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63話:新しい調理道具の購入


 電車内で秋山に別れを告げた後。俺と彩姉は地元の駅で降りて、その足で食材の買出しに向かった。今後レシピを増やす以上、確保すべき食材の幅が広がる。買出しの頻度も上げなければならない。秋山の母親が食材費を出してくれると言ってくれているそうだが、正直助かった。


「今までは雑に作っても何とかなってたけど、これからはそうはいかないわねー」


 生鮮食品売場で肉と睨めっこしながら、彩姉が呟いた。パックされた肉のグラムと金額を確認するその眼に油断は無い。俺と一緒に買い出しを続けていた為か、こうした姿もすっかり板についた。


「多機能電子レンジを買うべきだろうか。パンとか焼けるヤツ」

「ならサッサとIHヒーター買った方が料理のレパートリーが増えていいんじゃない? なにも電子レンジレシピに拘る必要も無い訳だし。クッキングヒーターって安いのだと五千円ちょっとで来るでしょ? 買ってあげるわよ?」

「いや、彩姉は最近浪費が凄い。生活費以外の出費は避けるべきだ。クラブに通うならなおさらだろう」

「……痛いところを……」


 エアロバイクにダンベル等の各種筋トレグッズは大きな出費だったはずだ。さらに俺の部屋には大量のマンガだのラノベだのが持ち込まれて積み重ねられている。今時電子書籍の方が楽なのだが、彩姉は紙派だそうだ。確かに紙の方が読みやすいのは分かるが、床に本で山を築こうとするのは自重してもらいたい。


「とにかく、そろそろ設備投資する時期なのかもしれないわね」

「確かにそれはそうなんだが……」


 ウチの電子レンジは廉価品だけあって最低限の機能しかない。雑な自炊しかしない男の独り暮らしなら何の問題も無いが、彩姉との半ば二人暮らしがはじまってから、痒い所に手が届かない事にストレスを感じるようになっていた。

 今日の秋山の弁当作りも、前日から仕込んでいたものの、朝五時に起きて調理をはじめなければならなかった。今後は平日の弁当もグレードアップさせなければならない以上、今の調理道具達だけでは力不足といわざるを得ない。


「秋山も期待してくれている。ここは今日までほぼ手をつけずにいたお年玉貯金を切り崩してでも多機能電子レンジを買うべきか……その上でまだ足りない場合はガスコンロを買おう」

「絶対ガスコンロ買う方が安いし便利だから。一口コンロなら三千円ちょっとよ?」


 俺が提げている買い物カゴに厳選した肉パックを詰め込みながら呆れる彩姉。彼女の反応は至極当然である。俺もそう思う。


「なんであんた頑なにコンロ買わないの?」

「……片付けが面倒なんだ」

「嘘。またはそれ以外にも理由がある」

「…………」

「言いなさい。ほらほらー」


 彩姉が鼻先を摘んでグリグリと好き勝手引っ張り回してくる。くそ、言いたくない。言いたくないが、これは言わなければずっと遊ばれて執拗に迫ってくる展開だ。


「……中学の時、家のキッチンにGが出た」

「……黒くてカサカサ動いて生理的嫌悪感を催さずにはいられないあいつ?」

「そう、あいつだ。その時、家には俺しかいなかった。だからGジェットを手に果敢に戦った。しかし、奴はコンロに逃げ込んで……俺はコンロにGジェットを叩き込み……コンロの中で奴がのたうち回る嫌な音を……ずっと聞かされたんだ……」

「…………」

「それ以来、ガスコンロがダメになった」


 多分、そんな理由でキッチンにガスコンロを置こうとしない人間は、世界でも俺一人だろう。でも駄目なのだ。元々虫が苦手という事もあるが、あの体験がガチでトラウマになっていて、なんかもうホントに生理的に受けつけなくなってしまったのだ。


「IHヒーターはGが逃げ込む隙間も無いしいいと思うんだが、コンロ周りの油汚れって常に綺麗にしておかないと奴等を呼び寄せる温床になってしまう。電子レンジの手入れだけでも何かと手間なのに、コンロ周りの掃除まで加わるとさすがに面倒だ」

「なるほど。まぁ気持ちは分かるけど」


 そう言って、彩姉は鼻を解放してくれた。そして穏やかに笑う。


「私はあんたの電子レンジレシピ以外の料理、食べてみたいんだけどなぁ」

「…………」

「楓ちゃんも喜ぶだろうし。献立も増える。なにより栄養のある献立も作りやすくなる」

「よし買う」

「え」


 スマホを取り出してブックマークから愛用しているネット通販サイトにアクセス。そして数回タップ。


「ポチったぞ。明後日には届く」

「チョロ過ぎでしょ!?」

「チョロくて結構。多機能電子レンジの十分の一の投資で秋山の弁当のグレードアップができるんだ。これ以上素晴らしい事は無い」

「……お弁当もいいけど、楓ちゃんはあんたが褒めてあげるだけで充分だと思うんだけどなぁ」

「褒めるだけで記録が伸びるのならいくらでも──」


 褒めよう、と続けようとして、電車内の秋山が浮かんだ。


「…………」


 あんな秋山を見たのははじめてだったし、あんな距離で彼女を見たのもはじめてだった。

 秋山と別れてから収まっていた心臓が、再びバクバクと跳ね回る。その早鐘が耳元で聞こえると錯覚してしまうほど激しく、強く。


「楓ちゃん、どうだった?」


 突然、視界を彩姉の顔が埋めた。見慣れた意地の悪い笑顔。けれど、なんだろうか。どこか影がある。それが気になったものの、彼女の質問の意図の意味不明さの方に興味を引かれた。


「どうだった、とは?」

「柔らかかった?」

「やめなさい。昭和の中年サラリーマンみたいたぞ」

「え~あんなにぎゅ~ってされてた癖に~」

「顔がニヤニヤし過ぎててちょっと引く」

「しちゃうでしょあんなの見せられたら」

「周りにいた人達は気まずそうにしていたぞ」

「アカの他人が眼の前でイチャつきはじめたらああなるわよ普通。電車トラブルからの壁ドンなんてド定番やらかしておいて何言ってんのよ」

「イチャつくって……」


 言い返そうとしたが、あの状態を客観視すると、確かにそういう評価になるか。


「楓ちゃんだけじゃなくて、あんたも顔赤くしてたし。感想くらい聞いてもいいじゃない」

「ほら彩姉、早く買い物を済ませてしまおう。というか今日は疲れた。惣菜コーナーで適当なモノを買って済ませないか?」

「お、戦術的撤退?」

「ノーコメントなだけだ。ヘタな事を言ったら、彩姉から秋山に報告される恐れがある」

「ちっ、こんな時だけ勘のいい子ね」

「せめて俺のいないところで毒を吐いてくれ。さぁ、惣菜コーナーも見に行こう。そろそろ見切り品が出てくる時間だ」

「律ー楓ちゃんとの事は今日何も聞かないからポテチ買っていいー?」

「……今日、と枕言葉をつけているのは気になるがいいぞ。ただし小さいヤツだけだ」


 これはしばらく彩姉からいじられそうだな……。


お読みいただきありがとうございます。僕自身去年の暮れに引っ越したのですが、以来ガスコンロは使っていません。買ってすらいません。ずっと電子レンジで自炊しています。理由は作中述べられている通りです。いや、マジでもう…

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― 新着の感想 ―
[一言] ただ、下手にガスが残ると引火爆発の恐れがあるから結構危険!
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