63.お説教
北の方をはじめ車に乗っていた人は、
「もう、物見などしたくない。早く帰ろう」
と言って、轅に牛を掛け、その牛を打って追うように急がせながら帰ろうとします。ところが衛門督の従者と言い争った時に、いつの間にか北の方の乗った車の床縛りがぶつぶつと切られていたので、牛が車を引いたとたんに一条大路の真ん中で、ばったりと車の屋形が車輪から落ちてしまいました。
身分の低い者たちがその様子を見ようと近づいては、ざわざわ大騒ぎして、ありったけの大笑いをしています。車を引いていた男の従者達は足が宙に浮いたようになって、うろたえ、倒れ、どうにも車の屋形を持ち上げる事が出来ずにいました。
「お出かけになるべきではなかったのでしょう。こうもこの上なくひどく、恥をかくような目にお遭いになるとは」
と、爪弾きをしながら呆然とするばかり。車に乗っていた人たちの気持ちも、想像するには難くないでしょう。皆、泣くばかりです。
中でも北の方は自分の娘の姫君達を車の前の方に乗せて、自分は後ろの方に乗っていたものですから、屋形が引き落とされた時、車の車軸の格別高いところから転がり落ちてしまいました。 轅と車輪だけが先に進んでしまった車の屋形に、かろうじて這いつくばって乗り込みますが、その時に肘をくじいて、おいおいと泣いてしまいました。
「どんな事の報いで、このような目に遭うのか」
とうろたえますので、娘の姫君達は、
「お静かに、お静かに」とおっしゃいます。
どうにか逃げ出した御前駆の人たちを探し出すと、御前駆の人たちは車のありさまを見て「これはひどい」と思い、
「早く屋形を担いで車軸に乗せ、据え付けよう」
と指示は出しますが、周りの人々が皆、大変無様な御車の人たちを笑っていますので、とても恥ずかしくてはっきりと指示も言えずに、互いの顔を見て立ち尽くしていました。
それでもどうにか屋形を据えて進もうとしますが、安定が悪いので北の方は、
「あらあら」と騒ぎます。
しかたなく、そおっと車を動かしながら、前に進めて行きました。
北の方はやっとのことで邸に帰りつき、車を寄せます。まだ出かけられてからたいして時も経たぬのに、人に寄りかかり、目を泣き腫らして車から降りられるので、老中納言が、
「一体何事だ」と驚いて言うと、北の方は、
「何事も何もありません。こんな恥ずかしい目に遭ったのは初めてだ。衛門督が御兄弟で物見をするのに、こちらの車を強引に退かしてしまって、従者が言い争ったのです。その時向こうの従者が私どもの車に何かしたらしく、屋形が車軸からとれて、落ちてしまったんです。大路の真ん中で轅と車輪だけが前に進んで、私達の乗った屋形が置いて行かれた上に、私は高い車軸の真上に乗っていたので、転がり落ちて、肘をくじいてしまいました。どうにか屋形は据えさせたものの、ぐらぐらする車でようやく帰って来たんです」
それを聞いた老中納言は、ひどい目に遭ったものだとこの上なく思い、
「それはひどい大恥をかかされたものだ。こんな辛い世の中にはいられない。私は法師になるしかない」と嘆かれます。
しかし、後に残される妻子が気がかりで、出家する事も出来ませんでした。
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これは誰もがビックリする事が起りました。大路のど真ん中で北の方たちの乗った車の、轅と呼ばれる牛に車を引かせる部分と、それに繋がれた大きな車輪部分だけが先に進み、肝心の人を乗せた屋形の部分がそっくり車輪から落っこちてしまいました。しかも本来なら北の方は車の一番上座に乗るべき人で、前の方に乗っているはずなのに、不運続きの姫君達に気を使ったのか、今日はたまたま後ろの車軸の真上に座っていたようです。
おかげで北の方は乗っている人の中で一番高い位置から屋形ごと落されて、勢いで車の外まで転げ出てしまいました。牛車は大きな左右二輪の車輪で出来ていますから、その大きな車輪の真ん中の軸の高さから転げ落ちたら、肘くらいくじくでしょう。おまけに他人や男性に顔を見せない北の方が、他人どころか身分の低い人たちの衆人監視の中で、笑い者になってしまいました。
痛い思いをした上に、貴族の妻としてあるまじき大恥をかかされてしまいました。
自動車に乗ってエンジン掛けて、さあ、走ろうと動き出したとたんに車が分解して、外に放り出されたような気持でしょうか? それも一年で一番賑やかな場所の真ん中で。これは平安貴族でなくても、ビックリ仰天しますよね。誰も冷静でなんかいられないでしょう。
娘の姫君達が落ち着かせようとなだめても、北の方は動揺するばかり。ようやく車を応急処置で動かすと、今度は揺れる車が怖いのか、「あらあら」と叫んでいるようです。
あまりの出来事に泣きべそをかいて帰って来た北の方。夫の老中納言に事情を話しますが、肝心の夫は慰めるどころか、道の往来でそんな恥をかかされたショックで、法師になると言い出す始末。今、この一家は老いているとはいえ、中納言と言う立場の主人がいて、今の地位が成り立っています。それに二人の姫君には頼れる夫もない状態。今この人が世を捨てたりしたら、二人の姫を抱えた北の方は途方にくれるしかありません。
