172 トルコ王国
かつてロシアはユーラシア大陸北部に広大な領土を持っていた。
これがグレムリン災害によって崩壊してできたのが、旧ロシア領と呼ばれる地域である。
電気喪失による通信と運送の断絶は国そのものの断絶になった。
車が動かない、電話も通じない、魔物は跳梁跋扈する。そんな中では隣街との連絡すら難しく、国家として一つにまとまる事などとてもできない。
超越者に恵まれなかったのも痛い。
アメリカや日本のように強力なリーダーシップを持つ超越者が生まれず、魔物の脅威に個ではなく群として対抗する土壌が育たず、今もなお旧ロシア領は小国が点在するバラバラ状態が続いている。
国連に国として認められている小国もあれば、国とは名ばかりの無法地帯もある。ある国が自国領土だと主張している地域に実際は誰も住んでおらず魔物の楽園になっていたりもする。
かと思えば小国同士で小競り合いを起こし、疲弊したタイミングで魔物の大発生が起き共倒れしたり。
シンプルに農作物の不作が続いて自然消滅したり。
国どころか街ですらなかった村に超越者が生まれ拠り所になって新しい国ができたり。
とにかく旧ロシア領の政情は不安定で、国境線が毎年変わる。
そんな中、旧ロシア領西方にあるルーシ王国はグレムリン災害から間もなく建国され、現代に至るまで非常に安定した国家運営をしている。
非常に閉鎖的な内陸国で、出入国管理が厳しく、約60万人と推計される人口の割に貿易額も少ない。少数の周辺国家と限定的な国交を結ぶそのスタイルは、江戸時代の鎖国にも喩えられるという。
俺達がネオメソポタミアを出国して足を踏み入れたトルコは、ルーシ王国と国交を結んでいる数少ない国の一つだ。
と、聞いていたのだが。
「なんだこれ? なんも無いんだけど。隕石でも落ちたのか」
「いや。もっと酷い」
「ええ……?」
ベルリンの壁の如き厳つい国境線を抜けて入国したトルコの景色はあまりにも小ざっぱりとしていた。
家もない、森もない、山も見えない。
見渡す限り地平線の彼方まで綺麗さっぱりなにもない。
背後を振り返って国境線の壁の存在を確かめなければ目がおかしくなったのかと思ってしまうぐらいだ。
流星群でも降り注いだのかという凸凹の大地に短い雑草の緑色がささやかな彩りを添えるばかりで、動物もいない。
トルコってこういう国だっけ?
違うよな?
もっと山がちで、気球とか飛んでたり行進曲が演奏されてたりするアイス売ってたりする牧歌的&陽気なイメージだったんだが。
国境で借りた虎魔獣に二人乗りして北を目指しながら、ヒヨリはトルコで約三年前に起きた大事件を教えてくれた。
「ユイちゃん……地獄の魔女が魔法を暴走させた事があるのを覚えているか」
「なんだっけ、足立区が更地になったやつ?」
「そうだ。普通、大魔法を暴走させると魔法の使い手は弾け飛んで死ぬ。その上で周囲一帯を吹き飛ばして魔法地形が生まれる。だが地獄の魔女は瀬戸際で踏みとどまった。暴走しようとする大魔法と魔力コントロールの綱引きが起きたんだ」
俺達を背に乗せ運んでくれている虎魔獣の背中を掻いてやりながら、ヒヨリは訥々と続けた。
「それと似た事がトルコで起きた。トルコに二人いる魔法使いのうち一人、セルマンという奴が魔法を暴走させてな。中途半端に制御を握ったまま暴走魔法を引き連れて彷徨い歩いたせいでトルコはこうなった」
「ヤバ」
改めて周りを見渡すが、語彙が消えるぐらいヤバい。魔法暴走でこんなんなっちゃったんです?
