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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜  作者: 条文小説


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019 ~延徳3年(1491年)7月 津具宿~

挿絵(By みてみん)

    ~延徳3年(1491年)7月 津具宿~



 夏の陽光は山の斜面に反射して眩しくきらめき、冷たく鋭い谷風が吹き抜けるたび、濃く盛った緑の木々がかすかに震えて、若葉と湿り土の匂いがふわりと漂ってきた。

 耳を澄ませば、遠くで沢の水音が響き、道を踏みしめる馬の蹄の音と溶け合って、伊那街道をより深く感じさせた。


 この伊那街道がいつ始まったのかを知る者はいない。大抵の道はそうであるように、まず人が獣道を歩き、それがやがて踏み固められ、往来が増えれば自然と道となり、年月を経て街道として認められていく。

 きっと伊那街道も、そんな人々の営みの積み重ねがその原点だったのだろう。


 縄文、弥生の昔、まだ伊那街道という名も存在しない頃から、三河と信州の間には物資の往来があった。

 三河からは生活に欠かせない塩が運ばれ、信州からは石器の素材となる良質な黒曜石がもたらされていたという。

 人の暮らしが続く限り、伊那街道もまた連綿と続いてきた。


 やがて大和朝廷が律令制を整え始め、三河に国府が置かれると、宝飯郡や設楽郡へ統治の手を伸ばすため、伊那街道の重要性は時代とともに増していった。

 さらに室町の頃、奥三河も戦乱の渦に巻き込まれるようになると、田峰菅沼家はこの街道を巧みに利用し、交易による富の流れを掌握し、行き交う人々から情報を集め、徐々に勢力を拡大していった。

 そのため伊那街道沿いには、牛久保城、新城城、長篠城、田峰城といった、名だたる重要拠点が数多く点在する。


 しかし、そういった城塞以上に目につき、その影響力の大きさを誇示しているのは寺社仏閣である。

 伊那街道を行けば行くほど、まるで山と森に根を張るように、寺院と神社が途切れることなく現れるのだ。


 これらの寺社は広大な私有地である寺社領を抱え、守護や土豪であっても勝手に立ち入れない不輸不入(ふゆふにゅう)の自治権を持つ。彼らの力は宗派に留まらず、三河国の経済にも政治にも深く絡みついている。


 延喜式神名帳にも記される古社・菟足うたり神社、

 文武天皇の病気平癒を祈るために勅使が宿泊した天牛山医王寺、

 後年史実で徳川家康が天正三年長篠の戦い(1575年)の戦勝祈願に訪れる法幢山上善寺、

 永禄三年桶狭間の戦い(1560年)退却の際今川義元の胴体が埋葬された牛頭山大聖寺、

 永禄四年川中島の戦い(1561年)で討死した山本勘助の墓を持つ武運山 長谷(ちょうこう)寺、

 俗に「豊川稲荷」と呼ばれ今川義元が壮麗な山門を寄進した圓福山妙厳寺、

 そして三河国 一宮(いちのみや)である砥鹿(とが)神社……

伊那街道の沿道だけでも枚挙にいとまがない。


 私は島田村を発ち津具へ向かう道すがら、馬の背に揺られながら、道中溜め息が止まらなかった。

 どこへ目を向けても寺、寺、寺――伊那街道を進んでいくうち、否応もなく、三河に巣食う宗教団体の巨大さと厄介さについて思いを深めずにはいられなかった。


 この時代にはまだ稀代(きだい)の革命者、織田信長の最大の遺産(レガシー)である「日本人の非宗教性」つまり日本人の原理主義を厭う宗教の免疫性は存在しない。


 後年史実で、血で血を洗う宗教闘争を繰り広げていた織田信長が比叡山で僧侶4千人を伽藍(がらん)と共に焼き殺したり、長島一向宗門徒2万人を投降させた後に虐殺したり、信長が畿内や北陸、東海…と全国津々浦々で厖大(ぼうだい)な数の狂信者を殺戮しまくってくれたことで、殺されまっくた宗教がようやく政治から距離を置き政教分離が成り立った。


 勿論(もちろん)、まだこの三河には、史実でも徳川家康が最後まで悩み苦しんだ、城塞の様な巨大 伽藍(がらん)の中に僧兵や寺侍、殉教を厭わない門徒を多数抱える寺社勢力が数多く存在する。


 まぁ…家康の永禄六年三河国一向一揆(1563年)で、一向宗の条件を丸呑みする和議を結んでおいて、武装解除させた後にアッサリ和議を反故にして寺院を棄却、僧侶を三河国から追放したやり口が悩み苦しんだと言えるかは微妙だが、それだけあの賢者家康でさえ手を焼いたのだろう。


