後編
ばしんと資料を机に放ったバルフレアは、投げやりなため息をついてから珈琲を一気に飲み干した。
長くて波打つ髪を鬱陶しげに振り払い、カツンと踵を鳴らすと椅子に腰を下ろす。揺れた髪が視界に入って舌打ちがこぼれた。
ここ数日、ずっとこの調子である。
引っ込み思案がすぎる幼馴染にキツく言ってしまってから、何度も彼女の部屋へ足を向けたけれど途中で歩みが止まってしまう。
きっと、泣いただろう。
疲れてへとへとになっているところで、あんなにムキになるなんて大人気なかった。そうは思っても、まだ謝りに行けないでいる。
せっかく家の外に出たのに、引きこもっているなんてもうやめてほしかった。
あの事件がなければ、チェルシーはお転婆で太陽みたいに笑顔がまぶしい女の子だったのに。男を見れば怯えて固まるようになってしまい、初めはバルフレアでさえまともに目を合わせてもらえなかった。
幸いなことに、バルフレアは線の細い少年だった。
だから髪を伸ばし、体の線が出ないよう裾の長い洋服を重ね、口調も変えた。
もう背も伸び、声も低くなったけれどそのままでいる。そうしなければ、チェルシーの隣にはいられなかった。
けれども、月日は流れている。
日陰にしがみついて、人目を避けているのを見ると歯がゆさを感じる。
あのことは、チェルシーに罪はない。いくら狙われやすそうなやつがいたって、襲っていい理由になるわけないじゃないからだ。
だが、俯いて強張らせた顔は、ある意味で目立つ。また二の舞になるのではないか。いつまでも姫殿下の庇護にいるのも限界がある。
針の腕だって認められているのだから、少しだけ踏み出せば、またあの笑顔が戻るのではないかと思ってしまうのだ。
「レア。きみのお針子さん、頑張っているんだねえ」
誰も近寄らせない空気をこれでもかと出しているのに、一向に気にしない同僚が朗らかにこちらを振り返った。
不機嫌さを隠しもしないで視線だけ向けると、相手は薬瓶の蓋をキュッと締め直して微笑む。
「きみの幼馴染のあの子だよ。姫様のそばで縮こまっているところしか見たことがなかったから、さっきは感心してしまったよ」
「は?」
いったい、なんのことだ。
眉を寄せて見上げると、相手はきょとんと瞬いてから言葉を続ける。
「騎士団の広間で採寸していたけど。姫様のおっしゃっていた正装の件でしょう?」
「は?」
正装? 騎士団の?
たしかに、そんな話があった。騎士団の団長が変わるのに合わせ、機能と装飾を見直すのだと聞いている。王太子殿下と姫殿下が話を進めていてまだそれほど具体的には決まっていないのだと思っていたのだけれど。
動き出したところでチェルシーは関係ないはずだ。なにせ、姫殿下は事情をご存知で、今の今まであたたかで安全な温室に囲ってくださっていたのだから。
にもかかわらず、となると。
原因は自分か。バルフレアがああ言ったからか。
それほど、チェルシーに衝撃を与えたのか。変わろうと、思ってくれたのか。
だが、しかし、騎士団。
「どうしてあいつはやることが極端なんだっ!」
バルフレアは思わず椅子から立ち上がった。
人の少ない食堂だって嫌がっていたし、廊下ですれ違うだけでも消えそうなくらい縮こまっていたのに。
騎士たちの領域なんかにいったら心臓が止まってしまうんじゃないか。
「たしかに煽ったけど! 真っ向から男の巣窟に飛び込むことないだろうっ! なにかあったら――」
「レア。彼女が決めたことだろう? きみがその決意を踏みにじってどうするの」
薬瓶を順番に並べながら、同僚は落ち着いた声で首を振る。カチリカチリと硝子の音を立てながら、彼は棚の枠を埋める手を止めずにそのまま続けた。
「うちの騎士団だから、そうそう危ないことにはならないよ。まして、姫様の仰せだし。付き人だっている。それに、まぎれもないきみの言葉が彼女を動かしたんだよ」
最後まで責任持って見守りなよ。
わかったように微笑む彼にバルフレアは舌打ちを返す。
ボスンと椅子に戻って乱雑に自分の髪を混ぜてから、投げっぱなしだった資料を開いて口をつぐんだ。
***
騎士団の正装は今までただの黒い上着に金ボタンが並んでいるだけだった。
祭事のときに着用するが、万が一このときに動きづらいと騎士たちには不評。王家に仕える騎士なのだから、もう少し装飾があってもよいのではないかと市井からの声もある。
黒い生地はそのままになった。
膝丈の上着は、袖口と併せの裾にそって銀糸の刺繍を入れる。ひし形がいくつも帯状に連なる形は魔除けを意味する図案で、布を裏返すと表面とはちがう模様が刺される。
ささやかな華やかさに、騎士として堅実で囚われない心を吹き込んだ。
それはチェルシーの願いと祈りである。
自分のような思いをする人が少しでも減るように。纏うその人が己を律することができるように。降りかかる災いがなくなるように。
肩から胸にかけては織紐を飾った。
姫殿下は慈善活動に力を入れていらっしゃって、孤児院や修道院をよく訪れている。王家からの援助だけでは成り立たない彼らは、菓子や衣類を作って売ることで生計にあてていた。
チェルシーは姫殿下と話し合って、騎士団の正装を作るのに彼らに協力してもらうことにしたのだ。仕事として依頼し、対価は王家が支払う。寄付ではなくきちんとした賃金にあたるから、周りからの反感も買いにくい。