爆撃の雨を降らせてもここまで地表をキレイさっぱり消し飛ばすのは難しいぞ。
「暴走魔法の圏内に入ると粉々に砕かれるから、誰もセルマンを助ける事はできなかった」
「じゃあヤバいじゃん」
「そうだな。たぶん、セルマンは自分でなんとかするのは無理だと悟ってルーシの女王に助けてもらおうと考えたんだろう。女王は底が知れない。暴走を収める手段を持っているのではないかと考えたとしてもおかしくない。実際にセルマンが何を考えたのかは知らんが、とにかく動く暴走魔法がルーシに向かって侵攻する形になった」
「ヤバそう」
「……無理にコメントしなくていいからな? ルーシの女王は魔法解除魔法でセルマンと暴走魔法を迎え撃った。が、拮抗状態で押し切れなかった。で、魔力が尽きてルーシの国土まで暴走魔法でズタズタに壊されそうになって女王が焦ったところで私がなんとかしたんだ」
「急に雑! 何やったんだ」
「ありったけの魔力を注いだ大氷河魔法で無理やり暴走魔法を上書きした。魔力欠乏で気絶したのは久しぶりだったな」
感慨深そうに言うヒヨリの解決策は思ったより脳筋だった。
フィールド魔法をフィールド魔法で塗りつぶすみたいな話か? つよい。
そんな事が簡単にできるなら世界に魔法地形なんて無くなってるだろうから、事実上最強の杖を持った最強の魔女にしか許されない最強の力技なのだろう。
「結果的に、私はルーシ王国を救う事になった。それで女王に気を許されて、蘇生魔法を教わる事ができたんだ」
「あ、この話の着地点そこなんだ」
不謹慎だけどトルコが吹っ飛んだお陰で俺が生き返る事ができたんだな~、と思ったが、不謹慎なので口には出さないでおいた。
いつまでもヒヨリに失言を咎められる俺じゃないぞ。ちゃんと学習しているのだ。
口が魔法学モードに切り替わったようで、ヒヨリはそのまま魔法暴走原理についての所見をツラツラ語ってくれた。
そもそも、ほとんど全ての詠唱魔法にはデフォルトで四次元干渉機能が組み込まれているという。これは無詠唱魔法の研鑽を重ね、無詠唱魔法との比較研究によって明らかになった事だ。
オリジナルの無詠唱魔法は幽霊魔物に効かない。物理攻撃と同じようにすり抜けてしまう。だが、詠唱魔法を完全コピー再現した無詠唱魔法ならば幽霊魔物に効く。従って無詠唱魔法だから効かないのではなく、詠唱魔法と無詠唱魔法の機能的・構造的な差が幽霊魔物に効くかどうかの差異を生んでいると推測できる。
幽霊魔物は四次元に片足を突っ込んだ存在であるから、その幽霊魔物に通用する魔法もまた四次元に片足を突っ込んでいると考えられる。だから詠唱魔法には四次元干渉機能が備わっている。
ここから魔法暴走原理を説明できる。
ヒヨリはツバキに贈った永遠氷塊を無詠唱魔法で製造したのだが、この時に大氷河魔法の魔法構造を参考にした。手動で構造を組み上げる魔法としては非常に複雑であり、ヒヨリは何度も失敗した。コントロールを手放してしまった事もある。
ところが暴走はしなかった。無詠唱魔法はコントロールを手放しても暴走せず、ただ散逸してしまうだけなのだ。
根本的な話として、暴走した魔法の威力は常軌を逸している。例えば5,000Kの魔力の大魔法を暴走させると、50,000Kの魔力を注ぎ込んでも到底届かないとんでもない威力の大爆発が起き、大地が半永久的に魔法地形に変容してしまう。
それほどの莫大なエネルギーがどこから来たのか? その答えは、恐らく四次元だ。
詠唱魔法には四次元干渉機能が備わっている。
