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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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034 ~延徳4年(1492年)1月 根羽宿~

挿絵(By みてみん)

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    ~延徳4年(1492年)1月 根羽宿~



 雪の路に(あか)(ひずめ)の音が弾んだ。白い雪が()ぜ、白煙が広がる。


 孫右衛門に率いられた(あか)い騎馬隊――少年らの列が幾筋も重なり、六つ釘抜の紅い旗指物をたなびかせながら駆け寄ってくる。

 孫右衛門の号令ひとつで手綱が一斉にしなり(あぶみ)が鳴る。


 少年たちの背丈は低いが鞍上は揺れず、脚の内側で馬の肋をやさしく抱き、膝で合図し、息で速度を合わせる。手綱を握る手はまだ小さく、目はとても澄んでいた。


「竹千代様、お迎えつかまつるっ。」


 孫右衛門が馬首を寄せるや、少年らが馬を左右に散らせ列の脇を護る。馬の汗が湯気となって立ちのぼり、革の匂いが雪の冷たさを突き破った。



――騎馬隊


 武田信玄を、そして甲斐武田軍を戦国最強たらしめた武田の騎馬隊は有名だが、その強大な攻撃力と相反して騎馬隊の編成には厳しい条件がある。大量の良馬の確保と、騎手の育成の難しさだ。


 武田騎馬隊は実は少数だったとも言われるが、それはそうであろう。馬は機械ではない。怪我もすれば、風邪もひく。

 最盛期には九千頭を擁したと伝わる「甲斐の黒駒」も、いざ合戦で一度に揃えられる騎馬数は数百頭に留まったという。


 まして乗り手の育成は、直ぐに替えの利く足軽とは違い非常に長い歳月を要する。史実に名高い軍師・山本勘助でさえ武田軍内の肩書は足軽大将なのは、馬を操るには幼少期から馬と暮らす環境が不可欠だからだとも語られる。


 言い換えれば、万を数える馬資源と長い経験を持つ人材が揃ってようやく少数の精鋭として編成できるのが騎馬隊であり、その長い移動力と強大な突撃力の背後には莫大なコストが横たわる。


 山国の甲斐は平地が少なく稲作に不向きな事で、古くから放牧と牧草地が発達した。また峻険な地形は悪路・隘路が多く、運搬・移動のため馬の需要も高い。


 こうした自然条件と歴史的需要が、甲斐を馬の産地たらしめた。もちろん甲斐と同様の環境をもつ木曽や奥三河も実は、馬の大産地で木曽馬・三河馬を産する。


 史実においても明治時代に至るまで、三河は数多くの軍馬を供出していた。例えば日露戦争(1904年)の際には、帝国陸軍の軍馬三万八千頭の約一割にあたる三千六百頭が三河馬であった。


 私は目の前で雪を蹴り、馬を扇のごとく(つら)ねる少年らの手綱捌きを目の当たりにして、近い将来、真紅(しんく)の騎馬を駆ける若き騎兵たちの活躍を確信した。


 また先日の合戦で大活躍だった紅い槍の列を振り返った。槍壁は横を差されれば崩れる。弱い側面を守るのは馬の(ひずめ)だ。騎馬隊は槍隊と非常に相性が良い。


菅沼軍の朱殷槍衾(ファランクス)は彼ら騎馬隊をもって完成する。



ーーーーー



 根羽の宿が、雪煙の向こうからざわめきの喧騒とともに現れた。新しい家々の屋根はまだ浅い灰色で、軒先の麻縄が風に鳴る。道はまっすぐで溝は深い。足助からの囚われの列が足を止め、目を丸くするのが分かった。


「足助も飯田街道の大宿であったが……」


 年配の男が呟く。誰かが「ここは田舎ではないのか」と返す。染め終わった鮮やかな布の山が店に積まれ、糸車の輪が窓辺でひときわ軽やかに回るのを見て、女中達が口を押えた。


 飢饉で流民も、職人も、そして楽市楽座に寄せられた商人達も、次々と根羽の宿へ押し寄せてきた。街はそんな人波を貪欲に呑込み道を伸ばし、町割りを広げた。驚くのは分かる。混乱ではなく賑わいがあるからだ。


 宿の札所で源八が名簿を改め新しい家へ割り振った。幼い者は南の長屋、病人と老人は西の薬倉に近い棟、女たちは井戸の清い一角。弥助が帳面に赤と黒で印を付け、小十郎が封縄を渡しながら声を掛ける。


「今日は休め。明日の昼から働き口を割り当てる。」



ーーーーー




 私は右近の馬を降り伊丹屋の宗伯の元へ向かった。いつもの彦兵衛、与五郎、右近、加えて源八、弥助、小十郎、久兵衛とともに。伊丹屋の暖簾(のれん)をくぐろうとした。


しかし(くぐ)る前に、草履が雪を踏んだ音が背に近づいてきた。


「竹千代様、聞き及びましてな――酒造り、とのこと。護りの要は変わりませぬ。拙者も是非付いて参りますっ。」


 そこに居たのは傅役の本多作左衛門だった。


 私の代わりに田峰へ帰還する菅沼勢五百余名を率いる陣代(じんだい)であるべき将が、なぜか眉を真っすぐにして立っている。噂は三河馬の脚より早いらしい。


「預けた軍配はどうした…まあよい。ただ根羽には長居するぞ。忙しくなる。」


 久しぶりに訪れた伊丹屋の土間は暖かく、炭の匂いが鼻をくすぐった。幸田兵庫も孫右衛門も内匠も待っていてくれた。兵庫は代官の顔つきだが、目尻の皺はいつもより柔らかい。兵庫は深々と頭を下げた。


