028 ~延徳3年(1491年)12月 飯盛山~
~延徳3年(1491年)12月 飯盛山~
足助へ続く伊奈街道には細かな雪が舞い、白粉のように空気を薄く染めていた。行軍する菅沼兵の黒い列は、甲冑の黒漆に雪の白がまだらに張りつき、遠目には田畑を横切る影法師のようにも見える。
田峰観音での戦勝祈願は、源八、弥助、小十郎、久兵衛たちの働きによって大いに賑わい、最後、宗派違いは気になるが「厭離穢土 欣求浄土」で締めくくることができた。祈祷の煙がまだ衣に香りを残すほどで、今の菅沼軍は意気軒昂、足取りも軽い。
後年、桶狭間の戦い前の織田信長の戦勝祈願の際に、熱田神宮から二羽の白鷲が羽搏ったという伝承にならい、私も同じ演出を狙ったのだが、あいにく時間が詰まっていた。
源八、弥助、小十郎、久兵衛の文官らが田峰城下を奔走して見つけてきたのは、たった一羽の可愛い白い鳩。
それでも、源八が寺の裏で餌付けしていたその鳩が掌から空へ放たれ、雪の幕を抜けて羽音を響かせた瞬間、田峰観音の境内は割れんばかりの歓声に包まれた。
白い一点が高みへ吸い込まれていくのを見上げながら、五百余名の菅沼兵の胸の内に、吉兆の光がともったのだ。
伊那街道は宿駅の便のため他の道に比べ随分と整えられているとはいえ、大勢の移動となると歩みはどうしても緩む。
いつ敵に遭ってもいいように、隊列は前軍・中軍・後軍の三つに分けて進むのが定めである。遭遇の可能性が最も高い前軍には叔父・元成。
続く中軍には私と傅役の作左衛門が入り、最後尾の後軍には荷駄隊を守るため兄・新九郎らが就いた。
荷駄は合戦用具や食料、予備の弦に矢に至るまでが連なり、列は長く、雪の筋を引いていく。
やがて、菅沼定行と家行が飯森城を包囲している戦場へ到着すると、まず陣の拠点に適した地を探る。
布陣の地は攻守に利あることが第一。源八、弥助、小十郎、久兵衛ら文官が図面を広げ、地形と水脈、風向きまで見極めて、慎重に指し示してくれた。
選ばれたのは飯森山の傾斜地にある、小高い一角。ここなら飯森城の曲輪も、貞行・家行の武節衆が張り巡らす包囲陣も、四方に見下ろすことができる。見晴らしは命である。
陣取りが終わるやいなや、今度は元成や作左衛門ら武官の指示で全軍が工作に動く。
敵の突進を鈍らせる横堀を穿ち、掘り上げた土で土塁を築く。周囲の木を伐り倒して杭や逆茂木とし、柵を組んで夜通しの設営だ。鍬と鋤が交代で鳴り、焚火の火の粉が雪の中で赤い。
今回は田峰観音で少し小さめの白鳥が祝福する程の佛の加護を受けた私が出陣しているのである。
私の怪我は松芽観世音菩薩の怪我である。
私は弓の一本たりとも本陣に届かせてはならぬと、いつも以上に厳重で堅固な備えを求めた。
皆も心得てくれて、縄の結い目ひとつまで気を配ってくれて、墨俣の一夜城ではないが、相当に強固な要塞が仕上がった様に思う。
私が総大将として据わる本陣は、実働で戦う事が目的ではない。
合戦の流れを見極めて指示を出し、物資の配分や応援の手当てを決する、いわば軍の頭脳だ。
ゆえに、作左衛門のような武辺者よりも、むしろ源八、弥助、小十郎、久兵衛ら文官の働きどころとなる。
今の菅沼家はまだ小国で、「軍奉行」「馬廻衆」「軍目付」といった職制は未整備だが、いずれ規模が増せば、作戦立案や監察にあたる者達が詰める事となる。
部隊編成もまだ簡素だ。菅沼軍全体で兵種ごとに横並びの組織を敷く段階には至らず、軍役に応じて各々が引き連れた兵で、国人・土豪単位の部隊を形作る。
