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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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029  ~延徳3年(1491年)12月 飯盛山~

挿絵(By みてみん)

    ~延徳3年(1491年)12月 飯盛山~


 昨晩遅くまで降り続いた雪は、夜のうちに野も山も白く縫い直し、薄明の光で青く冴えていた。枝という枝には粉をふいたように雪が乗り、吐く息はすぐさま霧になって凍る。


 それでも本陣の眼下は白一色ではない。白を押し分けてうごめく黒と土色の塊、(ひし)めく二千の松平軍。

 初冬の樹である銀杏(いちょう)を冠する旗指物が林のように揺れ、槍の穂先が凍てついた陽を拾って鈍く光る。

 兵のざわめき、足音、革のこすれる音、遠くの法螺の余韻。それらが雪に吸われてなお、胃の底を鳴らすほどの圧で押し寄せてきた。


 松平勢は、兵糧など遠の昔に切れ、軍馬を食べ尽くし壁土の藁を噛むほど追い詰められている飯森城の救出には見向きもせず、また城を囲む貞行や家行の武節菅沼勢にも目もくれずに、森の中の丘に本陣を敷く田峰菅沼惣領軍に襲い掛かるべく脇目も振らずに進軍してきた。


――つまり、私を目指してやってくる。


 まあ…薄々そんな気はしていた。大将を討ち取れば(いくさ)の趨勢が決まるこの時代、この戦場で最も価値ある獲物は、もはや落城寸前の飯森城でも、この戦を始めた菅沼貞行の首でもない。菅沼勢の総大将・菅沼竹千代の首、つまりこの私だ。


 それにしても物凄い数だ。谷を埋める黒い波は圧巻の光景である。さすが岡崎平野という穀倉地帯を抱える大国松平、その国力の厚みには敵ながら感嘆すら覚える。


 そんな圧巻の光景に暫く魅入っていたが、2千人から向けられる殺意に意識を戻され、飯森城を見やると貞行や家行も攻め寄せる勢いを上げて、大量の矢の雨を注いでいた。しかしもう兵糧も碌に無いであろう鈴木重勝がよく守り飯森城は持ちこたえており、城門をじ開ける事が出来ていない。そのため飯森城を落として取って返して来る貞行や家行の武節勢の援軍は期待できそうにもない。


 そしていよいよ戦端は卯の刻(午前6時頃)に開かれた。


 丘に築いた本陣から俯瞰すれば戦況が良く見える。菅沼が寡兵だと侮ったのか、松平勢は麓から力押しに押し上がる戦法を選んだ。

 まず弓の一斉射。冷たい空を裂いて飛ぶ矢が、白い軌跡を幾重にも引く。ほどなく松平勢の槍隊が弓隊の前へ出て、雪を踏みしだきながらじわじわと麓の土塁へ迫る。


 だが、弓を抱えて歩く弓兵など、視界の悪い山中ではただの的だ。茂みの中から「今ぞ!」と作左衛門の声が弾けた。潜ませていた菅沼勢の槍隊が一斉に前へ。槍の穂先が土塁の影から突き出され、松平勢の最初の列が崩れる。

 作左衛門は手ごたえを確かめる間もなく、倒れた敵を視界の端で捨て、指揮手を振りかざしながら塁内へ素早く引き込む。菅沼勢の槍は“刺しては引く”。


 ここで菅沼勢は、さしたる追撃をせず、わざと後退を重ねた。松平勢の先手が丘の膝元まで達した刹那、左右の柵頭から猛烈な矢の一斉射で迎え、続いて菅沼勢は短槍・長刀の斬り込みを重ねていく。

 松平勢の先頭は崩れ立つも、背後には二の手、三の寄手が狭い坂道にひしめき、退き口を失った者から次々と倒れていく。人の波が詰まれば、兵は兵を押し潰す。


 勝報が届かないことに業を煮やした松平の将は、馬廻の者を物見として前線に送ったが、この物見が前線を督戦して回ったため、むしろ松平諸将は死を覚悟して攻め掛かってしまい、さらに屍の山を築いた。


 そんな松平勢の寄せの綻びを、再び頃合いと見た作左衛門が左右の窪地に伏せた足軽を繰り出し、声高に号令を飛ばす将の影を見つけては、矢で狙い撃ちにし、また素知らぬ顔で引かせる。寄せては返す小波で、敵の膝を鈍らせている。


