025 ~延徳3年(1491年)8月 凌雲寺~
~延徳3年(1491年)8月 凌雲寺~
専如は、さきほどから心を鎮めようと念仏を唱えてみるのだが、煮えくり返った怒りは一向に引く気配がない。むしろ「南無阿弥陀仏」の一声ごとに、瞼の裏に浮かぶ幸田の面影が鮮明になり胸の奥の黒い塊がぐつぐつと泡立つようであった。
埒があかん――そう悟った専如は、ついに念仏を諦め、幸田が待つという本堂へ向かうことにした。
部屋を出た瞬間、境内一面を埋め尽くした流民たちが、腹を満たした安堵の表情で一斉に専如へ手を合わせた。
(いったいタダ飯食いが何人おるんじゃ。真夏の昼だと言うのに背筋が寒うなるわ。)
本堂へ続く廊下、庫裏廊へ踏み込むと、菅沼兵が、忙しく粥を注ぎ続ける姿が目に入ってきた。湯気がもうもうと立ちこめ、汗と粥の匂いが混じり合う。
(おい、そこの下っ端。溢れとる、溢れとるぞ! その一掬いは誰の銭で買ったと思っとるんじゃ!)
(大体なんだ、このあちこちにある菅沼の旗は、全く鬱陶しい。これでは誰の施しか判らんではないか。)
本堂へ渡る途中、庫裏廊の上で専如は群衆に向かってお飾りに手を合せた。
(どいつもこいつも…腑が煮え繰り返るとはこの事じゃ。)
本堂に入ると、幸田がすました顔で仏前に座っていた。
(おいそこの阿弥陀如来、さっさと目の前の仏敵に仏罰を下さんかい!これまでどれだけ儂が祈ってやったと思っとるんじゃ。今、仏の霊経を見せずに、いつ見せる。
ほれ、そこの重そうな天蓋を奴の頭にドスンと落とすだけじゃろ。)
専如はそんな妄念を思いながら、沸々と湧き上がってくる幸田への殺意を押し殺して幸田の前に腰を下ろした。
まず兵庫が、まるで気のない謝罪で口を開いた。
「ご挨拶が遅れ、大変失礼致しました。拙者も慣れぬ仕事を覚えるのに手一杯でして、なかなか伺うことも叶わず。」
(何がご挨拶が遅れじゃ。毎日勝手に寺の中を彷徨きおって。そりゃあ代官の仕事なんぞ覚わらんだろうよ。)
「専如殿もお変わりなく、恐悦至極。」
(何がお変わり無くじゃ。お主のお陰で儂は食が進まぬ。寺の蓄えも底をつく。何もかも変わっておろうがっ。)
「専如殿の飢饉に苦しむ民草を救わんとする炊き出しの噂は、広くあまねく村々に広がり、飢えた者の一筋の光明。」
(噂だと。さては幸田、やけに人が多いと思ったが、お主が集めたのかっ。)
怒気に目を細める専如をよそに、兵庫は淡々と続けた。
「今日お邪魔しましたのは、根羽の宿の運上冥加金ついてでございます。」
(お主が、儂ではなく本證寺に送りつけた銭の事じゃろ。もう、どうせ儂のところには入ってこんわ。儂の知った事ではない。)
「本證寺の住職であらせられる空誓殿の話では、これまで永らく根羽宿は五十貫納めていたとの事。此度の百五十貫の寄進にいたく感激された由にございます。」
(…………。)
「しかし、拙者が帳面を確認したところ、根羽宿はこれまで間違いなく百五十貫納めておりまする。
あっ、いや〜どうしたものかと。
やんごとなき御方とて百五十貫を五十貫と書き間違いもあるやもしれず、空誓殿に改めて確認しても良いのですが、まずは専如殿にご相談しようと罷り越した次第にて。」
(………………。)
「論語に『直躬証父』とこれあり、孔子曰く『吾が党の直き者は、是に異なれり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。』とありまする。
まあ…拙者も終わった事をとやかく言うつもりはございませぬ。
しかし運上冥加の銭は根羽の民の日々の汗と御仏への誠の結晶。本證寺や本願寺の方々に“根羽の信心はたった五十貫”と誤解されたままでは、根羽宿を預かる代官として心が痛みまする。“今まで納めていたのは百五十貫”と、つい筆を取ってしまうやもしれませぬ。」
専如は兵庫を睨みつけたまま、ついに声を搾り出した。
「幸田殿、拙僧を……脅しておるのか?」
「まさか。拙者がそんな物騒な真似を?
