57.噂話
ある日、衛門は知り人で右大臣の邸に勤めている人から、声をかけられました。
「中将殿は右大臣の婿になられるそうだけど、こちらの二条の北の方は、その事を知っていらっしゃるのかしら」とその人が聞くので衛門はとても驚いて、
「まだ、そんな話の気配なんて、どこからも聞こえないわ。それって確かな事なの」
と聞き返しました。
「本当よ。右大臣殿はこの四月にもって、急いで御仕度をなさっていらっしゃるんだから」
知人がそう告げるので、衛門は女君に確かめる事にしました。
「中将様と右大臣殿の姫君が御結婚なさるって、御存じでいらしたのですか」
衛門の言葉に女君は驚き、本当の事かしらと思いましたが口に出しては、
「まだ、そういうお話は伺っておりません。誰がそんな話をしたのですか」
と、凛とした態度でおっしゃいます。
「でも……右大臣の邸に勤めているわたくしの知人が、確かに知るつてがあって、御結婚の月まで定まっていると教えてくれたんです」衛門も心細げにお答えします。
具体的に月まで決まっていると聞いて女君は、
「中将様の御母上が、強いてお勧めになられたのかしら。そういう人が強く出ておっしゃったのなら、中将様も従わない訳にはいかないはずだわ」
と、人知れず心をすり減らして思い悩まれますが、それでももし本当なら、中将様がお話になって下さる筈だと思い、何でもない風を装っていらっしゃいました。それなのに中将は、女君に何も話してはくれません。女君は不安を抱えながら待ち続けていました。
そうやって心に苦しみを抱えている気配が、隠そうとしても少しは見えてしまったのでしょう。中将が女君にお聞きになりました。
「何を悩んでおいでなのですか。隠そうとされても、その御様子を見れば分かりますよ」
そう言っても女君はお答えになりません。
「いいですか。私は世の人たちのように「愛してる」だの「死にそうだ」だの「恋しい」だのといちいち口に出したりはしません。そんなこと、あなたは十分に知っていらっしゃる筈だ。ただ、私はあなたの事を『決して苦しませたりしない』と最初に出会ったあの日から、心に決めていました。けれど最近のあなたの御様子を見ていると、私は大変苦しく思います」
そして中将は懐かしげに話します。
「あなたに通い始めた頃、私はあなたが心を痛められると思って、あの大雨の中を何とも辛い思いをしながらあなたのもとを訪れました。出くわした雑色たちに『足の白い盗人』とからかわれながらね。それでも今思えばあの頃は愛が足りなかった。今はそんな事は無いはずだ。どうぞ、その心の内を打ち明けてくれませんか」
けれども女君は
「わたくしが何を悩んでいるというのでしょう」とおっしゃるだけです。
「さあ、分かりません。けれどもその御様子は大変苦しげだ。何か心に隔てを置かれているのでしょう」と中将が言うので、女君は、
「 隔てける人の心をみ熊野の
浦の浜木綿いく重なるらむ
(心を隔てているのはあなたでしょう。その心を見ていると、熊野の浦の浜木綿の葉のように、どれほどの隔てを重ねていることでしょうか)」
と歌われました。それを聞いた中将は、
「ああ悲しい、そんな事だろうと思った。やっぱりお悩みがあったんですね。
真野の浦に生ふる浜木綿重ねなで
ひとへに君を我ぞ思へる
(真野の浦に生える浜木綿の葉のように隔てを重ねる事などありません。私はひとえにあなたを想っているのですから)
これからもきっと、心ならずとも耳にしたくもないことをお聞きになることでしょう。でも、そういう時にこそ、私に悩みを打ち明けて下さらないと」
中将はそういいますが女君は、
「まだ、確かな事とは言えないのかもしれない」と思われて、口をつぐんでしまいます。
そんな夜が明けると、御夫婦の事だからと黙ってみていた衛門もこらえ切れなくなりました。
とうとう「帯刀」を問い詰めます。
「中将様と右大臣殿の姫君との御結婚が、決まったそうじゃないの。ひどいわ。何も教えてくれないなんて。こんな事、隠しきれることじゃないのに」
これを聞いて「帯刀」の方がビックリします。
「ちょ、ちょっと待て。俺は全く、そんな話、聞いてないぞ」
「嘘おっしゃい! この話は他の邸の人さえ知っていて、こっちの邸を気の毒がって心配しながらわざわざ教えてくれたんだから。乳兄弟のあんたが知らない訳ないじゃないの」
衛門はすっかり誤解して息巻いています。「帯刀」は参りながらも、
「変だな。中将様の御心を、今すぐ伺って見よう」と答えました。
