008 〜延徳2年(1490年)11月 津具宿〜
〜延徳2年(1490年)11月 津具宿〜
私は囲炉裏に腰を下ろし、主人に向き直った。
「私は菅沼竹千代だ。ご主人の名は?」
「しがない桶屋で、名を利兵衛と申します。」
流石は津具の商人、名を聞けば粗方の事情は掴めるのであろう、居住まいを正し、納得した表情で利兵衛が答えた。
「利兵衛、ひとつ相談がある。見たところ桶以外も扱うのであろう。この地でまだ誰も扱っていないものを試してみないか。」
主人は目を細め、静かに私を見つめた。
横で眉を寄せている孫右衛門に、ひっそり持参させた木箱を取りに行かせた。まだ怒りの残る表情を抑えつつも私の指示に従い孫右衛門が利兵衛に箱を渡す。
小さな箱に詰められているのは干し椎茸だ。これを利兵衛の目に触れさせれば、これが単なる珍品ではなく、持続的な商機を秘めていることを、直感で感じ取るはずだ。
利兵衛は木地類を受け取った際と同様に、黙って箱を受け取る。利兵衛の手が箱の蓋に軽く触れる。その指先から伝わる感触に、目がわずかに細まる。興味を抑えきれないようだ。
箱を開けた利兵衛の目をじっと見つめ、言葉を選ぶ。
「それは、試しに運んできたものだ」とだけ告げ、しかし視線と言葉の端に“膨大な量を定期的に提供できる”ことを匂わせる。
椎茸の重み、数量、整然とした並び。利兵衛の目は自然とそれを測っていた。同時に、疑いも含まれていたが私はそれ以上説明せず、ただ利兵衛の指が伸び、動かすに任せていた。
利兵衛は箱を前に置き、指で椎茸を軽く押す。指先に伝わるのは、しっかりとした肉厚、弾力、香りの余韻。希少品の価値は、一目で理解できる。
息をつき、目を細める。利兵衛の頭の中で計算が回っている。量、希少性、価格の予想、仕入れルート。
微かな沈黙の後、箱の蓋を閉じ、口を開く。
「……なるほど、定期的に仕入れが可能であれば、是非お取扱いさせて頂きとうございます。」
その一言に、私は軽く頷く。利兵衛の声に抑揚はない。だが目の端で、利兵衛の疑念の残る目が、次第に商機の光が宿り始めていたのを見逃さなかった。
利兵衛が椎茸の箱を閉じたあと、しばらく間が空いた。その静けさを照らすように夕陽が差し込んできた。
彦兵衛、与五郎達の怒気は消えたが、商人に対する警戒はまだ消えない。しかし口を開かせる必要はない。
「利兵衛、津具のことを少し、教えてもらいたい。」
利兵衛の眉がわずかに動く。彼は商人らしい慎重さで、言葉の裏を探るようにしながらも、すぐには答えなかった。
「……津具のこと、とは?」
私は落ち着いた声で、しかし幼い響きを壊さぬように言葉を落とす。
「こういう珍しい品を扱うにも、周りの事情を知っておいた方がいいと思ってな。」
私は淡々と、しかし自然に。
利兵衛は顎に手を当て、少し考えるそぶりを見せた。
「まあ、構いませんが……菅沼の若さまが聞いて、どうなさるやら。」
私は微笑むだけにとどめた。余計な説明はしない。彼が勝手に“利口な領主の子”と解釈してくれた方が好都合だった。
利兵衛は小さく息を吐き、話し始めた。
「津具という所は……ご存知の通り、どこのお国も完全には押さえきれぬ山の奥地でございます。」
その言葉に、私は眉を動かさず耳だけを傾ける。
「北からは遠山様が伸びてくる。西からは足助鈴木様。南は奥平様。東は菅沼様。四方から手が伸びてくるわけです。」
彦兵衛、与五郎がわずかに姿勢を正す。土地の名前、それぞれが持つ力。戦国の地図が頭の中で形を成していく。
「どこが治めたというより……どこも完全には治められない。そういう土地でございます。だからこそ、津具では古くから“寄り合い”のようなものがございます。腕の立つ商人が集まって、村の取りまとめをしております。」
利兵衛は少し照れたように笑った。
「手前共も商いはしてますが……寄り合いには呼ばれておりません。まあ、腕っぷしより懐の深さが試されるところでして。」
つまり、津具の商人たちは表向きは平穏に見えて、その実裏では互いを牽制している。
私は静かに言葉を重ねる。
「では、寄り合いに属していないと、商いは不利になるのか?」
「不利というほどでは……」
利兵衛は言葉を濁しつつ、続けた。
「ただ、宿場の行事や道の補修なんかは、寄り合いの声が強く、手前共のような小商人は、どうしても後手に回ります。」
つまり――力の空白地帯ゆえに、商人たちが小さな自治を作り、それを巡って静かな争いが起きている。
戦が起これば近隣の軍勢が入り、商いが止まる。
商人たちは、一定の均衡と小規模な自治こそが生き残りだと知っているのだ。
私は頷きながら、さらに核心へ踏み込む。
「四つの家の力は、どんな具合ですか?」
利兵衛は苦笑した。
「若さまとは思えぬ質問ですな……まあ、話しますが」
と前置きし、指を折りながら説明した。
