035 ~延徳4年(1492年)1月 凌雲寺~
~延徳4年(1492年)1月 凌雲寺~
【凌雲寺住職・専如視点】
凌雲寺の境内には、炊けた粥の香が濃く漂っていた。大鍋の蓋をわずかにずらすたび、白い湯気が立ちのぼり、雪に曇る空へ細い柱となって消えてゆく。まるで寺の銭の様に儚い。
参道は朝から人が絶え間がない。雪を踏みしめて石段を登る飢えた人々は、頬がこけ、手指は霜焼けで赤黒く割れ、衣は湿り気を帯びて重かった。
わざわざ遠くから来る連中に椀に掬った粥を手渡すと、かすかな礼とともに骨ばった指が震えていた。
鐘を鳴らすと、澄んだ音が雪の中に吸われ消えていく。まるで寺の米の様に。
一応、昼の勤行中のために忙しいという事になっている儂に、稚児が遠慮がちに告げてきた。
「本堂に幸田様が参られました。」
(また、あやつか…。)
そういえば昨日も、庫裏の隅であの代官の背中を見た。あやつの寺に積まれた俵を数える指の動きに、憎々しさが滲む。
面会を逃れる口上も、今日は妙に浮かばぬ。渋々、膝を立てて立ち上がり、衣の裾を払って本堂へ向かう。
廊下の板は夜の冷えをまだ孕み、足の裏から骨へと冷たさが染み上がってくる。
柱の木目は白い光に乾き、香の煙は細く長く棚引いて、天井の梁の影へと溶けた。溶かした寺の蓄えの様だった。
あやつのせいで、寺には銭がない。昔は良かった。僅かな経を唱えれば、皆が競うように“寄進”と称して銭を置いていった。
昼は勤行に励み、夜は甘い白粉の香に身を沈めて、勤行の疲れを紛らわせた。寺の灯は絶えず温く、器の底には常に何かが残っていた。
思い返せば充実した日々だった。
翻って今はどうだ。終わりの見えぬ炊き出しで大鍋をかき回し、寒行の湯で指の皮が裂け、湯気で割れ目がさらに滲みる。
鍋の底に焦げ付いた粥を木杓子でこそげ取るたび、胸の奥の余裕までこそげ落ちる。……貧乏は寒い。寒いものは辛い。
「専如殿、ご機嫌麗しゅう存じ上げます。」
目の前で兵庫が頭を下げた。形ばかりの叩頭だ。この根羽で最高の知恵者である儂への敬いなど欠片も見えぬ。
「拙僧は今、勤行の最中で忙しい。用件は手短に願いたい。」
幸田が相変わらず不愛想な笑っていない目で、今日の用件は何かと思えば、途方も無い事を言い出した。
「この根羽の宿で、清い酒を作りたいと考えております。今三河にあるような『どぶろく』ではなく、寺で造っておる般若湯のような酒でございます。ぜひ専如殿のお知恵を賜りたい。」
無知な田舎者の高望みに、思わず口角が痙攣した。腹の中で大笑いしてやった。
(あのなぁ…酒というものはな、作ろうと思うて出来るものではないわ。田舎侍が。)
「無体を申されるな。さすがの拙僧でも般若湯の作り方は分かりかねる。ただ聞くところによれば、多くの理があり、手間もかかるそうだ。拙僧の知恵でどうこうなるものではない。」
幸田は深く頷いた。珍しい。いつものように噛みつきもせず、言葉をかぶせもしない。代わりに、一拍置いてから続けた。
「ならば、専如殿であればご本山――本願寺にもお顔が利きましょう。般若湯を作る僧を根羽へ回せるよう、お口添えをお願いできませんか。」
儂は袖を払った。絹が指に擦れる音が小さく鳴る。
「それは難しい。」
短い言葉の裏で、長い思いが絡み合い、結び目になって幸田の首を絞めてやった。
(無理に決まっておろうが。酒造りは秘してこそ価値がある。本山が易々と口外する訳がなかろうが。
だいたいお前のせいで寺の蔵が空だ。なぜ儂が労して、利をお前にやらねばならん。…協力はせぬ。せいぜい、勝手に足掻くがよい。)
幸田は、儂の溜息が冷える隙も与えずに言葉を継いだ。
「では、専如殿 御自ら御本山へ行って頂く。特に酒造りの肝である『種麹』――それを、どうにかして持ち帰って来て欲しい。」
儂は目を細めた。火の粉が指先に落ちたような、ちくりとした痛みが走る。
(幸田、お主、人の話を聞いておったのか。たった今、口を利いてやらんと言ったばかりだろう。
なぜ儂が危ない橋を渡って、本願寺の至宝を盗ってくる話になるのだ。行くわけが無いだろう。)
「拙僧は忙しい。炊き出しと勤行で、日が暮れる。」
