第6話 「ここ」を見て!
アレンが泥だらけの顔を拭い、小竜に向かって一歩踏み出した。
雨脚は弱まっていたけれど、演習場にはまだ冷たい風が吹き荒れている。
ずぶ濡れのパジャマが体に張り付き、寒さで震えてもおかしくない状況だ。
けれど、アレンの足取りには迷いがなかった。
「……ねえ。君は、痛いんだよね?」
アレンが優しく語りかける。
小竜は喉の奥でグルルと低い唸り声を上げ、警戒心を解いていない。
さっきの炎で少し落ち着いたとはいえ、野生の本能はまだ彼を支配している。
いつまた暴れ出すかわからない、張り詰めた空気が漂っていた。
私は物陰で息を殺し、その光景を見守っていた。
隣にいるグレイド様の手が、私の肩を力強く支えてくれている。
「アレン……気をつけて」
祈るような気持ちで呟く。
言葉は通じない。
どれだけ優しい言葉をかけても、今の小竜には「敵の鳴き声」にしか聞こえないかもしれない。
それがわかっているからこそ、アレンの行動が危なっかしくて見ていられない。
けれど、次の瞬間。
アレンが予想外の動きを見せた。
「レン! 今だ!」
アレンが両手を広げ、わざと大きな動作で小竜の注意を引いたのだ。
小竜の視線がアレンに釘付けになる。
その隙に、背後に控えていたレンが、音もなく動き出した。
レンは地面を這うようにして、小竜の死角へと回り込んでいく。
泥水の中を匍匐前進するその姿は、まるで小さな兵士のようだった。
「連携プレー……?」
私が驚くと、グレイド様が小さく笑った。
「教えた覚えはないが、見事な挟撃だ。アレンが盾となり、レンが矛となるか」
矛?
いいえ、違う。
レンの手には武器なんてない。
彼が目指しているのは、攻撃するための死角ではなく――。
小竜の背中だ。
レンは小竜の真後ろに回り込むと、ゆっくりと立ち上がった。
小竜は目の前のアレンに気を取られ、背後の気配に気づいていない。
レンはそっと手を伸ばし、小竜の背中に触れようとして――止めた。
触れない。
じっと、見ている。
目を凝らして、小竜の背中を観察しているのだ。
その姿を見て、私の脳裏にある記憶が蘇った。
――ママはいつも、背中を見てたね。
いつだったか、ヴェルドアのブラッシングをしている時に、双子に言われた言葉だ。
『ママはすごいね。ヴェルドアとお話ししてるみたい』
『ううん、違うよ。ママは背中を見てるんだよ。そこがかゆいって、わかってるんだ』
あの子たちは、見ていたのだ。
私が「通訳スキル」を使って会話している姿ではなく、実際に手を動かし、背中をケアしている姿を。
言葉がわからなくても、相手を楽にしてあげる方法があることを、私の背中を見て学んでくれていたのだ。
熱いものが込み上げてきて、視界が滲んだ。
私はずっと、自分の能力が子供たちを苦しめていると思っていた。
でも、違った。
あの子たちは、私の能力ではなく、私の「行動」を尊敬し、模倣しようとしてくれていたのだ。
「……あった!」
レンの叫び声が響いた。
彼は小竜の右翼の付け根あたりを指差している。
「アレン! ここだよ! ここが変だよ!」
レンの声に、小竜が驚いて振り向こうとする。
しかし、アレンがすかさず前に踏み込み、小竜の視線を自分に戻させた。
「こっちだよ! 僕を見なさい!」
アレンの気迫に押され、小竜はたじろぐ。
その間に、レンは必死に観察を続けた。
「鱗が逆立ってる! 泥がいっぱい詰まってて、赤くなってるよ!」
原因特定。
やはり、怪我か汚れによる炎症だ。
小竜はまだ幼く、自分で背中の手入れが上手くできない。
そこに泥や小石が詰まり、化膿して痛みと痒みを引き起こしていたのだろう。
空腹や寒さも辛いが、常に背中が痛むストレスが、彼の理性を奪っていた一番の原因だったのだ。
私なら、声を聞いてすぐにわかっただろう。
『背中が痛い』という訴えを通訳して終わりだ。
でも、双子は違う。
声なき声を聞くために、危険を冒して近づき、泥だらけになって観察し、自力で答えに辿り着いた。
それは、「通訳」よりもずっと尊い、魂の対話だった。
「よくやった……!」
私は感極まって声を漏らした。
グレイド様が私の背中をさする。
「君の教育は間違っていなかったな、エルマ」
「はい……! あの子たち、私の自慢です!」
レンがアレンに向かって合図を送る。
「どうする? 取ってあげる?」
「うん! でも道具がないよ!」
そう。そこが問題だ。
原因はわかったけれど、彼らには私が持っているような「ミスリル製の孫の手」がない。
素手で触れば、化膿した傷口を刺激して、小竜が暴れるかもしれない。
それに、竜の鱗は硬くて鋭い。子供の柔らかな手では、逆に怪我をしてしまう恐れがある。
小竜が苛立ち、再び唸り声を上げ始めた。
限界が近い。
痛みを取り除いてあげなければ、またパニックを起こす。
どうするの、アレン、レン。
あなたたちは、どうやってその痛みを癒やすの?
私は固唾を呑んで見守った。
助け舟を出したくなる衝動を必死に抑え込む。
今、彼らは試練の最終局面を迎えている。
大人の道具を与えることは、彼らの勝利を汚すことになる。
レンが自分の手を見つめた。
泥だらけの、小さな手。
そして、決意したように顔を上げた。
「……僕の手なら、入るかも」
「えっ?」
「ママの孫の手より小さいもん。指なら、隙間に入るよ!」
無茶だ。
そんなことをしたら、指を挟まれて怪我をするかもしれない。
でも、レンの瞳に迷いはなかった。
「アレン、押さえてて! 僕が取る!」
「わかった! 信じてるよ!」
アレンが小竜の前に立ちはだかり、両手を広げた。
レンが小竜の背中にしがみつく。
『ギャッ!? な、何すんだ!?』
小竜が驚いて暴れようとする。
しかし、アレンが真正面から小竜の鼻先を抱きしめた。
「大丈夫! 痛いの痛いの、飛んでいけ!」
無防備な抱擁。
噛みつかれれば終わりの距離。
けれど、アレンの温かさが伝わったのか、小竜の動きが一瞬止まった。
その隙に、レンが指を突き立てた。
逆立った鱗の隙間、炎症を起こして熱を持った患部へ。
私の心臓が早鐘を打つ。
ここから先は、技術じゃない。
想いの強さが試される。
小さな手が、硬い鱗の下へと潜り込んでいく。
痛みに耐える小竜の呻き声と、双子の荒い息遣いが、雨上がりの夜に響いていた。




