21・朝はてんやわんや
朝目覚めると、いつもとは違う天井が目に入った。そう、昨日から私はここ、渋沢家に引っ越して来たのだ。昨日越してきたばかりなのに、部屋の中はすっかり片付いている。それは昨日、まもちゃんや樹くん、翠ちゃんが一所懸命手伝ってくれたからだ。三人には感謝している。しかし、手伝ってくれたとはいえ、やっぱり引越しというのは面倒な作業が多く、昨日はへとへとになってしまった。まぁ、引越しだけが原因ではないような気もするけど……。なんとなく疲れが残っている体に喝を入れるため、腕を大きく上にあげて体をぐっと伸ばす。すると、それだけで体の疲れが少しなくなったような気がする。
「うん、いい感じだ」
まだベッドに寝そべったままの状態で、ぽつりと独り言を漏らすと、私しかいないはずの部屋からもう一つの声が飛んできた。
「いい感じならそろそろ起きてね。メシだよ」
突然の男性の声に私は身を硬くした。恐る恐る横を向くと、私の横にしゃがんだ状態で寝顔を見ている樹くんの姿があった。ベッドに肘を突き、私と目が合うとにっこりさわやかな笑みを浮かべ、私の頬を人差し指でぶすりと刺す。勿論、その後の私の行動は、以前まもちゃんにお風呂で鉢合わせした時と同じように、大きな声で叫び声を上げたのだった。その叫び声は渋沢家全体に響き渡るほどの大声で、当然まもちゃんの耳にも届いたようだ。隣にいる樹くんは、両手で耳を塞いで目をぎゅっと瞑っている。そりゃこんなに近い位置で叫ばれたら、耳の一つも塞がなければ鼓膜が破れてしまうかもしれない。申し訳ないという気持ちと、女性が寝ている部屋に無断で侵入した罰だ、という二つの気持ちがあったけど、どちらかというと勝手にこの部屋に入ってきた樹くんが悪い、そんな結論が私の中で出ていたので、申し訳ないという気持ちはどこかにいってしまった。そして程なくして、どたどたとやかましい音が近づいてきて、ついに部屋の扉が開かれた!
「香澄!? なななな何があったの!?」
「ま、まもちゃんまで! もう! 着替えてないんだから二人とも出て行って!」
パジャマ姿の私に気付いたまもちゃんが、頬を染めながら慌てて部屋を出て行った。その時、樹くんを忘れずに連れて行くところは流石だと思う。二人が部屋から出て行ったことを確認してから、私はベッドから起き上がって着替えをした。とりあえず、今日は会社だ。会社用のシンプルなカットソーとベージュのスーツを選んで着替えた。カットソーから覗く鎖骨の辺りが寂しいので、小さなダイヤモンドヘッドのゴールドネックレスをつけることにする。これで少しは寂しくないかな? 左手の薬指には勿論、まもちゃんから貰った大切な指輪が幸せオーラを放っている。思わずニヤケそうな顔を抑えながら、私はリビングへと階段を下りていったのだ。
「おはよう」
リビングの扉を開けて朝の挨拶をすると、ソファーにはふて腐れている樹くんがいた。それと同時に、味噌汁のいい匂いが鼻をくすぐる。どうやらまもちゃんが、朝ごはんを用意してくれたらしい。
「香澄、座って? 朝ごはんできたよ」
「うわぁ、すごい美味しそう!」
「うちは朝は大体和食なんだけど……よかったかな」
「和食大好きだよ。ありがとうまもちゃん、いただきます」
両手を合わせて箸を手にするが、何から食べたらいいのか迷ってしまう。箸をあちこちに向けてはうろうろしていると、まもちゃんがくすっと笑いながら私を嗜めた。
「こら。迷い箸はマナー違反だよ」
まもちゃんは、ちっとも怖くない声で私を注意した。それに対して私は謝り、まずはこのいい匂いがするお味噌汁からいただくことにした。ほんわりと立ち上る湯気と共に、お味噌と出汁の香りに包まれて、なんだかとっても懐かしい気持ちが甦る。それはまだ、私が実家で暮らしていた頃のことだ。実家も和食が主だったので、こうしてお味噌汁の香りを楽しみながら飲んだものだ。だからこんなに懐かしい気持ちになるのかもしれない。まもちゃんと笑い合いながら朝食を摂っていたが、突然後ろから恨みがましい声が聞こえてきた。
