032 〜延徳3年(1491年)12月 飯盛山〜
〜延徳3年(1491年)12月 飯盛山〜
山陰に残る雪は月明かりと松明の火に照らされ、昼とは別の、冷たい白さを帯びていた。
孫右衛門と内匠が本陣に姿を現したのは、日が落ち、山々が闇に沈み始めた刻だった。
二人とも泥と血で鎧を汚しながら、きちんと太刀を収め、武辺者らしく背を正していた。
「遅参、申し訳ございませぬ」
孫右衛門が言った。その声音には、悔しさが混じっている。
「いや、よく間に合った。そなたらが来なければ、本陣は危うかった」
孫右衛門は淡々とした挨拶だったが、急いで駆けつけて来てくれたであろう事は、鎧の傷が雄弁に物語っている。私は心の底から二人に感謝した。
「竹千代様、御見事な御采配にございました。大勝利おめでとうございまする。」
内匠が一歩前に出て祝辞を述べた。生きて会えた者同士の、ささやかな祝福があった。
「祝勝は、皆で分け合うものだ。まずは皆が無事なことを喜ぼう」
私がそう言うと、ようやく場の緊張がほどけた。兵たちが酒壺を運び込み、簡素な膳が整えられる。
合戦中、常に私の周りから離れず、護ってくれていた彦兵衛、与五郎、右近。援兵に駆けつけてくれた孫右衛門、内匠。そして源八、弥助、小十郎、久兵衛の文官たち。
ささやかな宴ではあるが、仲間たちでお互いの無事を祝い合った。
先刻まで戦場を満たしていた怒号や鬨の声は影を潜め、本陣の周囲は夜の帳に静まり返っていた。
「……ずいぶんと、静かですな」
孫右衛門が、半ば冗談めかした口調で言った。
彼の視線の先にあるのは、首実検の準備を進めたり、本陣を警護する僅かな近習たち。
槍を担ぎ、血に塗れた足軽の姿は、ほとんど見当たらない。
「追撃と“後始末”に出ております」
源八がそう答えると、内匠は小さく息を吐いた。
「でしょうな。勝ち戦の後に、兵を大人しく陣に留めておく理由はない」
その言葉の裏を、誰もが理解していた。
本陣の外――
谷を挟んだ向こう側から、かすかに届く叫び声と泣き声。風が吹くたびに、それは途切れ途切れに耳へ流れ込んでくる。
孫右衛門は一瞬だけ眉を動かし、鼻で笑った。
「二日、か。随分と太っ腹だ」
「兵糧も、恩賞も、十分とは言えませんので」
弥助がそう言うと、孫右衛門は短く「ああ」と頷いた。
それでこの話題は終わった。
――乱取り。
戦が終わった後、雑兵に与えられる唯一にして最大の報酬。命を賭して前に出た者たちが、銭や知行の代わりに与えられる“自由”だった。
誰もそれを「略奪」とは呼ばない。それは、戦の一部として、当然のものとして扱われていた。
ーーーーー
最初に荒らされたのは、山裾にへばりつくように点在する寒村だった。屋根には雪が積もり、畑はすでに刈り尽くされ、食い物など残っていないと一目で分かる。それでも足軽たちは、引き返さなかった。
槍を引きずる音。荒い息。
戦の最中に抑え込まれていた恐怖と興奮が、勝利という合図によって一気に噴き出していた。
「おい、開けろ!」
戸を叩く音が響く。返事がない。躊躇はなかった。足軽は蹴りを叩き込み、戸を破る。
中から転がり出てきたのは、腰の曲がった老人だった。逃げる足もなく、ただ両手を震わせている。
「銭だ。米だ。出せ」
老人が首を横に振るより早く、槍の石突きが腹に叩き込まれた。
短い呻き声。息が詰まり、老人は雪の上に崩れ落ちる。
誰も助けない。足軽たちは老人を踏み越え、家の中へ雪崩れ込んだ。甕が割られ、箪笥が倒され、床板が剥がされる。
埃と木屑が舞い、冷たい空気に混じる。
「何もねえぞ!」
「糞っ、どこに隠した!」
怒号が飛び交う。その怒りは、やがて“人”へと向かう。
若い女が、奥の間から引きずり出された。幼い子を抱えていたが、突き飛ばされ、子は雪の上に転がる。
泣き声が上がるが、それは嘲笑に掻き消された。
「やめてくれ……」
懇願の声は、途中で途切れた。
誰も命令していない。だが、誰一人として止めようともしない。
足軽たちにとって、敵味方の区別はもはや存在しない。
あるのは「生き延びた者」と、「奪われる者」だけだ。
家畜はその場で斬られ、血が雪を溶かす。鍋は蹴り倒され、乾いた豆や雑穀が踏み荒らされる。
女や子供は縄で縛られ、列にされた。
「売れるな」
「市へ流せば、いい銭になる」
そう言って笑う声がある。黙って従う者もいる。