 私の隣で、己の計略に悦に入って馬に揺られている表情の兵庫が立案した、これから街道や町を掌握していく戦略は今後の菅沼の国家方針としても決して間違っていない。


 だが問題はそこから先だ。菅沼が彼等から関銭(せきせん)や、座の利権を奪おうとしたまさにその瞬間、必ず寺社勢力は菅沼に牙を剥くだろう。


 正直に「我らの甘い汁を奪うな。」とでも言ってくれれば、こちらも交渉のしようもあるのだが、インテリな彼らは言うだろう、「仏敵菅沼」と。


 三河国内に蜘蛛の巣のように浸透している、目が据わった狂信者達に仏敵認定されたらその日のうちに、彼らが行きたがってやまない極楽浄土に、不本意ながら私が先にお邪魔する羽目になってしまう。どうしたものか…。


 勿論(もちろん)私は、晩年の徳川家康が狡猾的にそしてゆっくりと丁寧に寺社勢力の権力と権益を剥奪していった軌跡を知っている。


 ――――敵は分断して統治せよ。

 大賢者家康は謀略により曹洞宗を永平寺派と總持寺(そうじじ)派に分裂させ身内同士で(あらそ)わせた。

 そしてその芸術的な手腕で、超巨大戦闘集団である一向宗に於いても西本願寺派と東本願寺派に分裂させ、全国の末寺や講に至るまで仁義なき内ゲバ争いを誘発させた。


 ――――実施以降、宗教一揆が根絶された檀家制度。

 全ての日本人を何れかの宗派に登録させ、寺への付け届けの義務と改宗(コンバート)を禁じた寺請制度は、宗教団体から教勢拡大のための布教のモチベーションを巧妙に奪う事になった。


 賢者家康の宗教統治の成功例を知っている私ですら、今の三河に巣食う宗教団体の巨大さは恐ろしくて(たま)らない。


…そんな事をつらつらと考えていたら、目の前に津具宿が見えてきた。


(街道を支配出来れば、菅沼家の交易は大きく変わる。まずは津具、利兵衛の情報が要だ)



−−−−−


 坂を登りきると、石垣をめぐらせた物見矢倉のある、もはや砦と言っても過言ではない利兵衛の屋敷が見える。


 今や椎茸を扱う日の本で唯一の商人として商都堺で一目も二目も置かれる豪商だ。その屋敷が醸し出す雰囲気は津具ではもはや異次元の佇まいである。


 門が開き、利兵衛が訪れる度に増えている何人もの手代達を後ろに引き連れて我々を出迎えた。


「おお、竹千代様! 聞きましたぞ。鈴木の精鋭を討ち果たされたとか。見事、実に見事でございます!」

 利兵衛は商人特有の鋭さを帯びる笑みを浮かべて深く頭を下げた。


私は軽くうなずいた。

「利兵衛、祝いの言葉、ありがたく聞く。しかし戦はまだ続いておる。鈴木の動きを知りたい」


利兵衛はすぐに表情を引き締めた。

「私に分かることは、すべて申し上げましょう」



−−−−−



 利兵衛の広い屋敷の広間で、温い茶が置かれた。近況報告が一段落した利兵衛が茶をすすり、声を潜めた。


 「…それと、鈴木の息のかかっている商人達を探ったところ、鈴木の関所――飯田街道にある“足助”や“根羽”でも、戦の敗北で守りが大きく崩れておりまする。」


私の目が細くなる。


「崩れておる?」


 「はい。鈴木の敗走を受け、守兵は半分ほど町へ逃げ戻りました。残った者も、昨日から関を閉じたり開けたり……迷っておる様子。

 関の連中の一人は、私の商人仲間に『いっそ山へ逃げたい』と漏らしたそうで」


 後ろに控える彦兵衛、与五郎、孫右衛門、内匠、右近にざわめきが広がった。勝戦(かちいくさ)の匂いを感じ取ったのだ。


利兵衛は、竹千代の目をまっすぐ見た。


 「今なら、竹千代様の兵で伊那街道だけではなく、飯田街道も十分に押さえられましょう。

しかも、それら足助や根羽の商人も鈴木家より菅沼家に靡き始めています。“今が刻”にございます」

〜舞台背景〜

蘊蓄語りにならない様に心掛けたものの、文献読むとついつい喋りたくなり…読書感想文みたいになってしまいましたw

 前話で感状ネタを入れたトリガーなのですが、面白かったのが、毛利元就が陶晴賢を滅ぼした厳島合戦は毛利家の捏造ではないかという説でした。元就最大の業績にも拘らず活躍の証跡である感状が写しを含めて一切現存していないそうです。

 実は厳島合戦は陶晴賢が瀬戸内海通船の関銭徴収権を村上水軍から剥奪した事で、ブチギレた村上水軍が単独で晴賢を倒した利権争いであって、元就はただの火事場泥棒だったのではという説がありました。あっ…また蘊蓄語っちゃいましたwww

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仏の子を売りにしたのに 神仏に手を出し辛いのでは?
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