 山国には山国の戦がある。兵を横に広げて数で押す平野の戦ではない。


 鬱蒼たる樹は視界を裂き、傾斜は足をもつらせ、路は獣道程度しかない。堀を穿ち、土塁を積み、柵を重ねる支度を十分に済ませた我らが上にいる限り、この地形は大軍の松平勢にとっての不利、そして菅沼勢の有利に働く。


 作左衛門は、槍兵を縦深に並べ、狭い谷筋へ敵を引き込み、本陣を敷いた丘陵上の弓で先手の勢いを奪う。松平が退きの兆しを見せれば、林や茂みから伏兵が背に回って突く。本陣を構える丘の上からも菅沼が駆け下り槍で突き、そして松平が迫れば後退する。そして矢を放ち、松平が(ひる)めばまた駆け下りる。


 弓の射掛け合いの応酬が続く。弓の勢いは高い丘から射掛ける菅沼勢にあった。実際、飛び道具の応酬は、火力に差があっても、城や陣に籠もっている方が優勢になる。

 すなわち本陣の周囲に幾重にも堀や柵、土塁に弓兵を配置している菅沼勢が倍以上の数の松平勢を相手に辛うじて均衡を保っていた。


 しかし、如何せん松平勢の数は多い。楯で頭を覆い、蟻のように次から次へと絶え間なく丘を駆け上がる。矢に射抜かれても、その上を踏んで別の兵が来る。


「矢、あとどれほどだ。」


「高張り台、残り三把。荷駄から運び込ませる!」


源八、弥助、小十郎、久兵衛らが息を荒げながら物資を差配している。


雪は戦の熱で泥へ変わり、泥は血で黒ずんでいく。


 松平勢が隊の重ねを厚くして押し上げる。狭い坂を、三列、四列に束ねてくる。上から見ると、黒い帯がねじれながら太くなっていくのがわかる。帯の頭に石が落ち、矢が刺さり、時に火が灯る。頭が潰れても、首のない帯が上がってくる。人とは、これほど重なるものかと思う。


 しばらく一進一退の攻防が続いていたが、長らく打ち合っていると、もう少し粘って欲しかった私の思惑とは裏腹に、流石に兵力に勝る松平勢が次第に徐々に押し込んできた。


 やがて右手の谷筋で叫声が上がった。松平勢が外の備えを突破したのだ。楯を投げ捨て、槍先を前に、坂を駆ける。こちらの短槍が迎え、押し合い、また退く。柵の木が嫌な音を立てた。節が裂ける音だ。


 丹念に作った外の堀と柵――丘の中腹の防御線――が、各所で破られた報が入る。


 こちらの内柵は、三重に組んだ丸太の柵と土塁、堀を絡めて輪を作っている。柵の間には楯を斜めに立てかけ、矢倉の代わりに高張り台を二つ据えた。そこに弓兵を置き、矢の雨を間断なく降らせる。土塁の陰には短槍と太刀。柵の外へ出ると死ぬ、柵の内でも油断すれば死ぬ。境は紙一重だ。


 太鼓が二度鳴る。左で伏兵が立った。背を打たれた列が波打つ。そこへ矢が落ちる。雪煙が上がる。谷の風がそれをさらって舞い上げた。


「…もう暫くの辛抱だ。」


私は自分に言い聞かせるように呟いた。


 内柵はまだ持つ。兵はまだ目に光がある。しかし矢は減っていく。腕は痺れる。寒さはもうどこかへ行き、代わりに喉が焼けるように渇く。


 ふと、土塁の影で震える一人の若い足軽が目に入った。顔は泥と煤でまだらだ。彼は私の視線に気がつき、慌てて頭を下げた。恐怖は悪ではない、と私は心の中で呟く。恐怖があるから備えが生まれる。恐怖が消えた時、人は死ぬのだ。


 ひとしきりの戦で外堀は放棄せざるを得ず、兵の大半は内柵の内、本陣の周りに押し込められたかたちとなった。


 だが裏を返せば、私の首を餌に、二千を超える松平勢を、いやもう数百は削ったであろう松平勢を、菅沼勢の本陣を敷く丘陵への誘因に成功したのだ。


 そのとき、伝令が雪を蹴立て、本陣に飛び込む。肩で息をしながら叫んだ。



「街道の北に、赤備えの軍勢がおよそ千!旗印は――()釘抜(くぎぬき)(もん)ッ!」



(よし……間に合った。)



