表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
90/100

90.恩恵

 左衛門佐は、


「何だってこうも、悪い親を持ってしまったものか。なんとか母上の御心がよくなるように、一緒に祈ることとしよう。我々のためにも大事な事だから」


 と、越前守にため息ながらに愚痴をこぼします。大将へのお返事も、二人で相談して申し上げます。


「慎んでお言葉を承りました。私達も今は、大将殿御一人のみを頼りにしようと話しておりました。お返しくださった色々なところの地券は、三の君(姫)も四の君も、故大納言の御本意に反する事になるのはいかがなものかと言って慎んで遠慮していたのですが、大将殿のせっかくの御志を無にするのも失礼なことと思い、こちらで受け取らせていただく事にしました。この邸の事につきましては大将の北の方(女君)が、故人に『余りあるほど』に孝養を尽くして下さった大変御心映えの深い思いに応えようとしての事と思われますので、そんな所を仇なすように扱うのも、亡き故人にも可哀想な、申し訳ない思いがいたしますので、せめて地券だけはそちらでお納めいただきたく存じます」


 そう言いながら故大納言邸の地券を、大将にお返しします。

 実はこの地券、故大納言の北の方を説得した後、北の方の前から立ち去る時に越前守が地券を手に立ち上がりかけると、北の方が邸の権利を返されてしまうのかととても不安に駆られて、


「それをどうして持って行く。せっかく大将殿が私に下さるとおっしゃっているのに。こっちに持ってこい、持ってこい」と呼び返したのです。越前守は、


「ああ、母上にも困ったものだ。この地券を誰が持つかは、とても重大な事だと言うのに。浅はかに言うのだから」


 と、物狂おしく、心が騒がしく思っていました。


 けれど後に左衛門佐が、


「お聞き下さった大将殿が『地券がよその人の手に渡る訳ではないのだから、故大納言殿も不本意と思いにはならないだろう。北の方が御存命の間は邸にお暮しになって、その後に三の君、四の君に差し上げれば、我が妻が相続したも同じ事です。早く地券を御手もとに置いて下さい』と言って、地券を返して下さいました」


 と言ったので、越前守もホッとしたことでしょう。


 ****


 左衛門佐は愚痴りながらも越前守と相談して、母親の北の方の事は持ち出さずに、三の君、四の君の感謝の気持ちだけを伝える事にしました。そして、その気持ちを伝えるために、邸の地券を大将に受取ってもらいたいと差し出します。


 けれどこの地券に関しては、ひと悶着あったようです。故大納言の北の方はこの地券を手放したがらず、手渡せば自分達がこの邸にいられなくなるかもしれないと、不安にかられたようですね。実際三条邸の領有権を争おうとした時、地券がないばかりに自分たちの意見が第三者の誰からも相手にされなかったという経験をこの人は味わっています。あれだけ懲りれば不安になるのも無理はありません。


 それだけに息子たちからしてみれば、この地券は大将に自分たちの誠意を見せる絶好の小道具です。大納言亡き今、この一族は中流どころか下流貴族にまで身を落としかねない、没落の危機にあります。故大納言はせっかく自分の娘に迎えた婿を出世させてやる事が出来ませんでした。

自分の出世も名ばかりのもので実権が伴っていなかったので、婿達を押し上げてやる力が無かったのでしょう。


 どうも息子達の方も出世の望みは大将殿しだいの様です。長男はどうにか越前の国司として身を立てているようですが、それでも自分の妻の事で精一杯だと言います。越前とは今の福井県のあたりですから、都から見るとやや北の方になるのでしょう。雪深い越中(富山)や越後(新潟)と比べればずっと良い国なのでしょうが、それでも西や南の豊かな国と比べればそれほどの収益は上がらないのかもしれません。納税するだけで精一杯で、自分が豊かになれるほどの国ではないようです。良い国の受領になるには時の権力者の口添えが欠かせない時代なのですが、彼の通う先の家は、そういう力が無かったようです。


 お話に姿を現さない次男もパッとしないのでしょうね。三男はまだ元服してからさほど年の経たないまだまだこれからの若者で、大将の世話で左衛門佐になった人です。

 しかも大将の一族は今や時の権力をすべて握っています。大将に見離されればこの一族に未来は無いのです。息子達はそれがよく分かっているのに、母親は狭い自分の視野でものを言って来るので、頭を抱えてしまうのでしょう。


