第3話 言葉が通じない壁
胃のあたりが、キリキリと痛む。
子供たちが秘密の冒険を始めてから、数日が経っていた。
私は日課のようになっている「こっそり見守り」のため、今日も演習場の木陰に身を潜めていた。
状況は、悪化していた。
「……食べてよ。お願いだから」
藪の前で、アレンが必死に干し肉を差し出している。
その声は枯れかけていた。
何日も通い詰め、話しかけ続けているのに、小竜の心は閉ざされたままだ。
『シャアアアッ!』
小竜が鋭い威嚇音を上げる。
痩せこけた体は骨が浮き出るほどになり、目は血走っている。
極限状態だ。
空腹と痛み、そして人間への恐怖で、理性が飛びかけている。
「大丈夫だよ。痛いことしないよ」
アレンが一歩、踏み出した。
レンが後ろで心配そうに見守っている。
「僕たち、君と友達になりたいんだ。ママみたいに、仲良くなりたいんだよ」
アレンの手が、小竜の鼻先に近づく。
無防備な手。
私には聞こえる。小竜の脳内で弾けた、恐怖の叫びが。
『来るな! 殺される! 殺される前に殺してやる!』
「アレン! 危ない!」
私が叫ぶのと同時だった。
小竜が残る力を振り絞り、アレンの手に食らいついた。
ガブッ!
「うわぁっ!」
アレンが悲鳴を上げ、尻餅をつく。
小竜はすぐに離れたが、その口元には赤い血が付着していた。
アレンの手の甲から、鮮血が滴り落ちる。
「アレン!」
私は木陰から飛び出した。
もう、見守っている場合じゃない。
駆け寄ってアレンの手を掴む。
傷は深くないけれど、野生動物の牙だ。ばい菌が入ったら大変なことになる。
「見せて! すぐに消毒しないと!」
「マ、ママ……?」
アレンが驚いて私を見る。
レンも呆然としている。
「どうして……内緒にしてたのに」
「ごめんね。でも、今は治療が先よ。それに、この子とも話をつけなきゃ」
私は小竜を睨みつけた。
小竜はビクリと震え、後ずさる。
私には、彼の「やってしまった」という後悔と、「やっぱり人間は敵だ」という絶望が聞こえていた。
「大丈夫よ。私が通訳してあげる。この子はね、怖がっているだけなの。ちゃんと説明すれば……」
「やだ!」
私の言葉を遮ったのは、アレンの叫び声だった。
彼は血の滲む手を引っ込め、私を拒絶するように胸元で抱えた。
「ママは関係ない! 僕たちだけでやるんだ!」
「アレン? でも怪我が……」
「平気だもん! こんなの、唾つけとけば治るもん!」
アレンの瞳には、涙が溜まっていた。
けれど、それは痛みからくる涙ではない。
悔し涙だ。
「ママに頼ったら、意味がないんだ! 僕たちは、僕たちの力でやりたいんだよ!」
「そうだよママ! あっち行ってて!」
レンまでが私を押した。
小さな手のひらが、私の腰をグイグイと押す。
その力は弱かったけれど、私の心を突き放すには十分すぎるほど強かった。
「……わかったわ」
私は立ち上がった。
ショックで、指先が冷たくなるのがわかった。
子供たちのためを思ってしたことなのに。
私がいることが、あの子たちにとっては「邪魔」なのだ。
「治療だけは、あとでちゃんとさせてね。……約束よ」
私はそれだけ言い残し、逃げるようにその場を離れた。
背後で、ヴェルドアが悲しげに『エルマ……』と呟くのが聞こえたけれど、振り返れなかった。
***
その夜。
子供たちが寝静まった後、私は寝室のバルコニーで夜風に当たっていた。
アレンの傷は、帰宅後に始祖竜のおじいちゃんがこっそり治癒魔法をかけてくれたおかげで、大事には至らなかった。
でも、私の心の傷は塞がりそうになかった。
「……ため息ばかりついていると、幸せが逃げるぞ」
背後から、肩にショールがかけられた。
グレイド様だ。
彼は私の隣に立ち、同じ夜空を見上げた。
「アレンの手、大丈夫でしたか?」
「ああ。始祖殿の魔法で傷跡も残らないそうだ。あの爺様、孫には甘いからな」
