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先日のあれこれがキッカケとなったのか、何だかすごくヨモギ君に構われるようになった。キャンパス内で出会えばたまにお昼を一緒に食べるし、夜ご飯なんかは結構な頻度で誘われる。あと休みの日にデートっぽいのにも誘われる。というかあれはデートだ。映画とかプラネタリウムとか水族館とか。あれがデートじゃなければきっと世の中にデートは存在しない。
回数は十分に重ねた。それなのに友達以上の関係にはならなかった。なんとなくヨモギ君本人にその気が無さそうだったのには気付いていたけど、その気が無いのに距離を詰めてこようとする意味が分からなかった。何故こんなことをするのか意味がわからなくて一度だけ聞いたことがある。
「わたしたち、付き合ってるの?」
「……恋人的な意味で言ってるんなら、付き合ってない」
平坦とか淡白とか抑揚がないとかそういうレベルじゃなかった。びっくりするほど冷たい硬質な声でそんなことを言われて、わたしはそれ関係のことを尋ねることが出来なくなってしまった。
後日。学食のカウンター席で捕まえた合コン仲間・工学部の初国君は、話を聞くところによるとヨモギ君とは一年生からの仲らしかった。わたしはミートスパゲティを食べながら初国君の話を聞き、彼はきつねうどんを食べながら今度はわたしの話を聞いてくれた。
要所要所を暈しに暈してわたし達の話をすると、初国君はわたしの話に少し引いた。というかヨモギ君に引いているようだった。
ちなみにこの話は千都世ちゃんには報告済みである。彼女は結構わたし贔屓なところがあるから、中途半端な態度のヨモギ君に憤ったけど、流石に彼本人に何か言うことは無かった。まぁ別に何か困っているわけではないし。いいのである。若干、もやもやするからそこだけは解決したいと思っているけど。
うどんを啜りながら話を聞いてくれていた初国君は水を飲んだあと「俺、もうとっくに四方木と北風原さんは付き合ってんのかと思ってた」と言った。
「思うよね。普通思うよね」
「逆になんでそれで付き合ってないんだ」
「だよね。……ヨモギ君って綺麗な顔してるからモテるでしょ。前の彼女にもこんな感じだったのかな」
今ヨモギ君に彼女がいないのは確認済みだ。恋愛系統の話はどうにも本人に振りづらかったから、こうして遠回りをしなければならなかった。非常に面倒だ。もやもやを流し込むようにお茶を呷る。ここのキャンパスの学食の給湯器から出てくるお茶は、美味しくも不味くもなかった。もやもやは流れてくれなかった。
初国君は最後までとっておいていたらしいきつねうどんの油揚げを咀嚼して飲み込んでから「いや、あいつは結構真面目だから付き合うんなら付き合う、付き合わないんなら付き合わないってスタンスだったと思うよ」と言う。そんな初国君の言葉に、そうだよねと心の中で同意。彼は結構真面目だ。再会した時に貸した面白Tシャツは洗ってアイロンがけされた状態で返ってきたし、使い捨ての下着に関して言えば後日ぴったりお金が返ってきた。これまでの付き合いで予想はついていた。だから、なおさら疑問なのだ。
「なんでこんなキープみたいな扱いなんだろうね」
ぼそりと零すと面白いくらいに初国君が「えっ、あっ」と狼狽えてくれた。癒しキャラだな初国君。
「冗談だよ、初国君も真面目だねえ」と笑うと初国君はバツが悪そうにそっぽを向いた。
△
特に夜景が好きと言うわけではないけど、その日の夜はヨモギ君と東京タワーに登った。東京タワーはすごい。エレベーターに乗ってすぐ一番上まで行けるのは多分スカイツリーも同じだと思うけど、スカイツリーは階段を使って降りることは出来ない。
思い切り高い場所や夜景を楽しみたいのなら高く作られているスカイツリーの方が良いのだろうけど、足で歩いて地上まで行ける東京タワーには結構、愛着があったりする。
展望台をくるくる八周くらいして、わたしたちは外へと行ける扉を開けた。