ーーーーー



 足助に(そび)える山脈に、新しい太鼓と法螺貝の波が幾重にも反響して押し寄せた。雪に湿った空気が震え、谷は音を抱いてうねる。

 街道には艶やかな軍馬が鼻息を白く散らし、鉄の蹄が氷を砕く音が鈴のように連なった。

 見渡せば、鮮やかな()色の(よろい)が山肌を染め尽くす。

 (あか)く染めた地に白く抜かれた()釘抜(くぎぬき)(もん)の旗印が冬の風を孕んで大きく、ゆったりとたなびいている。

 揃いの赤漆の鎧に身を固めた(つわもの)たちが肩を並べ、(つが)えた朱槍の穂が一斉に傾く。無数の穂先は雪片を受けて煌めき、薄闇に差し込む星群のように瞬いた。

 夕陽に溶け込むその雄姿にさすがの私もしばらく見惚れてしまった。


赤備え――――


 史実で徳川家康が恐怖のあまりチビってしまったあの軍団である。チビったのは「伝説」ではない。家康自身が反省のため恐怖に脱糞した姿を絵師に描かせた「しかみの像」が今も尾張徳川家に伝えられている。


 戦国時代最も近代化された織田軍でさえバラバラだった軍装を全て朱一色で染めたのが、武田信玄が最も信頼していた山県三郎兵衛昌景が率いる武田軍団の最精鋭、赤備え隊だ。

 この超精鋭部隊で敵の中核を崩し、次いで足軽隊で包囲殲滅するのが甲斐武田軍の必勝戦法である。


 元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いに於いて、怒涛の如く突撃してくる山県昌景隊に、東海地方最強であるはずの家康軍は脆くも崩れ、それどころか猛者で名高い三河武者で固めた家康麾下の旗本たちも鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、そのまま昌景隊は家康めがけて突進していった。後年、家康は「徳川四天王」の一人である井伊直政に昌景隊とそっくり同じ格好をさせた。


 赤備えを真似たのは家康(直政)だけではない。晩年の家康を苦しめた真田幸村も真似た一人である。

 戦国史に名を残す錚々たる名将達の、恐怖の対象であり憧れの軍団であった。



「いや…千人って、そんな訳ないだろう。」


 背後で、彦兵衛、与五郎、右近が喉の奥で同時に息を呑んだ気配がする。

 目を凝らせば、確かに動いているのは数百、練度の揃った核だけだ。だが列は果てしなく見える。おそらく故事古典狂の兵庫が、根羽の宿に溢れる流民に甲冑を着せ、旗や太鼓を持たせ、列を幾重にも延ばしているのだろう。数だけは揃う甲冑に、音と色を与えて山へ流す。雪と夕焼けが、その虚と実の境を絶妙にぼかしてゆく。


 松平勢には判らない。現に新手の菅沼勢の姿に、松平勢の寄せる波が呼吸を忘れたように止まった。

 太鼓の律が止まり、法螺貝の響きも止まる。赤は視覚だけではない。音をも赤く染める。


 私は胸の奥で言葉を噛んだ。今日の合戦は本当に松平には好き勝手やられた。外の柵は割られ、こちらは内へと押し込められた。だが、ここから先は違う。ここから先は――。


 いまから見せてやる古い(いくさ)しか知らない松平どもに、


 ――本当の戦争を。

~参考記事~

島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す!/ムカシノコト

https://share.google/FlY7ZHyGmvtqWeF1y


『中務大輔家久公御上京日記』(著/島津家久)、薩摩から京へ、5ヶ月間の旅程/ムカシノコト

https://share.google/3UjIGy8TQB5qdHM32


~舞台背景~

 軍記物では沖田畷の戦いに於いて、3,000の兵で20倍の60,000人の竜造寺軍を打ち破ったと話を盛られる島津家久。

 その異次元の強さに最後は豊臣秀吉に毒殺されてしまいます。(家久は戸次川の戦い(1587年)で秀吉もボコボコにしてます。)

 「沖田畷の戦い」の戦略や戦術は後世、多くの方が解説されてますが(自衛隊の教科書にも載ってるそう)、どうもルイス・フロイス『日本史』によると、実際の家久は

「相手が大軍だったけど、がむしゃらに戦ったら勝っちまった。」だそうです。

…どんだけ地力が強いねんw


 また、島津家久は半年間の京都&伊勢旅行で日記を面白珍道中的に書いてくれてます。

 国宝指定『中務大輔家久公御上京日記』は家久の視点で書かれた当時の諸国の様子や実情(京で「信長を見かけた」など)が超面白く一読の価値ありです。まさにリアルなろう小説w

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ヘラクレス症候群でしたっけ?ムキムキになる遺伝疾患。筋肉×速さ=パワーなキャラいてもな。何かしらバッドステータスは付けないとでしょうが
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