突っぱねるつもりで口を結びかけた刹那、兵庫が一歩擦り寄り、声を低く絞った。言葉の温度が、僅かに変わる。
「対価を出す。」
その一言が、冷たい水面に投げ込まれた小石のように、儂の胸の中で波紋を広げる。
「これから根羽で大々的に作る。もちろん凌雲寺でも造る。寺で造った分の酒の売り上げは――すべて寺のものとしてよい。帳面も好きに付ければよい。」
幸田から……思いも寄らぬ提案が飛び出した。
暫しの間、眉の間へ指を置き思案する。
貧しさに割れた痛々しい指の隙間から、黄金色に光る阿弥陀如来像が見えた。
凌雲寺の名で売る。売り上げは寺に入る。幸田は帳面を覗かぬと言う。なにより――凍えぬ。
「そういうことであるなら……」
儂はゆっくりと顔を上げた。凍てつく空気の膜を額で押し破るような気持ちで。口元にわずかな笑みを刻み、目は澄ませた。
「確かに、般若湯造りは、仏の道にも通ずる。人の寒さを溶かし、心を和らげる。よし、拙僧が本願寺へ赴いて掛け合ってみよう。」
幸田はようやく、真っ直ぐに深く頭を下げた。頭を垂れる角度に、はじめて僅かな礼儀が宿る。
「かたじけない。必要なものはすべて菅沼で整えさせていただきまする。」
儂は袖の内で拳を固く握り、同時に指を開いた。僧の所作は、風が通り抜けるように美しくなくてはならぬ。
そして今こそ、滞っていた風を通す時だ。
ーーーーー
凌雲寺から戻った兵庫が、伊丹屋の戸口で肩に積もった雪をばさりと叩き落とし、勢いよく入ってきた。
戸が閉まると同時に、外の白い冷気が線を引くように消える。土間の炭俵の匂いと、煮しめの甘い香りが入れ替わりに鼻を撫でた。
「専如が本願寺へ行くこと、承知いたしました。」
「でかしたっ、兵庫。」
私は座から立ち、火鉢の縁に手を置いた。炭がぱちりと鳴り、薄い火の粉が一つ浮いて、空中で儚く消える。
兵庫の肩にはまだ雪がいくつか残り、髷の根元から滴る水が畳に小さな点を刻んだ。
「よし、源八、弥助、小十郎、久兵衛は銭の準備と旅支度をせよ。専如に付き、酒のことを余すところなく調べてまいれ。
寺や座、都の法度、それから京や堺の商人筋――誰が口を持ち、誰が札を握るのか。銭は十分に持って行け。」
そう声を掛けた刹那、「京や堺」と聞いた四人の目が一斉に輝いた。
「御意っ!」
返事は梁に反響し、部屋の隅々まで走った。
女将が奥から顔を出し、「道中餅を多めに」と手拭いを結び直す。
戸外では、馬の鼻息が白く、飼葉桶に落ちる乾いた音が規則正しく響く。
専如たちが出立したのは、翌日の昼の少し前だった。山裾の雲が切れ、雪は細かな粉に変わって軽く舞う。
門前に立つ専如は衣の合わせをきちりと整え、数珠を一度だけ握りしめる。源八、弥助、小十郎が影のように寄り添い、久兵衛は先の道の雪の質を目で測る。
銭の詰まった荷駄の紐は固く、草鞋の緒は新しく、背に負った包みには筆と紙と、空の帳面が入っている。
空白は、これから埋める為にある。
寺の鐘が二つ、間をおいて三つ鳴り、旅立ちの刻を告げた。見送る者たちの白い息が重なり、道は静かに開く。
馬の蹄が雪を圧し、柔らかな跡を列のように刻む。専如は振り返らない。ただほんのわずか、肩を前へ倒した。
やがて一行の背は杉の影に溶け、雪の反射だけが残った。残された空気は軽く、しかし張りがある。火鉢の炭は赤く、私の胸の内もまた、静かに熱を増していた。
酒の香りはまだ遠い。しかし、道は確かにそこへ続いている。
~参考記事~
愛知の酒/名城大学農学部山下勝
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自宅で本格的な純米吟醸酒を造る!/SAKETIMES
https://share.google/RpZtFgS7UprabhmlG
~舞台背景~
江戸時代、酒といえば灘酒か参州酒かと江戸食文化を支えていた三河のお酒ですが、生産量こそ「下り酒」に劣りますが、中国酒の最大の特徴は「参州の”鬼殺し”」と称された鬼をも酔わす強さです。
江戸時代の儒学者頼山陽が「水で割ってみてようやく灘の辛口酒『剣菱』(\3,158./1.8L by Amazon)と同じくらいになった。」という高いアルコール度数で長い間、江戸市場を席巻しました。