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困ったことになりましたね。中将はすっかり終わった話だと思っていた事が、人々の噂話を通して「あこぎ」の耳に入って来てしまいました。それほどこの話は正式に通ってしまいつつあるようです。今一番の勢いのある三位の中将と、帝の女御候補に挙げられたほどの右大臣の姫君の御結婚話。世の人々にとって絶好の話しの種だったようです。
今でも芸能人のビッグカップルの結婚はいい噂話になりますから、当時も同じように人々の関心の的になったのでしょう。
でもこれは中将の乳母、「帯刀」のお母さんが勝手に進めた話でした。このお母さんも話が大きくなって、皆の期待が高まれば中将も断りにくく、結局はおとなしく右大臣の婿になるだろうと睨んだ上でのことです。
貴族の男君の中には人気が出るとあちこちの名家から御声がかかるのが嬉しくて、親が「この家がいい」と思ってもなかなか決めずにフラフラするうち、信用を失ったりする人もいました。ですから時にはこんな強引なやり方が有効に働いて、男君に出世を真剣に考える覚悟ができ、すべて丸く収まる事もあったのでしょう。乳母が婚家と話を決めて行く事に、特に違和感もなく結婚準備は進められたようです。
けれど二条の女君と衛門にとっては突然の話でした。周りはみんな知っていて、他の邸の人たちの噂話にまでなっているというのに、中将からそんな話は勿論、そぶりさえも感じていなかったのですから。よりにもよって、衛門の知人から唐突に聞かされることになりました。こういう事を他人の好奇の噂から聞かされるのは、やはり気分のいいものではないのでしょう。衛門も女君も戸惑っています。話だけなら何かの間違いとも考えられますが、結婚の月まで決まっています。しかもこの話を聞かせたのは当の右大臣の邸に勤めている人だったんですから、間違えようがありません。
相手が相手です。そんなに簡単に断れるものではないだろうと、女君も思ったのでしょう。やはり今の幸せは自分には過ぎたものだったのだと思っているのかもしれません。親の後ろ盾の無い身では、右大臣の姫君と寵を競うのは難しいことも分かっています。こうなれば女君には中将の心を信じる他にありません。そんな立場に追い込まれた女君はただ黙って、中将が「他に妻を持たなくてはならなくなったが、あなたを見捨てたりはしません」と、言ってくれるのを待っていました。
なのに中将からは何の話もありません。自分が言わせにくい態度を取っているのだろうかと、女君はきっと悩んだことでしょう。でも仕方がありません。中将本人さえも知らない事なのですから、打ち明けようがないのです。むしろ中将の方も女君が悩んでいる事を心配して、打ち明けてほしいと思っているのです。二人の心はすれ違ってしまいます。
たまらず「あこぎ」は「帯刀」に詰め寄ります。でも「帯刀」だってそんな事は知りません。まさか自分の母親が、自分や中将に黙って縁談を進めるなんて思ってもみなかったでしょう。 こんな大事な事を中将が自分に知らせないはずがない。口にしなくてもそんな態度を自分が見逃すはずもない。そう思って「帯刀」も混乱したことでしょうね。
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中将は左大将邸に参上していて、そこにあったとても美しい梅の花を折ると、
「この梅の花を御覧なさい。またとない美しさですよ。これでも見てご機嫌を直して下さい」
と、女君に贈られますが、女君はただ、
「 憂きふしにあひ見ることはなけれども
人の心の花はなほ憂し
(辛いことに会う事は無くなった我が身ですが、花のようにあなたの御心が移ろって行く事は悲しく思えます)」
と書かれたお文を、中将が贈った花に結び付けてお返しになりました。それをご覧になった中将は女君を可哀想にも、愛おしくも想われます。やはり女君は自分が誰か他の女性に心変わりをしたと聞いたのだろうと思うと、心苦しくて、すぐにお返事なさいます。
「やはり何か御疑いになっていたのですね。まったく疑われるようなことなどありません。たった今、すぐにもお分かりになりますよ。私の心をよくご覧になっていてください
憂きことは色は変はらず梅の花
散るばかりなるあたしなりけり
(あなたは悲しんでおられますが、私の心の梅の花は変わる事などありません。あなたに誤解されたままでは、我が心の花は嵐に散ってしまいます)
私の心を推し量って下さい」
すると女君からのお返しは
「 誘ふなる風に散りなば梅の花
我や憂き身になり果てぬべき
(あなたが私を想って下さる心を、あなたの御意志とは関係なく、散らす風が誘っていらっしゃるのでしょう。やはり私は悲しい身の上になり果てるしかありません)
とばかり思って、悲しんでいます」
とあるので、中将は女君はどんな話を聞いたのだろうと思っていました。