「竹千代様、大勝おめでとうございまする。」


 短い挨拶のあと、いつの間にか訪れていた正月を皆で祝いながら、色々あった過ぎた年の思い出話に花を咲かせた。


頃合いを見計らって、私は居住まいを正して切り出した。


「これから酒を造りたい。皆が知る『どぶろく』ではない。寺で作っている僧坊酒――清い酒だ」


 炭がぱちりと鳴り、小さな火の粉が飛んだ。皆が唾を飲み、私から(うやうや)しく(いただ)いた(はず)の軍配を放り出してここにいる作右衛門が舌舐めずりをして呟いた。


「般若湯でございますか…」


 皆がどよめきザワついた。私がまたやってくれる。そんな木綿などとは比べものにならない大きな期待が犇々(ひしひし)と伝わってくる。


(あれ、みんな知ってたの。もしかして、もう飲んだ事あるとか…。)



僧坊酒(そうぼうしゅ)――



 室町時代、それまで自給用だった酒造りが商品経済の発展によって、酒造業として急発展した。


 応永三十二年(1425年)の記録によると、京都では三百四十二軒の造り酒屋が課税対象として登録されており室町幕府の重要な財源だった。


 そんな洛中洛外の土倉酒屋の酒は、麹米(こうじまい)と蒸した米である掛米(かけまい)に玄米を使用していた「にごり酒」である。


 ようやく戦国時代まさに今、麹米(こうじまい)は依然、玄米であるものの、掛米に白米を使う「片白(かたはく)」が主流となってきたところである。


 一方、寺院で造られている酒つまり僧坊酒は、麹米こうじまい掛米かけまいの両方に精白米(白米)を使う日本酒造りの歴史的な製法「諸白もろはく」で造られた澄んだ透明な日本酒(清酒)だ。


 この僧坊酒の諸白での仕込みは、後の酒造りにも繋がるこの時代で最先端な製法だった。


 「美酒、言語に絶す。」といわれた真言宗の巨刹・天野山金剛寺で造られた「天野酒」。

 「山樽三荷諸白上々」という評判から、織田信長が徳川家康を招いて行った盛大な饗応の宴でも提供された、菩提山正暦寺の「菩提泉(ぼだいせん)」。

 天台宗の名刹・釈迦山百済寺で造られた「百済寺酒」、同じく天台宗の越前国豊原の巨刹・豊原寺(ほうげんじ)で造られた「豊原酒」などがある。


 広大な荘園から納入される豊富な米や、貴族などから集まってくる寄進による潤沢な商業資本を持つ大寺院。


 資金力に加えて、暇と体力を持て余している修行僧や僧兵など、精力的な労働力にも事欠かなかった。


 また遣隋使・遣唐使に加わった留学僧や、渡来僧などの知識人が(もたら)す酒造りに関わる農法や醸造技術などの情報力。


 この時代の最高学府として、そういった情報や知識を吟味し、実験し、改良していくだけの学究的な時間と空間にも恵まれていた。


 澄んだ日本酒、清酒の醸造はまさにバイオテクノロジーの最先端であり、大寺院でなければ造り得なかった。


私は何故か(たの)()な兵庫を見て言った。


「凌雲寺の専如。あヤツに渡りを付けて欲しい。本願寺に酒を造る僧がいるはずだ。誰であれ、根羽へ呼べる道を探れ。」


そして言葉を重ねた。


「また是が非でも手に入れたいのは、寺が握る秘中の秘、種麹(たねこうじ)だ。やつもそれなりの立場、本山に幾らか人脈もあろう。頼む。」


 兵庫は暫く伊丹屋の梁を見上げて暫く思案した後、力強く言葉を返してくれた。


御意(ぎょい)。」


 火粉が散り、炭の音が軽くなる。私は燃える火の端に未来の輪郭を重ねた。

~参考記事~

日本酒の作り方|全12行程を図解でわかりやすく紹介/僧坊酒[百済寺樽]

https://share.google/yrMROA0giMSo1m1aO


日本酒造りの発明・発見/お江戸の科学

https://share.google/oowGfrbYmP05HlwOM


酒造りー精米から火入れまで/お江戸の科学

https://share.google/vLh5z4qhfiXsYgYzT


~舞台背景~

 初陣を経験し、改めて略奪経済からの脱却を決意した主人公が、富国強兵の中核として「清酒」(近世型の澄んだ日本酒)に挑戦する内政ターンです。

 実は、三河は現在でも日本酒生産量全国6位(日本経済新聞電子版2021/3/16)ですが、特に江戸時代、江戸で消費された酒は下り酒と呼ばれた伊丹、池田、灘方面からの酒が8割で、残りは中国酒(上方と江戸の中間の尾張&三河の意)が2割と、酒といえば灘酒か中国酒(参州酒)かという酒の巨大生産地でした。

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