020 ~延徳3年(1491年)7月 津具宿~
~延徳3年(1491年)7月 津具宿~
私は茶碗に口をつけ、思い切って訊いた。
「利兵衛……三河の寺社は、いま誰が力を持っている? 寺院の勢力図を知りたい」
利兵衛は腕を組み、天井を見上げながら答えた。
「そうでございますな……。やはりまず“三河三箇寺”でございましょう。安城の本證寺・岡崎の上宮寺・勝鬘寺の“三ヶ寺” が民の心を掴んでおりまする。
どのお寺も石山の本願寺宗主様の血を分けた徳の高いお坊様が石山からいらしゃいまして『仏教は人々を分け隔てしない。阿弥陀仏を信じる者は、誰もが平等に救われる』という様に民に直接分かりやすく説かれておりますので心に響くのでございましょう。
いずれもお寺も、鼓楼や石垣を備え、水を張ったお濠に囲まれており、まるでお城のようでございます。特に本證寺は東西南北四町(600m)四方の二重のお堀に囲まれた寺内町にはお武家様も入れないようでございます。」
(つまり、三河は一向宗の重点強化エリアだと…。)
実際、史実でも三ヶ寺の住職は皆、一家衆(本願寺派の血縁者)が住職を務め教団内での三河国の地位は非常に高かった。特に危うく家康に勝ちかけた永禄六年三河国一向一揆(1563年)で門徒らを統べた本證寺住職の空誓上人は本願寺十一世宗主 顕如の猶子である。
話を聞いてるこちらが、若干引いてしまうほどの本願寺の三河への力の入れ具合である。
利兵衛は茶碗に口をつけると続けた。
「菅沼様が懇意にされておられる奥三河の鳳来寺も、鳳来寺山自体が霊山で、修験者や山伏の出入りも多く、寺に出入りする修験者が諸豪族の内情を詳しく把握しており、その情報量は侮れませぬ。
参拝客も多いので、参詣道・宿場・門前町は常に大賑わいだと聞きまする。
他にも………」
私は黙って聞いていた。利兵衛が語るのは、寺についてだけではない。人の心、物の流れ、道の支配――情報は万余の軍に匹敵する。
~延徳3年(1491年)7月 根羽宿~
夜明けの薄青が山の稜に滲み、伊那街道の霜を白く光らせていた。私は手綱を締め、深く息を吸いこんだ。寒気は肺を刺すが、胸の底は静かに温い。
鈴木との一戦に勝ち、余勢を保ったまま、我ら菅沼の兵二百は伊那街道北端の街、飯田街道と交わる根羽宿へ向けて列を伸ばしている。
甲冑は鋲も紐も光沢を保ち、昨晩利兵衛の屋敷で着け直した胴の内側にはまだ新しい革の匂いが残っている。鎖帷子の擦れる音と、馬の鼻息と、乾いた草の砕ける細かな音が、行軍の律となって耳に収まる。
私の前を行くのは安藤彦兵衛。癖のある黒髭を霜で白くし、旗指物の根元を時おり握り直す。左手の列には山路与五郎の小隊、右手には加藤孫右衛門、やや後ろに永原内匠と神谷右近将監が控え、後続の補給と弓兵を見ている。
我々は街道全体を見渡せる小高い崖道に出ると、馬を止め、眼下の谷へ視線を滑らせた。根羽の関は、街道が蛇腹のようにくねり下りた先、谷口を扼する木柵の内だ。見張りの狼煙は上がっておらぬ。足助の鈴木勢が破れたという噂は、山の空気よりも早く伝わっていた。
偵察に行った兵が息を切らせ駆け上がってきて告げる。
「関の前、人数少なし。半ば空のようにございます」
彦兵衛が目を細めると、柵際に鎧の鈍い光が二つ三つ、落ちつかぬ風見鶏のごとく揺れている。旗に記された数日前に見た紋と異なる「抱き稲」は、鈴木の支流のものか。彦兵衛が頷く。
「与五郎、兵を散らすな。整形のまま近づけ。無用の射を避け、声をかけよ。降るなら受ける。逃げるなら追わず。」
「ははっ」号令が走る。
兵たちの草鞋が霜を踏む音が増し、隊列は波のように緩やかに前進した。山風が頬を刺し、柵の向こうからがたがたと戸板の鳴る音がした。鈴木の兵の一人が、槍を肩にかけ直すのを見た。だがその槍先は明らかに震えている。柵上の木札が風に叩かれ、乾いた音を打った。
「関の者へ!」彦兵衛の声音が谷に落ちる。「鈴木勢は敗れたり。我ら、追い討ちに来たのではない。関の道を正し、町を乱さず、越す旅人の背を守るために来た。無用の血は望まぬ。門を開けよ!」
返事はなかった。しばしの静寂の後、柵の内でばたばたと人の走る気配がし、ほどなく、関の裏手に小さな土煙が立ちのぼるのが見えた。
逃げるのも策だ、恥ずかしい事ではない。
私を抱く右近が手綱を緩めたとき、柵の戸がからりと開いた。中にいた数名は、こちらへ背を見せることもなく、脇道へ消えた。
門番と思しき男が一人、腰を抜かして座り込んでいるのが目に入る。兜の前立は欠け、頬の傷は新しい。もしかして鳳来寺山に来た者かもしれない。
「追わなくてよい」と私は小さく言った。近くの伝令が頷き、それが列に伝わる。
兵たちは慎重に柵をくぐり、まず持ち場ごとに固めにかかる。与五郎は関の文書箱を押さえ、孫右衛門は倉を改め、内匠は柵の板を見て脆い箇所に楔をうち足させた。右近将監は関の前の坂道に弓足軽を散らし、背後からの乱入を防ぐ構えだ。