「わ」
思わず間抜けな声を出してしまった。展望台でも十分テンションが上がったけど、外に出ると段違いにテンションが上がる。
タワーを構成している鉄骨が、目の前にある。遠くから見ると大したことないように思えたけど、近くで見ると圧倒されてしまう。朱色の鉄骨は複雑に組み合わさってそびえ立っている。圧倒的な重量と大きさで立っている。
成層圏をぶち抜いて電離層の熱圏くらいまでテンションは上がった。しかたない。馬鹿と煙と北風原 伊澄は高いところが好きなのである。
柵のところまで駆け寄ろうとすると手首を掴まれた。ここには二人しかいない。誰がわたしの手を掴んだのか検討の余地はまるでない。だって彼しかいないのだから。
「ヨモギ君」
ときどき、ヨモギ君はわたしといるとすごく苦しそうな顔をした。いつもは何でもないような表情で顔面をコーティングしているのに、時々そのコーティングがガリガリと剥がれて、彼はどうしていいのか分からないような表情を見せるのだ。彼は苦しんでいた。
夜風で少し頭が冷えた。掴まれた手を思い切り握るとヨモギ君はビクリと震える。この人は、自分からするのは良いのに相手からされるのは苦手な人らしい。何だかおかしくて笑ってしまう。
「降りてみようか」
手は離してやらない。強い拒絶がない限り、わたしから手を離してやるつもりはなかった。
「ヨモギ君はさあ、工学好きなの」
カン、カン、と一つ一つ段を踏んでいく。夜風はちょっと冷たかったけど繋いだ手のひらの方に感覚が持っていかれてたから別段問題は無かった。
「工学が好きっていうか、」
少し考えるようにヨモギ君は言葉を止めた。ちらりと横目で彼を見る。やっぱりその横顔は綺麗だった。男の子に綺麗って言葉を使うのは少し躊躇われるけど、わたしの心の中でしか言ってないからモーマンタイだ。ヨモギ君は何かに視線を向けた。視線の先を辿ると、どうやら彼は鉄骨を見ているようだった。
「こわれやすいものが、苦手」
「そうなの?」
「うん。今学んでるのは壊れづらいものばかりだ」
「だから工学部を選んだの?」
「間違っても温かくて壊れやすいものに関わるような学部は選べなかったね」
そう言ってヨモギ君は五回くらい使った紅茶のティーバッグのような笑みを浮かべた。薄味すぎる。
地上に着くまで色んな話をした。昔の話や今の話をとめどなく。わたしはもともと話をするのが好きな方だ。彼はお喋りな性質ではなかったけど話を振ればそこそこの言葉を返してくれた。ヨモギ君との会話は楽しかった。ヨモギ君と過ごすのは面白かった。
一緒に過ごしていてふと思い出したことだけど、わたしは一時期ヨモギ君が好きだった。
小さい頃のわたしは、男子とヤンチャな遊びをして転んで膝を擦りむいて家に帰って母親に叱られるような子どもだった。そんなわたしの手綱を握っていたのが、歳のわりに少し、ほんの少し大人びていたヨモギ君だったのだ。
まぁ告白とかをする前、というかはっきりヨモギ君が好きだと自覚する前に疎遠になってしまったから彼には何も伝えていなかったし、そのことをわたしは忘れてしまっていたけど。今では良い思い出だ。
昔より随分大人になったヨモギ君は周りの女の子がほっとかないような雰囲気を纏っていた。お喋りがそこそこ出来て、綺麗な顔をしていて、頭が良くて、良い人。
幼馴染と呼ぶには馴染み具合がそれ程じゃない気がして、友達と呼ぶには少々距離が近しいような気がする。わたしたちは一体なんなんだろう。
わたしに向けられているのは好意であるように思えるが、彼はそれを否定する。理由を明かされないやんわりとした拒絶は苦しかった。それならいっそ距離を詰めて欲しくなかった。こちらから離れるという選択肢が選べなくなるほど、わたしは彼のことを好きになってしまっている。
ヨモギ君が望んでいないのなら、わたしは前には進まない。いや、違う。進めないのだ。ただひたすらに、苦しかった。