「……俺は放置かよ」
すっかりいじけてしまった樹くんがのそのそと食卓につくと、まもちゃんが私の顔を見て、思い出したように「あ」と呟く。そして、樹くんのご飯をよそって食卓に戻ってから、ゆっくりと話し出した。
「朝は急に部屋に入ってごめんね。樹にもしっかり言って聞かせたから安心してね」
「言っとくけど、あんな色気のねぇ寝顔なんか見ても嬉しくもなんともないからな!」
相変わらず口が悪い樹くん。彼は本当に懲りないというか何というか……。当然、こんな暴言を吐いたのだから、彼の頭上から拳が降ってきたのは当たり前というか。先程部屋に勝手に入った時も、まもちゃんに拳骨をくらったらしい。そして再び同じ場所へ落とされた拳骨。樹くんがその痛みを必死で堪えている姿が、悪いけど笑えた。こうして食卓は笑いで包まれて、朝食はどんどん進んでいく。今日は翠ちゃんがいないのが残念だったけど、これからはこうして誰かと一緒にご飯を食べる事ができるのだ。それがなんだかとても嬉しくて、幸せなことのような気がする。普段は忘れがちだけど、一人でご飯を食べるより、笑いながら楽しくご飯を食べられることってとても幸せなことだと、しみじみ思う。
「美味しい?」
まもちゃんに顔を覗き込まれ、くりっとした黒曜石のような瞳を向けられると、朝から心臓に悪い。でも、まもちゃんがちょっとドキドキしながら私の答えを待っているので、私は満面の笑みを彼に向けて大きな声で彼に言う。
「凄く美味しいよ!」
それだけだけど、まもちゃんはとても満足気に微笑んだ。そして食卓にまた笑顔が戻る。
二人きりもいいけれど、こんな風に賑やかな日常も……悪くない、そう思った。
「さて、そろそろ会社行かないと」
食事を済ませ歯を磨き、メイクを仕上げてリビングのソファーから立ち上がった。まもちゃんは片付けを済ませ、洗濯機を回している。樹くんは朝のニュースを観ながらコーヒーを飲んでいた。出掛けるのは私だけだと思ったけれど、のっそりと樹くんがソファーから立ち上がり、部屋の隅に置いてあったバッグを手に取った。
「俺もガッコー行くから」
ちらっと横目で私を見て、玄関へと一人で向かう樹くんの後ろ姿を、私は追いかけた。スーツのジャケットを羽織り、ベージュのスーツに合わせたヒールを履く。そして玄関に掛けられている鏡を覗き込んで、最後の仕上げに身だしなみを整える。私が鏡を見ながらヘアスタイルを整えていると、私の背後で同じように鏡を覗き込んで、同じくヘアスタイルを整える樹くんの姿が見えた。お洒落っ子な樹くんも、毎朝念入りに自分の姿をチェックしているらしい。そしてそんな私達の姿を見て、いつのまにか見送りに出てきてくれたまもちゃんが、くすっと笑う。
「なんで二人とも同じ行動してるの。なんか傍から見てると面白いよ」
くすくすと微笑んでいるまもちゃんに対して、私もつい顔をほころばせる。でも樹くんはニヤリと笑って、私を後ろからぎゅっと抱きしめた。突然抱きしめられて、私は驚きのあまり声を出せずにいた。そして目の前にいるまもちゃんの表情が、ぴしっと固まってしまっている。当の樹くんは特に気にすることもなく、そして悪びれることなくへらっと冗談を言う。
「俺と香澄、案外兄ちゃんより合ってるのかもなーなんて」
はっはっは、と笑いながらするりと私から腕を離し、玄関の扉を開ける樹くん。当然だけど、まもちゃんの様子には気付いていないようだ。樹くんにしてみればこれは冗談の一環に過ぎないのだろうけれど、まもちゃんは冗談でも真剣に受け取ってしまうところがある。冗談を受け入れて本気にすると、まもちゃんはもう、冷静ではいられなくなるだろう。まもちゃんの様子をそっと窺うと、真っ青になりショックから立ち直れないまま、そこに立ち尽くしている。
ああ、まもちゃん。それは冗談なのよ!
心の中で叫ばずにはいられない、一日の始まりだった。