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中将も女君が何か誤解をしているらしい事は分かりました。けれども身に覚えがありません。 自分が目立つ存在なのは分かっていますから、つまらない噂が流れたり、好き勝手な事を言われて女君に不快な思いをさせるかもしれないとは思っています。だから原因を聞きだして機嫌を直してもらおうとしていますが、なんだか女君の方は深刻な雰囲気です。これはどうしたことだろうと中将は気が気ではありません。
こんな歌のやり取りをしていないで女君もはっきり聞けばいいのですが、実はそう簡単ではないのです。何故ならこの時代、貴族の妻になったからには女にあからさまな嫉妬は禁物なのです。それは男女の心の機微を超えて、社会的にみっともないことになるのです。母系社会で女の嫉妬を許してしまうと、そういう社会が成り立たなくなってしまうのです。
男女の事ですから、愛情が湧けば嫉妬も生まれるのは当然です。けれどこの時代は男性は何人の妻に通ってもかまわない「婿取り婚」です。当然、夫の愛情をめぐって女同士の嫉妬も起るに決まっています。けれどそれをあからさまにすれば、夫は通う足が遠のきます。わざわざ不快な思いをしに嫉妬する妻のいる邸に行かなくても、他に帰る場所があるのですから。女の嫉妬は自滅を招くのです。
それでも親がそれなりの家であれば、やはりそこは政略結婚。わざわざ出世の道を自分から遠ざける真似は出来ません。そのために結婚したのですから一番権力のある、自分の世話を焼いてくれる邸に戻っていきます。長く暮らせば夫婦の情も湧きますし、子がいれば我が子の顔だって見たいでしょう。嫉妬なんてするだけ損。夫が通いやすい環境を整えるのが賢い妻のありようだと言われたのです。
それでも甘いところばかり見せていては女君の顔が立ちませんし、男君だって政略結婚した家の主に嫌われては困ります。それなりの家の女君は少しばかりのやきもちを妬いて、でもそれはできるだけあからさまにせず、たしなみ深く、夫の浮気をけん制する程度にとどめ、男君も相応に自重してバランスを取るのです。
けれど、女君の暮らす邸はそういう勢いや権勢のあるお邸ばかりじゃありません。当時の結婚はとてもドライで、男君はより良い環境を求めていくつかの家に通い、最後は一番自分に有益な家に居着くようになりました。婿君に有益な環境を与えられない多くの邸の姫君は、結局は捨て置かれ、たまに気が向いて足を運び、自分たちの暮らしの援助をしてくれるのを待たなくてはなりませんでした。そんな弱い立場の中、とても嫉妬心を表に出してなどいられなかったのです。
子供でも生まれようものなら、我が子の為にも女たちは嫉妬と屈辱をこらえて生きて行かなければなりませんでした。男君が婚家に通う母系社会では、男君も自分を支援してくれない所に女君目当てで通うと、よほど自力があって自分の家の権勢にも恵まれていなければ、うっかりすれば出世のチャンスを潰し、家門に傷をつける恐れがありました。そして女君は嫉妬をする事さえ、許されない時代だったのです。
二条の女君も自分の置かれている立場は、痛いほど分かっています。嫉妬なんて見せたら中将に捨てられないとも限りません。ようやくつかんだ幸せを失う上に、自分に仕えてくれている人たちも窮地に追い込むかもしれません。邸の女主人になるとはそういうことです。苦労をかけて来た「あこぎ」や少納言にも、また、迷惑をかけてしまいます。
中将に聞きたいけれど、口を開けば女心から嫉妬の言葉も出てしまうかもしれません。おそらくこの時点ですでに女君の心には嫉妬の感情があって、必死にそれを抑えているのです。
中将と贈りあう歌も初めは抑えて「心の隔て」と言っていたのが、歌にすると口に上らない心がだんだん現れるのでしょうか? 次は中将の「心の移ろい」を悲しんで、最後は中将にそのつもりがなくても「誘う風」が中将の心の花を散らすと嘆いています。
この最後の歌は、梅の花は中将が女君を愛する心をあらわし、誘う風は右大臣の姫君が変わらずに女君を愛し続ける心の花を、権力の風によって散らしてしまう。中将の心がどうあろうと、こういう事になったからには自分は日陰の身に甘んじるよりほかにないのだとほのめかしています。おとなしい女君が今の自分の立場で出来る、精いっぱいの抵抗の歌なのです。
これにはやや鈍いところがある中将も、女君が深刻な気持ちでいる事に気がついたようです。
こんな歌を返してくるとは、一体どんな話を聞かされたのかと、胸を痛めています。
それにしても当事者たちは何にも知らない内に、噂だけは広まってしまって……。
今だってありがちなことですけど、噂って怖いですね。