苦しいくせに、わたしはヨモギ君の手を離せなかった。
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「ね。あなた、正至くんとたまに一緒にいる子だよね」
一瞬、誰のことか分からなかった。でも、ここ最近密な付き合いのある男の子はヨモギ君しかいなかったから、少しのロスで彼女の言うセイジ君がヨモギ君であることに気付くことができた。
大学生ってやつは小中高生より随分と奔放な生き物だと思う。この大学生の奔放さは人間関係のしがらみが希薄になるからなのではないかと個人的に睨んでいるけど真相は定かじゃない。
夏休みに入る前のテスト期間だった。蝉がやけにうるさい昼下がりだった。だれかが廊下の窓を開けているらしい。蝉の鳴き声が邪魔をしてもなお、彼女の声は明瞭に聞こえた。
声をかけてきたのは全く知らない女の子だった。見た目は少し派手めだけど、そこまで気になるほどではないという絶妙なバランスを保っている、そんな感じの女の子。なんとなく、卑屈とかそういう言葉から遠そうな人だなという感想を抱いた。わたしの返答を待たずに彼女は口を開く。嫌な予感がした。
「正至くんと付き合ってるの?」
本人に否定されても、その形は保っていられた。
「いや、付き合ってないよ」
「へー、そうなんだ」
それなのに、見ず知らずの他人からの視線には耐えられなかった。
テスト期間に入ってからしばらくヨモギ君には会っていない。この学年にもなると、わたしの学部なんかは履修しなきゃいけない教科が少なくなってテストはかなり楽になる。そんなわたしとは対照的にヨモギ君は色々と、資格関連のあれこれで余分に履修しているみたいだった。彼の真面目な性格もあって、きっちりとテスト勉強に勤しんでいるらしかった。
正直なところ、自覚してしまったら長く続くとは思えなかった。だから、ちょうど良かったのだ。
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大学生の夏休みは一般的に長い。と言ったら忙しい学部の友達に怒られそうだけど、やっぱり高校時代までの夏休みと比べると大学生の夏休みはかなり長いと思う。
夏休みに入って、ヨモギ君からはちょくちょく連絡があったけど、それも軽い雑談をするだけに留めて実際に会うことはしなかった。
実家に帰ってる、とメッセージを送ったとき「自分もそろそろ帰ろうかな」というメッセージが返って来てかなり焦って思わずスマホを落としてしまった。そうだ地元が一緒なんだから地元にいたら鉢合わせてしまうかもしれない!
わたしは適当な理由をつけてひたすらヨモギ君と鉢合わせないよう手を尽くした。祖父母に頼み込み、前のキャンパスの近くにある祖父母の家に身を寄せ、そしてそこでわたしは畑仕事の手伝いをすることにしたのである。
通っているキャンパスが同じなのだから、どっちかが大学を辞めたりとか、そういうことをしない限り、いずれわたしはヨモギ君に会うことになる。
これはただの逃げだ。それはわかっている。けれど逃げずにはいられなかった。
時間をおけば苦しくなくなるかと思ったけど、ヨモギ君からのメッセージを見るたびにわたしの胸はしくしく痛んだ。もう勘弁して欲しかった。
他人に対してあんまりにも不誠実で悪い態度をとっていたからなのか分からないけど、多分バチが当たったんだと思う。
農作業中に不注意で骨を折ってしまった。比喩ではない。マジもんの骨折である。おじいちゃんもおばあちゃんも農作業で骨なんか折ったことが無いのに、最年少のわたしの手首がばきばきである。ばきばきではあるけど綺麗な折れ方をしてくれたので、全て治るまでそれほど時間は掛からないと言われたのは不幸中の幸いだった。
そんなこんなで農作業中の手伝いは数日で出来なくなり、祖父母のところで穀潰しをしているのも申し訳なくなったわたしは、わたしの城に帰ることにした。