部隊の最上位に司令塔たる侍大将がいて、傘下の各大将に動きを伝える。侍大将の下には「足軽大将」「弓大将」「騎馬大将」「槍大将」らが配され、それぞれ担当兵を束ねる。そして本陣の命を各部へ運ぶのが「使番」。味方同士の連絡の糸である。
今もまさに、源八、弥助、小十郎、久兵衛が使番を走らせ、本陣周りの編成を整えている最中だった。
そんな中、甲冑が擦れ合うガシャガシャという音を響かせて、彦兵衛が山地師を伴い本陣に駆け込んできた。山地師が伝えたい事があると言う。
確かによく見ると、この山地師は鳳来寺山で見かけた顔だ。味方同士での伝令の際は敵方に捕まった際に状況が伝わらないよう、すべて口頭で伝令をしているそうだ。
わざわざ来てくれなくとも、私は文でよいのに。
「山中にて、岩津松平家の多数の軍勢を見た。行き先は飯森城と見受ける。ご用心あれ。」
その一言が本陣に響いた刹那、今までの喧騒が嘘のように止んだ。雪が音を呑んだのか、それとも人の息が止まったのか。
(…ほとんど交流のない(岩津)松平家が、鈴木攻めの菅沼に持出しの手弁当で沢山援兵にいらっしゃる理由が思い当たらない。
…それって、もしかして非常にヤバいのではないだろうか…。)
ほどなくして物見の兵が、息を切らし転げ込むように戻った。頬は紅潮し、声は掠れている。
「山に軍勢の姿が見えまする!旗指物は剣銀杏紋、数は……およそ二千!!」
−−−−−
雪が本降りになり始めた。山の木々よりも多く翻る旗指物。松平勢二千が、まるで一匹の大蛇のように山肌を這い降りてくる。
ただちに軍評定が開かれる。もちろん国人土豪たちの寄せ集めである中央集権化されていない菅沼軍では議論は紛糾する。それはそうだろう。
彼らは戦うつもりで来たわけではない。腹の空かせた領民のため、豊かな飯田街道沿いの村々から略奪するために、ひと稼ぎに来ただけだ。――乱取りを目論んでの参陣である。
撤退論の声が、叔父・元成を中心とする東部譜代衆から大きく上がった。
「竹千代様にもしものことがあってはならぬ。松平が相手では分が悪い。ここは貞行様にも一旦兵を引いていただき、機を改めるべきだ。」
「竹千代様にもしもの事があってはならん」――その一点に関しては、私も激しく同意する。
しかし、戦についてそんなに詳しくない私でさえ、撤退戦がいかに苛烈かは想像がつく。
撤退戦はただでさえ隊列が乱れやすく、敵からの攻撃に脆弱になりやすい。その上、松平軍は私の首を狙って追撃を徹底的に行うであろう。
一度崩れてしまえば、もともと士気の低い菅沼軍の統制を取り戻すのは不可能だ。そうなってしまったら、傅役の本多作左衛門の兵ですら最後まで私を護ってくれる保証はない。
貞行と付き合いの長い本多作左衛門ら、ここに踏みとどまっての徹底抗戦を唱える者は少数にとどまる。
だが、貞行や家行が足助鈴木との戦で流してきた血を思えば、彼らは退くに退けぬ。
ここで我ら後詰めが退けば、飯盛城を攻城中の貞行や家行を見殺しにすることになる。
やがて撤退論が優勢となり、気の早い者は腰を浮かしかけた。しかし、お飾りとはいえ、今この菅沼惣領家軍五百余名の軍配を握るのは私だ。
「聞け。――菅沼兵の命を預かる者として命ずる。全軍、この場に踏みとどまり、死戦を以て応じる!」
評定の声が凍りつき、一瞬の静寂が落ちた。
