022 ~延徳3年(1491年)7月 根羽村~
~延徳3年(1491年)7月 根羽村~
蝉の声が屋根瓦を震わせるほどに満ち、軒につるした風鈴が涼やかな音を立てた。
しかし伊丹屋宗柏の広い座敷は、商人達の熱気と彼らが髪に撫でつけている高価であろう椿油の匂いでむっとする。
商人たちの騒めきが収まるのを見計らって、兵庫が宗伯たち商人たちの目を見て「根羽宿中掟書」の要点を述べた。
「菅沼は根羽の宿をこれまで以上に栄えさせたい。そのためにお主らが商いのしやすい様に諸座・諸役・諸公事などはすべて免税とする。」
低く張った声が、梁にぶつかって返ってくる。宗柏をはじめ、顔に刻みの深い商人らの目がいっせいに上がった。驚きと、猜疑と、計算。いずれも値踏みの達者な目だ。
兵庫は一呼吸置き、扇をとじてから続ける。
「申すまでもないが、税を納めるのはこの根羽宿の主たる菅沼のみじゃ。菅沼の旗を見て尻に帆をかけた鈴木はもちろん、寺などいかなる処へも銭を納める必要はない。」
兵庫の口から『寺』というキーワードが出て、膝をついて何か発言しようとした商人が一人。
兵庫は目だけを向け、口は遮る形で先んずる。
「なにかあれば、この兵庫にまず申せ。儂と、そこにおる孫右衛門、内匠が外の兵と共に根羽に残る事とする。」
元々あまり馬廻衆とは口を利かないものの、話す際は「殿」をつけて呼びかけていた兵庫の、普段から内心は彼らを馬鹿にしきっていたと思われる非常に板についた馬廻衆への呼捨てに、孫右衛門らは顔を顰めるのも追いつかない。
兵庫は扇の骨で床を二度、軽く叩いた。
「なにお主らにとって全く悪い話ではない。むしろ拝まれても良いくらいじゃ。税は要らぬ、馬も賦役も要らぬ。ただし――」
そして兵庫が大きく間をおいて、再びゆっくり商人達を見渡す。
「新たにこの根羽に来る者たちも同様じゃ。何をどこで商ってもよいし、その者たちからも菅沼は税は取らぬ。根羽宿の主たる菅沼が慈悲をもって銭を取らぬのに、お主らが銭を取るのはもっての外。肝に銘じよ。」
宗柏が息を飲む音が近く、遠くで固唾を呑む気配が幾つも重なる。兵庫は読み上げた「根羽宿中掟書」を宗伯に差し出した。
「伊丹屋、今申したことを関や町の札場に掲げよ。字の読めぬ者のために絵を添えてもよい。これより我らは、町の端から端まで見聞する。案内せよ。」
宗伯たちは、お互い顔を見合わせ、「とりあえず」といった感も無きにしもあらずだが、皆深々と頭を垂れた。
「菅沼様の御心配りありがたき幸せ。われら精一杯務め果たしまする。」
私は根羽宿の鈴木家から菅沼家への引継ぎの第一歩が恙なく終わった事に胸を撫でおろした。戦に勝ち町を得るは易い。だが人の心を得るのは難しい。
兵庫の弁舌が効いたのは確かだ。だが座敷の外、伊丹屋を取り囲んでいる日輪に煌めく穂先を静かに傾ける二百名の菅沼軍と彦兵衛、与五郎、孫右衛門、内匠、右近
――数日前の血の匂いをまだ落とし切れぬ暴力の存在が、商人らの背中を自然と折らせたのもまた事実である。
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私達は兵庫の後を続き座敷から表へ出た。町の熱気が一層濃い。宗柏が先に立ち、まず札場へ向け歩を速める。通りには多くの人馬が行き交い、馬子が声を張り、商家の丁稚が桶で打ち水をしている。伊那街道の北端、飯田街道との交差――その十字の中心に、根羽の町は息づいていた。
札場前で宗柏が張り板を用意し、若い衆が釘と槌を持って控える。兵庫は読み上げた掟の第一条を指先で叩くように示し、「絵にせよ」と言う。 若い衆のひとりが腕に覚えがあると見え、墨で秤や銭、馬の絵を走らせた。免税、伝馬免許、普請免除――難しい字よりも一目でわかる印が、人の足を止める。
札場の前に人の輪がふたつ、みっつと出来た。掟を読む者、絵を目でなぞる者、丁稚に読み聞かせる商人。
宗柏は額の汗を拭いながらも、ひとりひとりに言葉をかけて回っている。目は忙しいが、声は丁寧だ。さすがは町の顔だと、私は思った。
旅装の商人が近寄り、目を凝らす。荷を担いだ若者が「徳政の外か」と呟いた。兵庫は聞き逃さない。
「この町に入れば、借銀の棒引きは利かぬ。その代わり、誰も力ずくで取り立てに来ぬ。商いは約定で回す。約定を違えれば兵庫が出る。簡単じゃ。」
商人は一度眉をしかめ、やがて軽く笑った。「腹は決まる」とでもいう顔だ。こういう顔が増えれば、根羽の街はもっと大きくなる。
通りの端から、墨染の袖がちらりと揺れた。寺の使いか、あるいはただの旅僧か。男は足を止めず、しかし横目に張り板を見て通り過ぎた。
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夕刻、私達は伊丹屋の土間に戻った。土間の涼しさが膝に嬉しい。
迎える宗柏が言った。
「町の者、半ばは色めき、半ばは恐れ。残りは利を数えておりまする。」
「数えさせよ。」兵庫が即答した。
「利を数える者は、やがて働く。恐れや色めきはやがて薄まる。」
宗柏が頭を下げた答えたとき、土間の外に子どもの笑い声が走った。高札の絵を真似て、土に棒で馬を描いているのだろう。子は絵で掟を覚え、大人は銭の巡りでそれを信じる。やがて祭が立ち、馬が集い、他国から来た者が、この根羽の宿に銭を落とす。
また明日になっても、また別の顔が札の前に立つだろう。利を数える指は新しく、恐れを噛む歯は白い。
私たちは、その指と歯を、刃ではなく銭で迎えよう。刃は背に、銭は面に。戦いの次の手は、もう始まっている。
私はふと、座敷の隅に置かれた槍の柄を眺めた。あの木目の奥にまだ、数日前の血が眠っている気がする。戦の勝ちは菅沼に町を与えた。
だが今、我ら菅沼が取りに行くのは人の心だ。心を得るには、刃の煌めきでは足りぬ。
掟と銭、そして見廻りの足音。朝に読み聞かせ、昼に笑わせ、夜に静める。その繰り返しが人を菅沼に根づかせる。
戸外から、暮鼓のような鐘の音が低く響いた。寺の時刻か。
私は札場で見かけた墨染の袖を、ふと思い出した。
〜参考記事〜
Web日本史辞典「楽市楽座」/刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/rakuichirakuza/
日本の街道「宿場町とは」/刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/113262/
安土桃山時代の食文化とは/刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/51173/
駿府静岡の歴史/徳川未来学会
https://www.shizuoka-cci.or.jp/2023-s-history
~舞台背景~
楽市楽座は教科書的には商業振興政策とされてますが、いくら賑わっても免税だと自分は苦しいかもです。
なので楽市楽座は、宗教団体にショバ代が入る寺社町や門前町の隣に完全非課税の特区を作る事で、
寺社勢力の資金源を削ぐあくまで宗教政策という説もありました。
なるほど⋯天才信長の知略は奥が深い。