 ****


 大将の一行は、皆お帰りになりました。女君は、


「近いうちに、またおうかがいさせていただきます。三条殿にも是非、おいでになって下さい」


 と言い、


「亡き大納言殿に代わって、三の君や四の君、母上のお世話をわたくしが見て差し上げたいと思います。何事でも気がねなくおっしゃってください。私を頼りに思っていただける事が、何より嬉しいのですから」


 などとしみじみと言い残してお帰りになりました。


 そして大納言殿が生きていた時よりも、心慰めるものは日々欠かすことなく三の君と四の君に、なくてはならない細やかな物は北の方にと、夜中や早朝でも運んで差し上げたので、北の方も、


「本当に、我が子供たちは娘には夫がいて、息子達はあてにならないが、大将の北の方は我が為、三の君、四の君の為にこんなにまで世話を焼いてくれている。本当にありがたいことだ」


 と、少しずつ思うようになられるうちに、新しい年を迎えました。


 春の司召しが行われて、大将の父上である左大臣が太政大臣に、大将が左大臣になられました。弟君達もご昇進されましたが、同じ御一家の事をいちいち書き連ねるのも面白くないので省きましょう。

 新左大臣の北の方(女君)のお幸せを、人々も御姉妹方も素晴らしいと思い、羨んでいます。

 特に中の君の夫の左少弁は、我が身がとても貧しいからと、受領になりたい旨を左大臣の北の方にすがりついてお願いなさると、左大臣は美濃みのに任ぜられるようにと、骨を折って下さいました。

 越前守は今年の司召しで代わった所でしたが、任国での働きが大変よかったので左大臣も引き立てやすく、すぐに播磨守はりまのかみになされます。左衛門佐(三郎君)は少将になられました。


 誰もかれもがこれは左大臣の北の方の御恩恵だと感じ、皆で集まってはこの北の方(女君)に昇進の喜びをお聞かせします。そして、


「これを見ても母上はこの方の御恩恵ではないとおっしゃるのでしょうか。これからはますます、口で言うに任せて物をおっしゃったりなどなさらないでください」


 と、釘をさすと故大納言の北の方も、


「たしかに、その通りだ」と言います。


「今度の司召しは左大臣一族の喜びごとのためにあるようなものだなあ」


 と、世間の人々は噂し合いました。


 ****


 息子たちのどんな説得よりも、女君からの北の方たちへの心遣いが、北の方の心を動かしたようです。実質的な援助その物が助かるでしょうし、気持ちとしても必要な時に、必要に応じて用意してくれると言うのは心遣いが行き届いている証に他なりません。そう言う心遣いを北の方も、本当にありがたい事なのだと実感したのでしょう。意地を張るばかりだった頑なな心が、女君への感謝で和らぎ始めたようです。


 そんな中で年が明けると、春の除目で皆、昇進する事になりました。大将が左大臣になっただけでなく、その新左大臣の口利きで、中の君の夫は京の都からも近く、豊かな国の美濃の受領にしてもらいました。美濃は今の岐阜県南部に当たりますが、間に今の滋賀県に当たる近江をはさんで京の都があります。しかも近江には大きな琵琶湖があって舟で行き来出来るので、都との距離感はあまり感じずに済んだかもしれません。


 長年越前で国司を務めていた故大納言の長男も、その働きが認められていた事もあって、任国の中でも特に豊かと言われる播磨の国の国司に任ぜられました。これで彼は間違いなく豊かになれるでしょうから、長男の安定した出世にこの一族の未来はずっと明るいものになるはずです。

 若い左衛門佐は都から離れることなく、近衛の少将となりました。彼もまだ若い上に時の左大臣から目をかけられているのですから、これからは各権門の家が我が姫の婿にと望み、引く手あまたとなるに違いありません。


 これほど先行きの明るい出世が用意されて、皆大喜びです。あの北の方でさえこれは女君の徳からなる御恩恵だと言われても、『げに、ことわり』と納得しています。

 さすがの北の方もやはり人の親。自分の子供たちの幸福な出世に安心したのでしょう。

 世間の人たちも故大納言家の人たちを、左大臣家の人々と同じ一族として認めたようです。彼らの栄華を皆、羨んでいるようです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