第4話 最後のフライト
その日の空は、これ以上ないほど澄み切っていた。
雲ひとつない青空。
風も穏やかで、まるで世界中が彼のために道を空けているようだった。
「準備はいいか、エルマ」
グレイド様が私に手を差し伸べる。
私は頷き、その手を取った。
目の前には、ヴェルドアがいる。
昨日は立ち上がることもできなかった彼が、今日は不思議と力が漲っているように見えた。
最後の灯火が、燃え上がっているのだ。
『よぉし、乗れ乗れ! 今日は特等席だぞ!』
ヴェルドアが明るい声を上げる。
その背中には、特製の大きな鞍が取り付けられていた。
私とグレイド様、そして双子のアレンとレン。
家族全員が乗れる広さだ。
「わーい! ヴェルドアに乗るの久しぶり!」
「ポチも一緒だよ!」
双子ははしゃぎながら、ポチを抱えてよじ登る。
彼らはまだ、これが最後だとは聞かされていない。
でも、どこかよそよそしいというか、いつもよりヴェルドアに甘えているように見えた。
子供の勘は鋭い。
言葉にしなくても、何かを感じ取っているのかもしれない。
「……行こうか」
グレイド様が私を抱き上げ、鞍に乗せてくれた。
温かい背中の感触。
ゴツゴツとした鱗の手触り。
初めて乗った時の恐怖と、その後に感じた絶対的な安心感を思い出す。
『しっかり捕まってろよ! 振り落とされても知らねぇぞ!』
ヴェルドアが吼える。
翼が大きく広げられた。
風が巻き起こる。
ふわり、と巨体が浮いた。
「飛んだ!」
「高い! 高いよ!」
双子が歓声を上げる。
公爵邸がみるみる小さくなり、おもちゃの家のようになっていく。
庭で手を振る始祖竜のおじいちゃんが、米粒のように見えた。
風を切る音。
眼下に広がる緑の森と、青い海。
かつて世界を震撼させた黒竜の飛翔は、全盛期ほどのスピードはないけれど、力強く、そして優しかった。
『どうだ、エルマ! 俺の背中は最高だろ?』
脳内に響く声。
得意げで、誇らしげな声。
「ええ、最高よ。世界一の乗り心地だわ」
私は涙声にならないように気をつけて答えた。
グレイド様が、後ろから私の手を強く握りしめる。
彼もまた、噛み締めているのだ。
この背中の温もりを。
相棒と共に空を駆ける、最後の時間を。
しばらく飛んでいると、ヴェルドアが首を巡らせ、背中の双子を見た。
『おい、チビども』
「なぁに、ヴェルドア?」
双子には声は聞こえない。
けれど、ヴェルドアの瞳が何を語っているのか、彼らには伝わっていた。
『これからは、お前らがパパとママを守るんだぞ。ポチと一緒に、強くなれよ』
言葉なき遺言。
アレンとレンは、しばらく黙ってヴェルドアを見つめていたが、やがて力強く頷いた。
「うん。任せてよ」
「僕たち、もっと強くなるから」
約束が交わされる。
世代交代の儀式だ。
ヴェルドアは満足そうに目を細め、再び前を向いた。
『……あぁ、いい風だ』
彼は翼を大きく広げ、風に乗って滑空した。
まるで、空と一体になるように。
自由で、気高くて、何者にも縛られない魂。
私は必死に、この景色を目に焼き付けた。
彼の背中から見る世界。
彼が愛し、守り抜いてくれた世界。
「ありがとう、ヴェルドア」
風に紛れて、そう呟いた。
聞こえていたのか、彼は小さく喉を鳴らした。
***
一時間のフライトを終え、私たちは庭園に戻ってきた。
着地と同時に、ヴェルドアの足から力が抜けた。
ズズン、と巨体が地面に沈み込む。
「ヴェルドア!」
私たちは慌てて飛び降りた。
彼はもう、頭を上げる力も残っていないようだった。
地面に顎を乗せ、荒い息を吐いている。
『……ふぅ。楽しかったなぁ』
満足げな声。
もう、痛みも苦しみもないようだった。
ただ、静かな眠気が彼を包み込んでいる。
双子が駆け寄り、彼の顔に抱きついた。
「ヴェルドア、お疲れ様」
「ゆっくり休んでね」
彼らは泣かなかった。
ヴェルドアとの約束を守るように、笑顔で見送ろうとしている。
なんて強い子たちなんだろう。
グレイド様が、ヴェルドアの鼻先に額を押し当てた。
「……相棒。お前は私の誇りだ。今まで、本当にありがとう」
『へっ。泣き虫な団長様だぜ』
ヴェルドアが微かに笑った気がした。
そして、その金色の瞳が、最後に私を捉えた。
『エルマ……』
「なぁに?」
『背中……もうかゆくないわ』
それが、彼の最後の言葉だった。
まぶたが閉じられる。
呼吸が、ゆっくりと、ゆっくりと浅くなり……そして、止まった。
巨大な体が、ただの物体へと変わっていく感覚。
魂が抜けていくのがわかった。
空へ。
彼が一番愛した、あの高い空へ。
静寂が庭園を包んだ。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、穏やかな風だけが、彼の眠る体を優しく撫でていた。
「……おやすみなさい、ヴェルドア」
私はそっと、彼の鼻先にキスをした。
涙が溢れて、止まらなかった。
でも、不思議と心は満たされていた。
悲しいけれど、寂しいけれど、そこには確かな「完結」があったから。
彼の一生は、愛に満ちていた。
私の「孫の手」から始まり、家族の愛に包まれて終わった。
これ以上ない、幸せな竜生だったはずだ。
ポチが、空に向かって長く、高く吠えた。
それは別れの挨拶であり、新たな時代の幕開けを告げる産声のようにも聞こえた。
私たちはいつまでも、偉大な友の眠る姿を見守り続けた。