服自体を仕立てるのは王宮にいるお針子たち。刺繍は修道院。飾り紐は孤児院。
たくさんの人たちの手がかけられ、ひとつのものができる。
当たり前のことかもしれないが、チェルシーにとっては初めてだった。
「チェルシー、糸が絡まっちゃった」
「見て見て! きれいに模様が出たよ」
薄い木の板に切れ目を入れて、引っ掛けた糸を順番にかけながら編む。初めは覚束なかったものの、慣れれば子供たちは立派に務めを果たしてくれた。
鍵編みにしようか糸を縒り合わせようか、悩んだけれど。緩むことなく強度が不可欠ということでこの方法にしたのである。
「チェルシー。刺繍の大きさは大丈夫かしら」
「飾り紐の長さはみんな同じでいいの? 金具はもう縫いつけてあるわよ」
「あらやだ、もうお昼ね」
「チェルシー、食堂に行きましょう」
子供たちに囲まれ、修道女たちと談笑し、騎士たちに試着をしてもらう。
尻込みをしていたチェルシーを、姫殿下は可愛らしい笑みで容赦なく放り込んでくださった。あとはもう、自分が逃げなければいいだけ。
「よろしくな」
「試着も、声をかけてくれれば空いてるやつにさせるから言ってくれ」
あんなに避けていた騎士たちなんて、初めはチェルシー相手に恐る恐るだったが、ガチガチに緊張しているチェルシーに吹き出してから、あまり気をつかわなくなった。
後ろに下がりたがる足を踏ん張って、目だけはそらさずにいるチェルシーは姫殿下曰く威嚇している子猫らしかったが。
それでもやればやるだけ、試行錯誤を重ねれば重ねるだけ、チェルシーは怖いものがないことに気づいた。
周りを見れば、笑いかけてくれる顔。
振り返ると自分を呼ぶ声。
知らなかった。こんな、こんな日常はチェルシーには戻ってこないと思っていた。胸が、あたたかい。じんわりと広がって、涙が出そうになるほどうれしかった。
それなのに、足りないものがある。
どこか一箇所、ボタンをかけ忘れているような焦りがずっとチェルシーの胸に居座っていた。
「会いに、行かないの?」
姫殿下が瑞々しい碧の瞳をチェルシーへ向けた。
様子を見に来てくださると、殿下はチェルシーの顔を覗き込んで決まってそうお聞きになる。
チェルシーは首を振った。これも、何度目だろう。
足りないもの。隣にいつもいたはずの、呆れ顔。
あの日から、バルフレアとは言葉を交わしていない。
たくさん日は経ったのに、姿は見かけるのに、目も合うのに。
人に囲まれた広間で、入り口に佇む白衣が見えた。灰色の瞳はまっすぐとチェルシーを見つめると、静かに踵を返す。
呼び止めなかった。
まだ、ダメだと思った。だからチェルシーは、仕事に精を出す。しゃんと顔を上げて、背筋を伸ばした。
そしてようやく迎えた、新しい騎士団長の就任式。
差し込む日差しが眩しい大広間のなかで、厳粛に執り行われている。
正面に、穏やかに微笑む陛下と王妃様。
両脇に王太子殿下とあの青いドレスを纏った姫殿下がお座りになり、宰相や文官も並んだ。
御前には大勢の騎士たち。
まるで見えないマス目があるかのように、列は少しも乱れていない。
黒地に刺した銀糸が見事に映えた。
「……ちゃんと、できたよ」
一歩前に出て陛下へ膝をついた新しい騎士団長。
剣の柄に額を当てて誓約を交わす声が、しんとした広間に波紋が広がるように響いた。
広間の入り口、一番隅っこからその一部始終を目に焼き付けたチェルシーは、隣に音もなく佇んだバルフレアを見上げた。
わっと湧いた歓声に、チェルシーの声は混ざっていく。
「たくさんの人に会って、ちゃんと採寸できて、姫様のお役にも立てた」
背を正したまま、注がれる灰色の瞳をしっかりと見据えた。
視界が滲んでも、視線はそらさず、言葉にすることもやめない。やめたくなかった。
「踏み出した先は、思ってたよりずっと、楽しかったよ……!」
自分がひとりで縮こまっていただけだった。
そうなのだろうと思っても、踏み出す勇気はなかった。それをくれたのは、バルフレアの叱責である。
チェルシーの気持ちを揺さぶって動かしてくれた。姫殿下が方法を授けてくれたが、それだけだったらきっとチェルシーは正装の作成なんて断っていただろう。
話すこともできなかった数ヶ月。
見放されたかもしれないと心を凍りつかせそうになったのは、一度や二度ではなかった。
それでもチェルシーは、黙ったまま向けられる灰色の瞳を信じた。信じたかった。
「だから、もう知らないなんて言わないで。ひとりじゃ、まだ立てないから。レアの手を貸してください。一緒にいるのは、レアがいいから」
堪えきれなかったものが、にボロボロと瞼からこぼれてしまう。
灰色はもう溶け合って見えない。
けれども、あたたかいものがチェルシーの頬を拭ってくれる。
あのやわらかな低い声が、そっと呆れを含んで耳に届く。
「私以外の誰があんたを支えられると思ってんの」
さらりとチェルシーの髪を梳いてくれる手。
「よく、頑張ったね。お疲れさま」
大きくて骨張っていて、立派な男の人のそれなのに、目を逸らしていたのは自分だ。
ほっと息をついたとき、ポロリと最後の雫が落ちた。
くすりと笑った彼は丁寧にその涙を拭ってから、行こうと促す。歓声を背中で聞きながらどちらともなく手を取った。