詠唱魔法の暴走は、四次元干渉機能の暴走でもある。
詠唱魔法を暴走させると、四次元から過剰なエネルギーが一気に流入し、使い手を破裂爆散せしめ、その勢いのまま周囲一帯を吹き飛ばすのである。
話を一通り聞いた限り、スジは通っている。
魔法杖職人としても同意できる理屈だ。
成都租界の王笏ベイファンとキュアノスには四次元に魔力を格納する機能をつけてある。機能的には格納を目的とせずただ四次元の大海に魔力を送り込む事もできるから、四次元空間に無制御な魔力が溢れていてもおかしくはなく、そういった魔力が三次元に溢れ出してくるというのは十分に考えられる事だ。
しかし魔法文明ってけっこう気軽に四次元技術使ってるよな。詠唱魔法に標準装備だし。ハトバト氏も気軽に人形設計図に盛り込んでたし。地球文明における電気技術と同じぐらいの立ち位置の技術って気がする。
魔法談義をしながら虎魔獣に乗ってひたすら北へ進んでいると、綺麗な一直線の線を作る殺風景な地平線にぽつりと一つだけ影が見えた。
近づいていくと、それは小山に見えた。
更に近づき輪郭がハッキリしてくると、小山ではなく家より大きな巨岩だと分かる。
そして声が届くぐらいの距離まで近づくと、巨岩ではなく岩のような鎧をまとったクッッッソ巨大なオッサンだと分かった。
野太いイビキ聞こえるし、鼻提灯も出てる。
なんだこいつ!? ダイダラボッチの親戚か?
「ヒヨリ、無視して先に行こう」
「いや、知り合いの魔法使いだ。面倒な奴だが、悪い奴じゃない。話を通しておこう」
せっかく大イビキをかいて惰眠を貪っているデッカいオッサンを起こさないように小声で耳打ちしたのに、ヒヨリは虎魔獣からひらりと降りてわざわざ話しかけに行った。
す、すごいな。話を通したいなら置手紙でも残していけばいいのにわざわざ会話するのか。俺には到底真似できないぜ。
「トゥルハン、トゥルハン。起きろ。そんな寝方をしていたらまた腰を痛めるぞ」
ヒヨリがデッカいオッサンの岩兜のあたりを拳でガンガン殴りながら話しかけると、巨人の鼻提灯が弾けて消えた。
ぼんやりと目を開け、唸りながら地響きと共に半身を起こす。
デカい。全長50mぐらいありそうだ。
土埃を上げ起き上がった岩鎧のおっさんはあぐらをかいて座り、白髪交じりの顎髭が生えた口元を大儀そうに親指で掻きながら地面を見下ろした。
「……んん? 青の魔女か?」
「ああ、久しぶりだなトゥルハン。元気そうで良かった。今はルーシに行く途中だ。トルコは横切るだけですぐ抜ける」
端的に挨拶と説明を済ませたヒヨリに手落ちは無かったように思える。
が、トゥルハンというらしい巨人は何かしら気に障ったようだった。
眉根を寄せて不快そうに唸り、地鳴りのような耳に響く重低音で高圧的に言葉を降らせてくる。
「不遜な魔女め。偉大な王を前にふてぶてしいぞ」
「分かった分かった、トゥルハン王。一つ聞きたいんだが、最近ルーシ王国に何か変わった噂だとかは――――」
「黙れ。愚民の分際で頭が高い。控えよ! 跪き地を舐め這いつくばらぬか!!」
けっこう親しげなヒヨリとは裏腹に、巨人は露骨に蔑んだ大音声を雷のように轟かせる。
ヒヨリは涼しい顔をしているが、呑気に前脚を舐めていた虎魔獣は尻尾を縮み上がらせて跳び上がったし、俺は虎から振り落とされて草の上に転げ落ちた。
あの、あの、ヒヨリさん?
ちょっと喋っただけでもう悪い奴っぽさをヒシヒシ感じるんですが。
本当に大丈夫なんですか!?