右近はゆっくりと馬腹を蹴って、柵内へ進む。腰を抜かした男が、私に気づいて慌てて額を地につけた。もちろん問うのは右近だ。
「名は」
「す、鈴木家中の、堀内三九郎と申しまする……しかし、鈴木の負け戦が本当なら、この関も、もはや……」
「命は惜しかろう。槍を捨てて、町に戻れ。親の元へ行け。関の仕事を怠けたと咎める者はここにはおらぬ」
男は呆けた顔のまま、やがて深く頭を下げた。
私は視線を上げ、柵越しに伸びる街道の先、根羽の町並みを見た。山の木々の青に挟まれた瓦と板葺が、薄日をかすかに返している。煙突から立つ煙は薄く、朝飯の湯気の色ではない。町もまた息を潜め、我らをうかがっている。
「町へ入る。先触れを立てよ。略奪は厳禁、店に手を出せば成敗。兵を三つに分け、右、左、中央の三筋で通りを押さえよ。商人ともめるな。話すのは私がする」
伝令が駆け、号令がまた走る。私は関の外に残した旗持ちを呼び寄せ、菅沼の「六つ並び釘抜紋」を高く掲げさせた。新しい絹布が風に鳴る。
根羽宿の入口に差しかかると、道の両側に、甲冑にばらばらの印をつけた浪人衆が十、二十と立ち並んでいるのが見えた。槍先は上がっているが、足の出し方が定まらぬ。誰かが喉を鳴らす音が聞こえるほどの静けさだ。
「浪人ども、誰の下知か」と彦兵衛が問う。
少し年配の浪人が一歩出る。頬の髭は薄く、目は泳いでいる。「町方に雇われ申した。宿を守れと。ただ、菅沼の様子次第、と」
「なるほど」と私は馬を進めた。浪人の眼が私達の鎧の縅を追い、肩の紐の新しさに気づく。新しい鎧は、継ぎ接ぎの武者に、揺らぐ壁のような心持ちを起こしていた。
右近は声を抑え、穏やかに、しかし退路をふさぐように言葉の向きを定める。
「ここで槍を交えれば、町は傷む。おぬしらの手間賃も滞る。鈴木は敗れた。ここで命を落としても誰も褒めはせぬ。道を開け、刀は鞘に。町を守るのは我らとて同じだ」
浪人の列にざわめきが走る。年配の男が後ろを振り返り、仲間の顔を見た。誰も頷かねば、彼は独りでは立てぬ。やがて彼は、肩でため息を一つつくと、静かに槍を下ろした。後に続き、左右の浪人たちもそれぞれに槍を引き、道の端へ退いた。
右近は軽く頷き、礼を示す。与五郎が素早く動き、浪人の武具を取り上げず、ただ人数と名と、受け取り先を控えさせる。小競りの起きぬ扱い方を、彼らはよく知っていた。
根羽の通りに入ると、戸口の隙から顔が覗き、すぐに引っ込む。商いの旗は巻かれ、秤は布で包まれ、酒屋の杉玉も黒ずんで見えた。やがて、町の真ん中、神明社の前に出たところで、四十がらみの商人が一人、控えめに歩み出た。紺の羽織に白の襟、顔色は青いが、眼は沈まずにこちらを見ている。
「根羽問屋の取りまとめ役、伊丹屋宗柏と申します。菅沼様、恐れながら、お話を」
「申せ」と私を抱えながら右近は馬を降りた。宗柏の目が、右近の手の甲の古傷に一度だけ触れ、すぐに外れた。宗伯は息を整え、言葉を選ぶように、しかし急がずに言った。
「鈴木さまより、根羽の運上、関の通銭、穀の出入り、諸役の取り立てを仰せつかり、ここ数年、町の取り回しを致して参りました。いまは世の変わり目。鈴木様の敗けを聞き、町人も心細う存じます。菅沼様が町を荒らされぬなら、我らもまた新たなお仕え先を……」
隣で馬上で揺られる兵庫が
「孫氏曰く…上兵は謀を伐ち、次は交わりを伐ち、次は兵を伐つ、下の下なるは兵を伐つ、下の下なるは城を攻む。城を攻むはやむを得ざるがためなり…」
と誰も聞いていない呟きと共に、なぜか「我が策ここに成れり(戦わずに勝った俺超賢い。)」といったご満悦な表情を浮かべていた。
〜参考記事〜
どうする家康に関連する神社・寺院「本證寺」/刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/97644/
【13】飯田街道…阿由知通から音聞山へ/日本電気協会中部支部
https://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/4c4cc957811bd8f30d8254eeec9c9fd0.pdf
~舞台背景~
主人公の存在で歴史が改変され、史実では田峰菅沼家が触れ得なかった飯田街道に手が届きました。
三河を東西に横断する伊奈街道ももちろん重要な大動脈ですが、尾張から飯田までを南北に繋ぐ飯田街道は、伊奈街道とは比較にならない程の超重要路線です。
地元民で無いとなかなかイメージし難いとおもいますが、江戸中期(1763年)の松本市~名古屋市の物流(荷駄数)調査では、飯田街道に並走する全国的に有名な中山道が2,968に対して、飯田街道は12,055です。(家康が作った革新名古屋/芥子川律治/地産出版/1977年)統計以外にも信州南部の物流量を考慮すると、飯田街道の根羽を押さえる事により、菅沼家はある意味で信州の殺生与奪を握りました。




