第8話 継承される「孫の手」
雨上がりの夜空に、満月が輝いていた。
泥だらけの演習場。
私はアレンとレン、そして小竜をまとめて抱きしめたまま、しばらく動けずにいた。
体温が伝わってくる。
生きていてくれて、怪我がなくて、本当によかった。
「……ママ、苦しいよ」
「へへ、ママ泣いてるの?」
アレンとレンがくすぐったそうに笑う。
その顔は泥で真っ黒だけれど、誇らしげに輝いていた。
自分たちの力で成し遂げたという自信が、彼らを一回り大きく見せている。
私は涙を拭い、体を離した。
そして、腰に差していた愛用の道具を抜いた。
月光を反射して鈍く光る、銀色の棒。
「ミスリル製孫の手」。
私がこの屋敷に来てからずっと、ヴェルドアや始祖竜、そして私自身の運命を切り拓いてきた相棒だ。
「アレン、レン。手を出して」
私が言うと、二人は不思議そうに小さな手を差し出した。
私はその上に、孫の手をそっと置いた。
ズシリ、とした重み。
ミスリルは軽い金属だが、子供二人で支えるには大きく、存在感がある。
「これ……ママの大事な棒でしょ?」
「いいの?」
レンが目を丸くして私を見上げる。
私は微笑んで頷いた。
「ええ。あなたたちにあげるわ」
「えっ!?」
「あなたたちの手は、とても優しくて温かいわ。でも、竜は大きくなるの。いつか、その小さな手では届かない背中や、硬すぎる鱗にぶつかる日が来るかもしれない」
私は二人の手を、孫の手ごと包み込んだ。
「その時は、これを使って。これはね、ただ背中を掻くだけの道具じゃないの。言葉が通じなくても、『大切に思っているよ』って伝えるための、魔法の杖なのよ」
キョトンとしていた二人の表情が、次第に輝きを帯びていく。
ママの宝物をもらえた。
その事実が、彼らにとっては何よりの勲章だったのだろう。
「ありがとう! 大切にする!」
「すごい! かっこいい!」
二人は孫の手を掲げてはしゃいだ。
小竜が『なんだそれ、食い物か?』と興味深げに鼻を近づける。
アレンが早速、孫の手の先端で小竜の首元を軽くカリカリと掻いてみた。
『んあ……そこ……悪くない……』
小竜がうっとりと目を細める。
使い方もバッチリだ。
これなら、すぐに使いこなせるようになるだろう。
私はその光景を見ながら、少しだけ胸の奥がスースーするのを感じた。
喪失感、ではない。
子供が親の手を離れていく時の、寂しさと嬉しさが入り混じったような感覚だ。
私の役目は、一つ終わったのだ。
「……寂しいか?」
隣にいたグレイド様が、私の肩を抱いた。
すべてお見通しのようだ。
「少しだけ。あれがないと、なんだか手持ち無沙汰で」
「そうだな。君のトレードマークだったからな」
グレイド様は私の腰を引き寄せ、耳元で囁いた。
「なら、新しいのを注文しよう」
「え?」
「もっと豪華で、君の手に馴染む特注品だ。素材は……そうだな、オリハルコンにダイヤモンドでも埋め込むか?」
「いりませんよ、そんな物騒なもの! 背中を掻くだけなんですから!」
私が慌てて否定すると、彼は楽しそうに笑った。
「冗談だ。だが、君には専用の道具が必要だ。これからも、私の心を掻いてもらわなきゃならないからな」
キザな台詞。
でも、その言葉が私の心の隙間を埋めてくれた。
そうだ。
道具を譲ったからといって、私の「通訳」としての人生が終わるわけではない。
これからは、夫や、成長していく子供たち、そしてもちろんヴェルドアたちの心を、もっと深く理解していくための新しい日々が始まるのだ。
「……そうですね。お願いします、あなた」
私は彼に寄り添い、幸せなため息をついた。
「さて、と」
グレイド様が手を打ち、子供たちの注目を集めた。
「英雄諸君。そろそろ凱旋の時間だ。風呂に入って、温かいスープを飲もう」
「はーい!」
「あ、パパ! 待って!」
アレンが何かを思い出したように、小竜の首に腕を回した。
「この子も連れて行っていい? 僕たちの弟にしたいんだ!」
「名前も決めたの! 『ポチ』って言うんだよ!」
ポチ。
その名を聞いた瞬間、木の上にいたヴェルドアがズコッと体勢を崩したのが気配でわかった。
『……犬かよ。竜だぞ、そいつ』
ヴェルドアの心の声が聞こえてきて、私は吹き出しそうになった。
確かに、竜にポチは斬新すぎる。
でも、この子たちのセンスなら、きっと愛情たっぷりに育ててくれるはずだ。
「ポチか。いい名前だ」
グレイド様は真顔で頷いた(たぶん笑いを堪えている)。
「わかった。今日からポチは公爵家の一員だ。だが、世話は自分たちでするんだぞ?」
「うん! 約束する!」
双子はポチ……改め、新しい家族と共に、意気揚々と屋敷へ歩き出した。
ポチも、二人に挟まれて、まんざらでもなさそうに尻尾を振っている。
『飯……食えるのか? あったかい寝床、あるのか?』
ポチの期待に満ちた声が聞こえる。
大丈夫よ。
ここは世界で一番、竜に甘い家なんだから。
月明かりの下、泥だらけの行進が続く。
一番後ろを歩きながら、私は空を見上げた。
嵐は完全に過ぎ去った。
明日もきっと、騒がしくて、愛おしい一日が待っている。
私の手にはもう孫の手はないけれど。
代わりに、愛する夫の手が、しっかりと握られていた。




