第3話 最強の竜の老い
その日は、いつもと変わらない穏やかな午後だった。
訓練場では、双子がポチと模擬戦の反省会をしている。
私は木陰のベンチで、ヴェルドアのブラッシングをしていた。
最近、彼の寝る時間が増えた気がする。
鱗の艶も少し落ちて、白髪のように色素の薄い部分が目立つようになっていた。
「ヴェルドア、ここ痛くない?」
『ん……あぁ、大丈夫だ……』
返事が遅い。
いつもなら「そこそこ! もっと強く!」と注文してくるのに、今日はされるがままだ。
大きなあくびをして、彼は重いまぶたを閉じた。
『……眠ぃな。ちっと寝るわ』
「うん。ゆっくり休んでね」
私は彼が眠るのを見届け、ベンチに戻った。
隣に座っていた始祖竜のおじいちゃんが、ぽつりと呟いた。
『……そろそろじゃな』
「え?」
『あやつ、もう長くないぞ』
心臓が止まるかと思った。
おじいちゃんは、いつも通りお茶を啜りながら、静かに、けれど決定的な事実を告げた。
『寿命じゃよ。竜といえど、命に限りはある』
「寿命……? だって、竜は何百年も生きるって……ヴェルドアはまだ……」
『確かに、普通の竜ならもっと生きる。じゃが、あやつは太く短く生きた。幾多の戦場を駆け、無茶な脱皮をし、全力で暴れ回った代償じゃ』
おじいちゃんは、眠るヴェルドアに優しい視線を向けた。
『それに、満足してしまったんじゃろう。次代の芽が育ち、守るべきものが安心できる場所を得た。……緊張の糸が切れたんじゃよ』
双子の方を見る。
アレンとレンが笑い合っている。
ポチが元気に跳ね回っている。
あの子たちの成長が、ヴェルドアの寿命を縮めたというの?
そんなの、あまりにも……。
「嫌です」
私は立ち上がった。
「治します。どんな薬でも、魔法でも使って……」
『無駄じゃ』
おじいちゃんが首を横に振る。
『老いは病ではない。命の器が満ちたのじゃ。無理に引き伸ばせば、あやつの誇りを傷つけることになるぞ』
誇り。
その言葉に、私は言葉を失った。
その日の夜。
グレイド様が帰宅すると、私はすぐに事情を話した。
彼は驚かなかった。
静かに目を伏せ、「そうか」とだけ言った。
「知っていたのですか?」
「……薄々はな。最近、念話の声が弱くなっていた」
グレイド様は竜舎へ向かった。
私も続く。
ヴェルドアは目を覚ましていたが、体を起こそうとして、よろけて崩れ落ちた。
『わりぃ。足に力が入らねぇや』
苦笑するような声。
私は駆け寄って、彼の首に抱きついた。
「ヴェルドア! ごめんね、気づかなくて……!」
『泣くなよ、エルマ。湿っぽいの嫌いなんだよ』
大きな舌が、私の頬を舐める。
ザラザラした感触。温かい。
でも、その温かさが、以前よりも弱々しい。
「治すわ。世界中の名医を集めて、絶対に……」
『やめとけ。俺は、もう十分だ』
ヴェルドアが遮った。
金色の瞳が、穏やかに私を見つめている。
『グレイドと会って、お前と会って、チビたちが育つのを見届けた。……これ以上、何を望むってんだ? 最高に楽しい竜生だったぜ』
満足しきった声だった。
後悔なんて欠片もない。
彼は自分の死を、当然の帰結として受け入れているのだ。
「でも……私は嫌よ。寂しいわ」
『わがままだなぁ。……ま、俺も寂しくねぇって言ったら嘘になるけどよ』
ヴェルドアは視線をグレイド様に移した。
『グレイド。エルマを頼んだぞ。お前が泣かせたら、化けて出るからな』
「……ああ。約束する」
グレイド様の声が震えている。
最強の騎士団長が、泣くのを必死に堪えていた。
相棒との別れ。
それは、身を引き裂かれるような痛みだろう。
『チビたちには、まだ言うなよ。あいつら、泣き虫だからな』
「……わかった」
ヴェルドアは満足げに目を閉じた。
『今日はもう寝るわ。……あーあ、最後に一回くらい、思いっきり空を飛びてぇなぁ』
独り言のような呟き。
それが、彼の最期の願いだとわかった。
私はグレイド様と顔を見合わせた。
言葉はいらなかった。
私たちの気持ちは同じだ。
「叶えましょう」
私が言うと、グレイド様は力強く頷いた。
「ああ。最高のフライトにしよう」
別れは避けられない。
けれど、その時をどう迎えるかは、私たちが決められる。
湿っぽいお別れなんて、この「最強の家族」には似合わない。
私はヴェルドアの首を撫でながら、心に誓った。
最後まで笑って見送ろう。
それが、彼への最高の手向けになるはずだから。
夜風が冷たい。
でも、ヴェルドアの体温はまだここにある。
この温もりを、決して忘れないように。
私はいつまでも、彼に寄り添い続けた。




