017 ~延徳3年(1491年)7月 島田村~
~延徳3年(1491年)7月 島田村~
鬨の声が風に流れ去り、土埃がようやく地に落ち着くと、島田村名主屋敷の庭には倒れ伏す影が十八、黒々と散っていた。折れた槍、血に濡れた石突き、乾きかけた泥の斑。その間を、孤児らの細い肩が荒い息を響かせつつ行き来している。衣にこびりついた血脂が昼の陽でぬめり、草と鉄の匂いが鼻を刺す。
定行、彦兵衛、孫右衛門はなお刃を下ろさず、庭の中央に立ち、四方へ視線を配った。指先には、まだ戦の余熱が微かに震えている。
その時である。屋敷門の影から、一人の武将がゆっくりと歩み入ってきた。鳳来寺山で鈴木軍を統べ、藤兵衛屋敷への討ち入りを門外より見届けていた鈴木家の将、足助親忠であった。甲冑の継ぎ目は土で曇っているが、しかし足取りは不思議と乱れていない。
定行、彦兵衛、孫右衛門が同時に刃を構え直す。親忠はそれに応じるでもなく、ゆるやかに太刀を地へ落とし、両手を高く掲げた。降伏の仕草である。兜の下の顔にあったのは疲れより先に、どこか憂いを含んだ笑みであった。
「大したものだ、菅沼殿。まこと、見事よ」
彦兵衛と孫右衛門が眉をひそめ、定行を仰ぐ。定行が一歩進み、低く問う。
「足助殿、命乞いか」
「いや、昔を思い出しただけじゃ」
親忠は首を振る。
「どこの戦場でか、顔を合わせたことがあったな。あれは足助の松平の折りか……いや、もっと前かもしれぬ」
彼は負けた武者には似つかわしくない達者な舌を運び、古手の将たちの名を次々と挙げ、季節が巡るように時代の移ろいを語り始めた。
一歩、親忠が進む。砂利が小さく鳴る。
「長く生き永らえてきたが、ここまで手酷くやられたは初めてじゃ。我ら古い世代は、そろそろ退き支度かもしれぬ。若い芽が伸びておる。なに、恥ではない。退き際を見極めるのもまた武の内よ……」
さらに一歩、親忠は定行へ歩み寄り、声をやわらげる。
「菅沼殿、覚えておるか。あの時も、こうして互いに息を整え——」
定行の脳裏に、足助の宿が蘇る。松平がちょっかいを出してきた折、奥平、鈴木、菅沼の三家が轡を並べ、土埃の向こうで旗が絡み合った。剣を交えぬまま交わしたわずかな言葉、あの場にこの男はいた。
定行は横目に、並び立つ彦兵衛、孫右衛門、そして孤児らの顔を見やった。昨日までの軍議の夜更け、若き者どもが互いに知恵をつなぎ合わせ、未明の冷気を吹き払ったさまが思い出される。
確かに若手の台頭は、頼もしい。加えて、周りの者共は「神か仏の子」と崇めるが、近くで接すれば魑魅か魍魎の類ではないかと感じさせる竹千代は別としても、共に稽古を積み、汗を流した孤児たちの成長は目覚ましく、そんな次世代の息吹に当てられて、自らも十年は若返った心地がしている。
(しかし……あの時の足助親忠は寡黙で、これほど饒舌な男ではなかった。たしか隣に、熊のように大きな男を連れていた。名は古瀬……)
その刹那、定行の首筋を冷たい風が撫でた。体の火照りが一歩退き、首に悪寒が走った。
(足助親忠は、時間を稼いでいる)
閃きは稲妻のように落ちた。耳は喧騒から離れ、親忠の紡ぐ言葉の音が、ふっと遠のく。代わって、屋敷内の一隅、目に見えぬ気配が鋭く立ち上がる。
(古瀬はいないのではない。いる。竹千代の座す屋敷の内へ)
定行が視線を戻すと、親忠はまた一歩、間合いを詰めていた。互いの目が合う。
親忠の瞳には定行らへの真率な称賛と、同時に「己の刃は届いたか」という問いが揺れていた。
定行は言葉で答える代わりに握る刃で親忠の問いを真横から断ち切った。咽喉の下で骨へ至らぬ鈍い手応え。血潮が一拍遅れて溢れ、親忠の体は半歩遅れて崩れ落ちる。定行がその重みを受け止め、顔を一瞥すると、足助親忠の口端は、微かに嗤っているように見えた。
「竹千代殿が危ない! 行けっ!」
咆哮とともに、定行は彦兵衛、孫右衛門へ短く指示を飛ばす。定行自身も抱えた重みを地に預けるのと同時に踵を返した。孤児らは驚いた顔で道を開ける。砂利が散り、風が一気に抜け、屋敷の奥へと駆けた。
-----
屋敷裏手は雨を含んだ土がまだ柔らかく、踏みしめるたびに音が吸い込まれる。塀際の笹を肩で押し分け、影の帯に身を沈めて、勝手口へ回り込む。
板戸の欠け目に指を掛け、呼吸の波が最も浅くなる瞬間を待ってから、隙へ身を滑らせた。室内の匂いが一転する。蒸れた米の甘い湯気と、磨られた墨の渋い香り。そして微かに混じる鉄の匂い——血がどこかで乾きかけている。