「そうですか。よかった……」
ほっとしたのと同時に、また自己嫌悪が襲ってくる。
結局、私は何もできなかった。
ただオロオロして、子供たちのプライドを傷つけただけだ。
「私、ダメな母親ですね」
ポツリと溢す。
「あの子たちの気持ち、わかっていたつもりでした。でも、いざ怪我をしたのを見たら、我慢できなくて。……『通訳してあげる』なんて、あの子たちが一番言われたくない言葉だったのに」
彼らが欲しかったのは、正解じゃない。
自分たちで見つける過程だったのだ。
それなのに、私は先回りして答えを与えようとした。
それは、彼らの成長を信じていないことと同じだ。
「君は優秀すぎるんだ、エルマ」
グレイド様が静かに言った。
「君には聞こえる。わかる。解決できる。だからこそ、彼らは焦っているんだ」
「焦り?」
「ああ。『ママみたいにならなきゃ』『ママがいないと何もできない』。そんな劣等感が、彼らを追い詰めている」
彼は私の肩を抱き寄せた。
「彼らは男の子だ。母親を超えたい、認められたいという欲求がある。君が手を貸せば貸すほど、彼らは自分が無力だと思い知らされるんだ」
その言葉に、ハッとした。
私は彼らを守ろうとして、逆に彼らの自尊心を削っていたのかもしれない。
「魔獣通訳」という特別な力を持つ母。
それは彼らにとって、誇りであると同時に、巨大すぎる壁だったのだ。
「……どうすればいいんでしょう」
「信じて待つことだ。そして、少しだけヒントをやる」
グレイド様はニヤリと笑った。
悪巧みをする少年のようだ。
「ヒント?」
「明日の朝、彼らを鍛錬に連れ出す。剣術の稽古という名目でな。そこで、少しばかり男同士の話をしてくるよ」
彼は私の頭をポンポンと撫でた。
「君は、君のやり方で彼らを愛してやればいい。ただ、明日は少しだけ、耳を塞いでいてくれないか? 男には、母親に聞かれたくない話もあるんだ」
その頼もしい横顔を見て、私はようやく少しだけ笑うことができた。
そうだ。
私一人で子育てをしているわけじゃない。
私には、こんなにも頼りになるパートナーがいるのだから。
***
翌朝。
空は薄曇りで、少し風が強かった。
庭園の芝生の上で、グレイド様と双子が向かい合っている。
手にはそれぞれの体格に合わせた木剣。
普段の遊び半分な稽古とは違い、今日の空気は張り詰めていた。
「アレン、レン。構え!」
グレイド様の号令で、双子が木剣を構える。
まだ様になっていないけれど、その瞳は真剣そのものだ。
私は約束通り、テラスの窓を閉め、部屋の中からその様子を眺めていた。
声は聞こえない。
けれど、グレイド様が何かを語りかけ、双子がそれを食い入るように聞いているのはわかった。
グレイド様は剣を振るのを止め、膝をついて子供たちの目線に合わせた。
そして、自分の胸――心臓のあるあたりを指差した。
何かを熱心に説いている。
アレンが涙を拭い、大きく頷いた。
レンも拳を握りしめ、決意に満ちた顔をしている。
何を話しているのだろう。
通訳スキルを持つ私でも、夫と息子たちの間の「男同士の会話」までは聞こえない。
少し寂しいけれど、それはきっと、私が立ち入ってはいけない領域なのだ。
稽古が終わり、双子が家に戻ってくる。
その顔は、昨日までの悲壮感漂うものではなく、何か吹っ切れたような明るさを持っていた。
「ママ! 行ってきます!」
「僕たち、もう一回チャレンジしてくる!」
彼らはまた、パンと干し肉を持って演習場へと駆けていく。
怪我をした手には、新しい包帯が巻かれていた。
私は彼らの背中に、心の中でエールを送った。
いってらっしゃい。
頑張って。
空模様が怪しくなってきた。
遠くで雷鳴が轟く。
今夜は嵐になるかもしれない。
小竜の体力は限界に近い。
そして、双子の挑戦も、きっとクライマックスを迎える。
嵐の予感に震える小竜の声が、風に乗って微かに届いた気がした。