おそらく家族中で老中納言を説得したのでしょう。どうにか出家は思いとどまったようです。それでもこれでは老中納言家の明るい未来は、なかなかやって来そうにありませんね。
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世の中の人々も祭りでの出来事を噂し、笑いあうのでとうとう衛門督の父、右大臣の耳にも入りました。
「本当にそんな真似をしたのか。女車を相手に情け容赦のない事をしたというではないか。その中でもあの、二条の従者達がことさらひどい仕打ちをしたと聞いたが、どういうつもりなのだ」
と、衛門督に問いただします。衛門督は、
「情け容赦がないと人々が言うほどの事はしていません。物見の場所取りの杭をうちたてておいた所に、あちらが車を停めようとするので、従者の男達が『他に場所は多くあるのに、ここに車を停めるとは』と言ったところ、そのうちに言い争いが激しくなって、二条の従者が向こうの車の床縛りを切ってしまったのです。それに人を叩いたと言われているのは、あまりに無礼な物言いをされて、その憎らしさに冠を打ち落として、従者の男が触れた程度です。弟の少将と、兵衛佐も見ていましたよ。そんなに人が不愉快そうに言うほどの事はしていません」
と答えます。でも右大臣は、
「人から誹りを負うようなことは慎みなさい。そう思う理由もあるのだから」
と、衛門督に釘を刺しました。
衛門督の北の方、女君はこの事を大変お気の毒に思い、お嘆きになるので衛門が、
「そんなにひどく御嘆きにならないでください。そんな必要ありませんよ。その場に老中納言殿がいらっしゃったのならともかく、そういう訳ではなさそうですし。典薬助の事は、いつか仕返ししてやりたいと思っていた事が、ようやく叶ったんですから」
と言います。でも、女君は、
「争いを挑む必要は無かったはずです。そんなことを言うなら、あなたはわたくしに仕えずに、衛門督様に仕えればいいわ。それこそ、こういう事にはあの方は執念深く思われるし、口にもなさっているのですから」と、皮肉を返されました。でも衛門も負けずに、
「それではこの衛門、衛門督様にお仕えします。あの方は衛門がしたいと思っている事を、思う存分して下さいますから。北の方様(女君)より、大切な主人だと思っておりますので」
と、さらに言い返しました。
それから老中納言の北の方は、くじいた肘を大変痛がり、苦しがっていましたが、子供たちが集まって神仏に願を建てたりして、ようやくお治ししたそうです。
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衛門督、自分に都合のいいように、微妙に言い繕って嘘をつきますね。老中納言家の車は、杭を打った所に停めたわけではありません。その向かいです。他に場所はたくさんあるのに、そこに固執したんですから似たようなものではありますけど。いくらいい争いが激しくなったからと言って、人の車を壊れやすく細工していい訳でもないでしょう。それを大した事は無いように言って、この場をやり過ごそうとしています。もともとこのお父さんは衛門督に甘い人ですから、多少適当な事を言っても許してもらえると思っているのでしょう。
さらに典薬助はそれほど無礼な事を言ったとは言えないはず。無礼な事を言ったのは一緒にいた従者の方で、典薬助は「後で憶えていろ」に近い事を言っただけです。これも無礼は無礼でしょうが、彼は明らかに典薬助を恨んでいましたからね。冠を打ち落としたのは確かですが、典薬助が隠れたところまで追いかけて、ひどい仕打ちをしたのですから、これは大嘘です。晒し者にまでしたのですから、周りも十分不愉快だったことでしょう。
さすがにこうやって噂になるほどの事をしたのです。普段は衛門督が何をしても許してくれるお父さんも、今度ばかりはお説教をして釘をさしました。お父さんは愛息子にはさらなる出世を期待しています。こんなことで人の批判を受ける身になられたのでは、これまでの苦労も台無しでしょう。これで衛門督も力任せの無謀なやり方は出来なくなりました。
噂は当然、二条の女君にも届きました。この優しい人が、こんな話を聞かされたら、それは嘆き、悲しんだことでしょう。いくら実の親がその場にいなかったとはいえ、こういう話を聞いてせいせい出来る人ではありませんから。うっかりすると華やかなお祭りの季節と重なって、また、昔自分が悲しい思いをした事を、北の方に同情しながら思い出したりしていそうです。いつもは優しくおとなしい女君も、今度ばかりは衛門に意見し、皮肉まで言っています。
けれどここは気丈な衛門に言い負かされてしまいました。そもそも優し過ぎる女君ですから口論にも向いていません。自分が女君から嫌われることなど絶対にない自信がある衛門に、逆に「衛門督様の方が大事です」と言われては、返す言葉がないようです。女君も虐待していた家族と、衛門と衛門督のどっちが大切かと言えば、勿論後者の二人に決まっていますからね。女君のお諌めの言葉は、まったく効果がないようですね。
女君の嘆きをよそに、二巻目はここまで。三巻目、衛門はさらに衛門督に協力していきます。