床板が一枚、低く軋んだ。古瀬重時は即座に息を殺し、踵を浮かせて重みを分散させる。太刀は逆手。刃の反りが腕に沿い、鞘に触れぬ角度で握りを締める。節穴から射す細い外光が、刃文のあたりでかすかに呼吸する。重時は耳を澄まし、廊下の空気の流れ、襖越しの気配の濃淡を撫でるように測った。
廊下の端、障子の紙に、灯の裏側のような影が一つ、薄く揺れる。背を丸め、腰を落として、猫のように沈む。だが沈む影の下に潜む筋肉は、虎の様だった。
古瀬重時の巨体が、梁や柱の位置を計る猟獣の歩みで前へ滑る。右手の太刀は喉笛を射る高さ、左の掌は障子の桟に置き、指先の腹で木のきしみを殺す。呼吸は鼻孔の奥で折りたたみ、鼓動だけが確かな刻を打つ。
今、向こうの人の気配が、行灯の火芯のように微かに明るんだ。動く。重時は足の親指から順に板に重みを落とし、釘際の強い板目だけを踏んで進む。袖の内で手首をひと度返し、刃先の角度を半分だけ下げる。肩の力を抜き、首筋の汗を風が撫でた。
古瀬重時の耳が、血の鼓動を数え始める。三、二…一。猟獣が跳ねた。
-----
広い肩、分厚い胸をした熊のような武者が部屋に踏み込んできた。
熊のような武者は、その猪顔に付く返り血を見るにつけ、ここ本陣に至るまでに相手にしているのがただの農兵ではないことは薄々感じていただろうと思う。
しかし部屋の奥に張られた「六つ並釘抜紋」を背に床几に掛ける幼い私を見て、今まで相手にしていたのが田峰菅沼家の嫡男の手勢とまでは考えていなかったようで、驚いたように目を見開いた。
猛獣のような乱入者を見て、それまで絵図面を睨んでいた兵庫が咄嗟に庇うように私の前に出ながら鯉口を切る。
「もしや…その童が噂の、神の申し子か。お初にお目にかかりまする。拙者は鈴木大和守重勝が臣、古瀬重兼。」
(ん?…こういう時…私も名乗るべきなのか?
…そんな殺気の篭もった視線で挨拶されても
……どう返していいのか分からん)
甲冑に身を固めた孤児達が緊張した面持ちで、ある者は抜刀してある者は槍を構え、幾重にも乱入者の周りを取り囲んでいるものの、肝心な…私と古瀬重兼の間には、肩衣を羽織った兵庫1人しか居ない。
本来こういった時に非常に頼りになるはずの、私を護ってくれる腕利きの馬廻り衆は、軍備増強が順調に進み過ぎ、あっという間に孤児兵が二百を超えたせいで指揮官不足になりタイミング悪く全員出払っている。
兵庫の剣の腕前は見たことは無いものの、下手とも聞いた事は無いが、孤児たちの数十の槍衾を全く意に介していない榾木のような太い腕をした古瀬重兼に勝っているとはとても思えない。
「拙者、菅沼膳大夫定忠が臣、幸田兵庫。」
もちろん兵庫も勘定方とはいえ武士である。熊か猪か古瀬重兼のヘイトを私から兵庫自身に移そうとしてくれたのだが、古瀬重兼の猛獣のような恐ろしい視線が、私から全く外れてくれない。
(もしかして、これは非常に…いや、もしかしなくても大変にまずい状況なのではないだろうか…)
‥‥ズブッ!
その時、古瀬重兼の大きな体が刹那跳ね上がった。古瀬重兼の喉から白刃が生えたと思ったら、白刃は勢いそのまま上に伸び古瀬重兼の広い顎を貫き、私を睨みつけていた目は直にその彩を失った。
勢いよく飛び散る血が床と白い陣幕を赤く染める。崩れ落ちた古瀬重兼の背には…今も返り血を浴び続けている菅沼定行が立っていた。
「兵庫っ、動かすのは口ではない。ここは戦場ぞ。」
そういえば…今でこそ奥三河の覇者として寺社を建立し、公家の血を入れ、清和源氏の末裔という粉飾に塗れた家譜を称している田峰菅沼家も、わずか数十年も遡れば素性の知れぬ流浪の野武士が主家菅沼家を簒奪し、主一族を喰った勢いで次々と奥三河の貴女を孕ませ、その武威と謀略で多くの家門を呑込んで興した下剋上の具現者たるまさに戦国の家…であった。
紅く染まった血塗れの「六つ並釘抜紋」と、陣紋の前に佇む定行の『一騎打ち、なんだそれ、美味いのか?』という…その涼しげな表情は
まだ菅沼にも、獣の血が色濃く残っている事を感じた瞬間だった。
〜参考文献〜
逆説の日本史9戦国野望編 鉄砲伝来と倭寇の謎
井沢元彦/株式会社小学館/電子書籍版
逆説の日本史10戦国覇王編 天下布武と信長の謎
井沢元彦/株式会社小学館/電子書籍版
〜舞台背景〜
今話も戦争回ですが、ようやく終わってくれました。人生初の戦闘描写は超激ムズでしたw。調べ物をしなくていい楽さは有りましたが、極論すれば「斬った、死んだ」だけの事にどうやって山場を作るか…どうやって駆け引きを挿れるか…。因みに私、以前剣道やってましたが、あれ実際は無心で殴り合うだけなのでwww