ただ、つい筆が滑るやもしれぬ――と申し上げただけ。
何事も変わらずこれまでどおりにお勤め頂ければ……
しかし、次から寄進をいかほどにするかは、専如殿のお勤め具合を見ながら此方で決めさせて頂きまする。」
――――菅沼が、奥三河における、狂信的な武装宗教団体「一向宗」を掌握した瞬間だった。
…………(参考)「直躬証父」意訳…………
「躬」は人の名前。
「証父」は父親の犯罪の証言。
程度が行き過ぎた正直さのこと。
孔子は論語で躬は、父親が羊を盗んだと証言するような正直さだが、私の村の『直』は違う。親は子のために、子は親のために罪を隠し合う。本当の「直」は、互いをかばい合う(情愛の)中にあると説きました。
~延徳3年(1491年)8月 足助村~
【農婦およね視点】
朝露がまだ土の上に残る頃、私は畑の前にしゃがみ込み、枯れ果てた麦の穂を指でそっと撫でた。触れただけで、乾いた殻がぱらぱらと崩れていく。春の初めに芽吹いた時は、今年こそは実りがあると信じて疑わなかった。それなのに……冷たい風と長雨が続き、麦はすべて枯れてしまった。
「母ちゃん、お腹すいた……」
背後で、四つになる息子の幸次が小さく呟いた。腕の中には、まだ一つになったばかりの娘・おりんが眠っている。母親の胸が鳴るのに合わせて、おりんの小さな鼻がひくひくと動き、それもまた胸を締めつけた。
夫の惣兵衛も、餓えに顔がこけていた。何日も草や木の根ばかり食べ、もう息をするのも苦しそうだった。それでも、私の前で弱音だけは吐かない。
そんな折、村の外れで旅人が立ち止まり、声を張り上げた。
「根羽の宿、凌雲寺で炊き出しが始まったぞ!三河の菅沼家が民を救うために動いたらしい!」
最初はいい加減な噂かと思った。しかし、その旅人は旅姿もしっかりしており嘘をつくようには見えなかった。
――――およねからは伺えない旅人の腰には伊丹屋の印籠がぶら下がっていた…。
その晩、惣兵衛は火の揺らぎを見つめながら言った。
「明日、行ってみよう。歩いて半日だ。行けば、子どもらに腹いっぱい食わせてやれるかもしれん」
私は迷った。村を離れるのは不安だったし、道中で倒れるかもしれない。しかし、今のままでは確実に死ぬ。選ぶ道などほかになかった。
翌朝、まだ薄暗いうちに家を出た。幸次は私の着物の裾を握り、おりんは背中に負ぶった。惣兵衛も気力を振り絞り、歩みを前へと進めた。
山道を越え、川沿いを抜け、ようやく根羽の宿に近づくと、人のざわめきが耳に届いてきた。鼻をくすぐったのは、久しく嗅いでいなかった食べ物の匂い——。
「匂いがする……母ちゃん、粥の匂いだ!」
幸次が目を輝かせた。
凌雲寺の山門前には、大勢の飢えた人々が列をなし、菅沼家の兵たちが大釜の前に立ち、ひっきりなしに粥をよそっていた。武士であるはずの彼らの顔は険しくなく、むしろ慈悲がにじんでいた。
列に並んでいる間、おりんが泣いた。空腹と疲れが限界だったのだろう。私は背を揺らし、幸次は妹の手を握った。惣兵衛はふらつきながらも必死に立っていた。
そしてついに、木の椀に白い湯気が満ちた粥がよそわれた瞬間、私は堪えきれず涙があふれた。
「……ありがたい……」
口に運べば、熱さが舌を刺した。けれど、柔らかな甘みが胸の奥まで染みわたり、生きているという実感が体を満たしていく。幸次は夢中でかき込み、おりんも口をぱくぱくと開いた。惣兵衛は涙をこぼし、菅沼家の兵に深々と頭を下げた。
食べ終えたあと、寺の境内には仕事を求める男たちの声が飛び交っていた。
「街道整備の人足を募集する!」
「家屋の建設も急を要する!」
「日当は10文、食事付きだ!」
そんな声に惣兵衛はすぐ反応した。
「俺も働かせてくれ!」
彼は私と子どもたちの顔を見て、迷いが残っていないか確かめるように小さく頷いた。
「行ってこい。働けるなら、それが一番だ」
そう言うと、惣兵衛は人足の列に加わった。私は誇らしく思うと同時に、明日からどうすればよいのかと不安が胸に広がった。
粥を食べても、家はもう残っていない。戻っても畑は枯れたまま。女の私に出来ることなど、そう多くはない。
そんな時だった。菅沼家の兵が、寺の横手で女性たちに声をかけているのが見えた。
「木綿の糸紡ぎや機織りができる者はいないか!未経験でも構わぬ。教える者も、住まいも用意している。給金も支給する!」
私は思わず息を飲んだ。
糸紡ぎなど、触ったこともない。だが、習えるという。日当まで出るという。住む家まで貸してくれるという。
幸次が袖を引っ張った。
「母ちゃん、やるの?」
おりんは私の背で、すやすやと眠っている。
私は二人の寝顔と、働く覚悟を決めた夫の背中を思い浮かべた。
——ここで踏ん張らねば、この子らを飢えさせてしまう。
足が勝手に兵の前へと歩いていた。
「私に……やらせてください。教えていただけるなら、なんでも覚えます」
兵は温かく頷いた。
「よし。今日からここが、お前と子どもたちの新しい暮らしの始まりだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸に張りつめていた恐れがほどけていった。涙がまたあふれ、その場に膝をついてしまった。
——生きていける。
——この子らを、守っていける。
凌雲寺の鐘の音が、夕暮れの空に響いた。あの音は、私たち親子にとって救いの響きに聞こえた。
〜参考記事〜
河内木綿の部屋/八尾市立歴史民俗資料館
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戦国の百姓と農民/歴史まとめ.net
https://share.google/mYEICTEwenePF0zui
〜舞台背景〜
主人公の木綿奨励の閃きが飢饉に苦しむ農民を救うというほっこり木綿無双の回です。
これから起こる木綿の爆発的普及が男性の稼ぎに依存していた庶民に女性の稼げる副業を提供し、この副業収入は労働量と技術に比例した高い現金収入でした。
この努力が報われる商業作物の登場が農繁期の日本人の勤勉性を育み、農閑期の日本各地に残る伝統文化を醸成したと文献にありました。これまた「へぇ〜」な奥深い話でした。