誰一人として、罪の意識を口にしない。これは“報酬”なのだから。
酒が見つかり、火が焚かれ、勝者たちは歌い、喚き、踊った。
倒壊した家の梁が燃え、火の粉が舞う。煙が谷に溜まり、星を隠す。
逃げ遅れた者が火の中から這い出そうとして、斬られる。
「うるせえ!」
理由は、それだけだった。戦は終わった。だが、殺しは終わっていない。
殺す理由が、“許された”だけだ。
ーーーーー
別の谷筋では、松平勢の落伍兵が狩られていた。
傷を負い、鎧を捨て、雪の中に身を伏せた者たち。戦場から逃げ延びたつもりでいた者たちだ。
「いたぞ!」
「まだ生きてる!」
逃げる力も残っていない。足軽は囲み、槍で突き伏せる。
「名は?」
答えられない者も多い。それでも首は落とされる。
刃が骨と筋を断ち切る、鈍い感触。血が噴き上がるが、すぐに冷え、黒く固まる。
名があろうがなかろうが、首は首だ。数は功であり、恩賞に繋がる。
首は縄で束ねられ、馬に括り付けられる。その重みは、生き残った証だった。
ーーーーー
飯盛城の表曲輪では、武具蔵が最初に荒らされた。
槍、弓、鎧、矢束。戦のために蓄えられていたそれらは、瞬く間に引き剥がされ、担がれ、奪い合われる。
「俺のだ!」
「先に掴んだのはこっちだろうが!」
仲間同士での殴り合いすら始まった。止める者はいない。奪い合えるうちに奪わねば、何も残らないと誰もが知っていた。
武具蔵の奥で、震えている厩役の少年が見つかった。
「……勘弁してください」
声は掠れ、涙で顔が濡れている。返事はなかった。石突きが振り下ろされ、少年はその場に崩れ落ちた。
血は藁に吸われ、足軽は何事もなかったかのように次へ進む。
二の丸に入ると、様相はさらに酷くなった。女房衆が逃げ込んでいた部屋の障子が、次々に蹴破られる。着物を掴まれ、髪を引かれ、床に引き倒される。
「城の女は高く売れるぞ」
「顔はどうでもいい、歯が残ってりゃいい」
泣き叫ぶ声が重なり合い、やがて嗄れていく。逃げ遅れた老女が、仏壇の前で手を合わせていた。数珠を握りしめ、何度も何度も念仏を唱えている。
「仏様……仏様……」
足軽は鼻で笑った。
「ここは城だ。寺じゃねえ」
そのまま仏壇ごと蹴り倒し、老女は壁に叩きつけられた。仏像が床に転がり、首が折れる。誰も拾わない。
本丸では、すでに主だった者は討たれていたか自刃していた。
だが、蔵や奥座敷には、まだ多くの人間が残っている。鈴木重勝の家族、近習…。
文書蔵が見つかると、足軽たちは一斉に群がった。
「銭だ!」
「帳面に隠してあるはずだ!」
古文書や系図が床に撒き散らされ、踏みつけられる。何が重要で、何が無価値かを判断できる者はいない。
金箔を貼った箱が見つかると、歓声が上がった。
城の裏手、隠し井戸の近くでは、落ち延びようとした者たちが捕まっていた。雪の中に並ばされ、年寄りと子供は分けられる。使える者、使えぬ者。
「こっちは連れて行け」
「こっちは……まあ、いい」
いい、という言葉の意味を理解する前に、刃が振り下ろされた。首は雪の上を転がり、すぐに赤黒く染まる。
火が放たれ、梁が燃え、煙が立ち込める。略奪は私欲へ、私欲は暴力へと変わっていく。誰も指揮していない。誰も責任を取らない。
これが「乱取り」だった。
〜参考記事〜
『戦国時代の闇』大名たちが黙認した残酷な「乱妨取り」~雑兵の報酬は“略奪”だった/草の実堂
https://share.google/vGXgCbQiSpp5FfYkQ
北野武監督が最新作『首』で描いた「きれいごとでない」戦国の世と本能寺/読売新聞オンライン
https://share.google/UkgXzVuyq4w8ULgTl
日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由 天正遣欧少年使節がみた「日本人奴隷」の悲惨な姿/PRESIDENT Onlineプレジデントオンライン
https://share.google/mM31tmmHUGLfFSmJy
〜舞台背景〜
広い意味はでざまーになるんでしょうか、乱取りの回です。乱暴 狼藉は示唆に留めましたが、雰囲気は暗くしました。
一説には桶狭間の戦い(1560年)で織田信長の奇襲が成功したのは、前日の戦いの今川軍の勝利で、今川軍がみんな乱取りに出払ってたからという説がありました。