元成が目を見開いて私を見据える。童が何を、と口を開きかけたので、その前に言葉を重ねる。
「田峰観音で、仏の声を聞いた。この戦は必ず勝つ。」
お飾りとはいえ曲がりなりにも軍配を持つ総大将が命じたのだ。勝手な戦線離脱は反逆だ。
まだ田峰城には祖父も父も残っている、ここで大きく減らしたとて、田峰に残る菅沼惣領家の兵をかき集めればお前たちより多い。
菅沼惣領家嫡男を置き去りにして逃走できるものなら逃走してみろ。
この数年、父・定忠の平和外交のおかげで大きな戦はなかった。そのため我ら菅沼勢五百余名は無傷で、精気はある。
松平勢に数では劣ろうとも、飢饉で腹を空かせた松平兵に遅れは取るまい。
しかも菅沼の文官がその頭脳で選定してくれた本陣周りの丘には、夜を徹して堀と土塁、柵を備えた。一日程度の攻めなら、必ず凌げる。
菅沼勢の問題は士気だ。もとより乱取り目当てで集まった兵である。退き戦を選べば、私を置いて先を争って逃げた挙句に、背を見せたところを松平の追撃に蹂躙されるのが落ちだ。
(……お前ら逃がさんぞ。二千の大軍に囲まれた丘に籠もらせ、退き口のない背水の陣にしてくれる。)
しばし目を閉じていた元成が、やがて腹を括ったように頷いた。
「よろしい。全軍、死戦を以て松平に菅沼の力を示しましょう。」
退くにしても、まずは一撃与えてからの方が被害は少ない――そんな算段といったところだろうか。
そして、軍評定において皆の意見を反映させた適切な手順で松平勢への抗戦が決議されたため、すぐに元成と作左衛門を中核に戦術の詰めへ入った。地図の上で矢印が幾筋も描かれ、狭隘の谷筋と尾根伝いが選ばれていく。
確かに二千は途方もない大軍だ。だが、ここは険阻な飯森山。鬱蒼とした森に遮られて視界は狭く、まともな路は乏しい。兵を横に広げる平地はなく、傾斜の上に陣取る我らへ至る通い路も限られる。
源八、弥助、小十郎、久兵衛――いつも賢しらな顔で知恵を語るお前たちの出番だ。兵糧を数えるだけが能ではない。地の理を読み、知恵をひねれ!
元成や譜代衆に加え、文官たちが口角泡を飛ばし議を進め出したのを横目に、私は後ろに控える右近を手招きした。
こんなところで使いたくなかったが、しかし私の大事な命には替えられない。
まだ完成までには程遠いが、少なくとも兵種別編成は進み、孫右衛門や内匠が毎日昼夜問わず暴力的な愛情を注ぎ、根羽や津具の富をも惜しげもなく注ぎ込んだ菅沼の“秘密兵器”が、隣町にある。
「根羽の兵庫に早馬を出してくれ。援軍を頼むと。」
~参考記事~
戦国時代の戦の流れ - 殺陣教室サムライブ
https://share.google/2nDNT2xog1DFlrkKm
~舞台背景~
歴史にお詳しい方は先の筋書が読めてしまいますが、九州戦国史の流れを変えた名勝負、島津&有馬連合軍8,000人vs竜造寺軍25,000人の天正12年(1584年)3月24日沖田畷の戦いをパクりました。
龍造寺方の島原純豊(今回、鈴木重勝)が籠もる「浜の城」(今回、飯森城)を包囲する有馬晴久軍(今回、菅沼貞行&家行)5,000人。
その後詰めに向かった島津家久軍(今回、竹千代)3,000人に対して、さらに後方から竜造寺隆信軍(今回、岩津松平家)25,000人が襲い掛かかりました。
で、島津&有馬8,000人が、鉄砲4千丁を持ち装備面でも上回る竜造寺25,000人相手に、島津軍の戦死者260人、有馬軍の戦死者20人とパーフェクト勝利します。




