女にはこれから先の話を聞いていただきたい」
「……何、でしょうか?」
太政大臣のただならぬ様子に、なずなは固唾を吞む。
「魂呼びの儀を行い、冥府へ沈もうとしている紅姫の魂を、貴女に呼び戻していただきたい」
耳を疑う言の葉の数々に、なずなは更に混乱した。