「北の遠山様や西の鈴木様、南の奥平様は往来も多く、付き合いも多ございます。最近は特に……東の菅沼様が勢いを増しとる気がします。」
そこに含まれる気配。私はその気配を逃さぬよう、視線を利兵衛の目に向ける。
「菅沼が……強くなってきていますか?」
彦兵衛がわずかに動き、私の顔をちらりとうかがう。
私の叔父である菅沼貞行の話に触れたからだ。
利兵衛は気づかぬふりで続けた。
「足助で、やけに大きな城を作り始めたという噂も聞きました。」
私は目を伏せた。
武節城――叔父貞行が指揮して築こうとしている支城。
「大きな支城を……?」
私はその言葉を飲み込むように呟いた。
利兵衛は肩をすくめる。
「さあ、実際どうかは分かりません。しかし、噂があるということは、周りの家は警戒します。支城というものは、本来力の枝葉のはず。それが幹より太くなれば……誰もが妙だと思いましょう」
叔父の野心か…田峰菅沼家中の勢力争いか。
いずれにせよ、均衡が崩れれば最初に揺らぐのは津具のような辺境だ。
利兵衛は続けた。
「津具の寄り合いの商人たちは、四家の力が均等であるからこそ動ける。どこか一つが強くなったら、宿は一気に飲み込まれます」
その言葉は、子供の耳に向けた柔らかな説明のようで、実際は鋭い現実を突きつけていた。
彦兵衛、与五郎達は背後でじっと息を潜めている。津具を巡る周囲四家の均衡、叔父貞行の動き、その影響――。
私は利兵衛の目を静かに見返した。子供の顔。しかし、思考の奥は深い。
叔父が足助に巨大な武節城を築く。それは明らかに、四家の均衡を崩す兆し。均衡が崩れれば、周りは必ず反応する。津具は均衡の上に立つ宿だ。最初に揺れる。
ここに新たな商機――椎茸を流す。
その流通を握るのは、寄り合いの商人でなく、この利兵衛にしよう。理由は簡単だ。自治の中心にいる商人に力を与えれば、均衡はさらに読みにくくなる。ならば、外側の商人の方が扱いやすい。
利兵衛は商いの才があり頭も回る。勿論この土地の風向きにも敏い。私は一呼吸置いて、言葉を落とす。
「津具は……しばらく、揺れそうですね」
利兵衛は驚き、そしてすぐに苦笑した。
「若さまが言うには、重すぎる言葉ですな。しかし――」
その先は言葉にしなかった。だが目が語っていた。
“分かっている” と。
利兵衛は姿勢を正した。
「若……いや、竹千代様。こんな僻地ですが、商いの気配には敏い土地柄でして。寄り合いの連中も、動く気配があればすぐに嗅ぎつけます。椎茸の件も例外ではありません。扱いを誤れば、目をつけられましょう」
私は淡々と頷く。
「それでも、やりたいと思っています。」
利兵衛の目に、興味とわずかな怖れが宿る。
「……ではお伺いしますが。いかほどの量を?」
私は、微笑まない笑顔――表情を作らない“無表情の肯定”で答えた。
「津具の商人が扱える量では……足りないかもしれません。」
利兵衛の喉が小さく鳴る。
「毎月、定期に、季節を問わず、安定して」
その全てを言葉にはしなかったが、空気が示した。
利兵衛は深く息をつき、最後に静かに言った。
「……承知しました。噂半分、疑い半分ですが…それでも乗ってみる価値は、ある。そう思いました。」
彦兵衛達の背筋がわずかに揺れた。利兵衛が商を受けたからではない。
“菅沼家の北辺の政治情勢が揺らぎつつある”
その現実を、利兵衛の言葉で改めて突きつけられたからだ。
私はただ静かに、深く頷いた。
外へ出ると、日が落ちかけていた。
道の端で中馬とは別れて、馬廻り衆が軍馬の手綱を握る本職の速度で一路田峰に戻る。彼らの怒りはすでに消え、ただ緊張と忠誠だけが残っていた。
私は右近の腕の中で鞍に手を置き、宿場の灯を振り返った。
津具――均衡に支えられた土地。そして揺らぎ始めた情勢。叔父が築く巨大な城。商人たちの自治と利害。
私は小さく息を吐き、彦兵衛達に頷いた。
「急ぎましょう」
その声は子供の高さを保っていたが、その奥に宿る思考は、完全に別世界の大人のものであった。
〜参考記事〜
重伝建の町並みを歩く/豊田市足助観光協会
https://asuke.info/judenken/
〜参考文献〜
広報とよたNo.1506「ついに復元!重要文化財『旧鈴木家邸宅』へ」/豊田市
https://www.city.toyota.aichi.jp
〜舞台設定〜
第7話に続きの椎茸の販路のついての商談です。その会話で周辺情勢を説明させました。また、ちょいちょい馬廻り衆の描写を挟み、彼らが竹千代をただの庇護対象から命を賭す警護対象として認識し出した雰囲気を表現しました。
津具と言えば、元亀3年(1572年)武田信玄が金鉱を発見し甲州金の原資としてから昭和まで産出し続けた、佐渡金山や伊豆金山に匹敵する、津具金山が眠ってますが、今掘るとチート過ぎて話が成立しなくなるので触れませんでした。