母さんと父さんは心配してくれて実家に帰るように言ってくれたけど勇んで家を出た手前、帰りづらかったし何よりヨモギ君が地元に帰っているかもしれないから地元には戻れなかった。
自分の部屋に戻って来て翌日。わたしは悠々自適という四字熟語がぴったり合うような日常に身を投じていた。
昼頃に起きて、一人で映画を見に行って、夕食を話題のレストランで食べようと思っていた。流石にレストランは一人で入りづらかったから、友達を呼ぼうと思いスマホをポケットから出そうとしたとき、何となく見られている感じがした。
なんともなしに視線を巡らせて、後悔。わたしは自分の迂闊さに辟易することになる。
なんというか、不幸は意外と連鎖するものなのだ。
あの合コンとも言えないような飲み会で見たときよりもずっと、彼は目を見開いていた。表情の乏しい彼がかなりわかりやすく驚いている。彼の隣には、夏休み前にわたしがヨモギ君の彼女であるか否かを聞いてきた女の子がヨモギ君を見て首を傾げていた。
あ、これはよくない。持っていたスマホが派手な音を立てて跳ね、左のほうに落っこちる。わたしは咄嗟に左手を出した。ああ駄目だ左手首骨折してるんだった。
気持ちを落ち着かせてわたしは右手でスマホを拾い、そのまま弟に連絡を入れた。わたしの都合の良い予想に過ぎないけど、なんとなく、ヨモギ君はわたしの部屋にくるような気がした。
△
わたしの弟はよく出来た弟だ。「ねえさんが言いたくないんなら別にいいよ」と言って詳しい理由は聞いてこなかった。何も聞かないで部屋に入れてくれた弟は天の使いなのかもしれない。天使にしては少し筋肉むきむきすぎるけど。でも本当にありがたかった。
早朝バイトがあるらしく、弟は「俺が帰る昼まで、部屋にいてもいいけど」と言ってくれたけど仮眠をとって夜中に一緒に出ることにした。ていうか早朝バイトがあるのに押しかけてしまって申し訳ない。今度埋め合わせをしなければ。
弟と別れて部屋に着くまで、わたしは昔のヨモギ君のことと今のヨモギ君のことを考えた。改めて思い返してみると昔も結構無表情キャラだったけど今は輪をかけて無表情キャラになっているヨモギ君。それでも本質的な部分はあんまり変わっていないような気がした。
小さなヨモギ君は他の男の子と違い、わたしが女だからと意地悪をしてこなかった。それについて他の男の子に随分とからかわれたけど、ヨモギ君は毅然と言い返していたような気がする。うん、昔から周りの子より少し大人っぽかったからなあ。
そしてそこでわたしは引っかかりを覚えた。あれ。あれ?そうだ、からかわれるくらいじゃ彼はムキにならなかった。
じゃあ、わたしの記憶のなかにいる怒ったり泣いたりしているヨモギ君は、一体いつのヨモギ君なんだ?
答えが弾き出される前にマンションに着いてしまった。そしてわたしの頭の中身は精神的な衝撃で真っ白になる。
夏でも夜は割と冷える。それなのに涼しげな格好の彼は、お酒の缶を両手に持ちながら植え込みを形作るブロックの上に座っていた。追い剥ぎしてくださいと言わんばかりの格好である。追い剥がれていないか心配だ。
動揺のし過ぎで足音がかなり大きく響いてしまった。のろのろと顔を上げたヨモギ君はぼんやりと、またあの揺れる水面みたいな瞳でわたしを捉えて、泣きそうな顔をした。その顔を見て思う。ああ、やっぱりこの顔をわたしは知っている。
「北風原」
「ヨモギ君、久しぶり」
少しだけ痩せたような気がする。「うん」と答えるその姿は道に迷って途方にくれた子どものようだ。
「いつから待ってたの」と聞けば彼はほんの数秒黙って「昨日の夜くらいから」とそんなことを言う。思わず呆れてしまう。
「頭はいいのにバカだなヨモギ君」
「うん」
「通報されなかったの」
「職質されたけど、酔っ払いだし…学生証見せてすぐ帰るって言ったら見逃してくれた」
「やっぱりバカだなヨモギ君」
「うん」
ヨモギ君をそのままアヤシイ不審者にしておくことは憚られたから、わたしは彼の手を引いて部屋に入ることにした。




