012 〜延徳3年(1491年)5月 山城国〜
〜延徳3年(1491年)5月 山城国〜
山城国の風は、骨の髄にまで沁みる。
冷えきった川霧が谷間を埋め、人影は白い靄の向こうへと溶けてゆく。その靄を裂くように、一行の歩みは南から北へと続いていた。
縄で繋がれた男女三十数名。子ども、若い女、それに壮健そうな若い男——。
その隊列を、寡黙な武装の男が監視している。
先頭に立つのは、人買い衆・嘉右衛門。四十を越えたばかりだが、顔の皺は年齢以上。
戦乱続きの畿内を渡り歩き、死体と泣き叫ぶ孤児を見続けた者だけが持つ、あの独特の冷たさを湛えている。
「止まれ」
嘉右衛門は低く声を落とし、縄を掴んだ。道端の木陰に、幼い兄妹が寄り添って震えているのが見えた。
兄は十歳ほど、妹は八つ。兄の腕には、妹の細い手が必死に絡みついている。死んだ親の亡骸を引きずりながら逃げたのだろう。夜盗に襲われ、女は奪われ、男は殺され、残った者の顔は怯えで硬直している。
嘉右衛門は周囲を確認し、手を挙げた。
「連れていく。縄を用意せい」
配下が縄を持って近づいた。
兄は妹を背中に隠し、唇を噛んだ。
「……おらたちは、売られるのか?」
その小さな問いは、年齢以上の重さを持っていた。
「売られる、ではない。買われるのだ」
嘉右衛門は淡々と答える。言葉の響きが変わったところで、現実は変わらない。だが、彼は本気でそう思っている。戦乱の畿内では、人は余る。死ぬ者が多すぎ、生き延びた者でさえ食えない。
だが、三河は違う。とくに奥三河は、木材、炭、馬、山の幸、そして今噂の渦中にある椎茸……それらを外へ売ることで、飢え死にする者は少ない。“働ける者”は価値を持つ。
「飯にありつきたいか?」
嘉右衛門が問うと、妹の腹がぐうと鳴った。兄は恥じるように俯く。
「ならば来い。お前たちは今日からわしの荷だ」
縄を掛けられた兄は、必死に妹の手を握りしめた。その手は土と血にまみれ、ちぎれそうに細い。
だがその握り方は、どんな大人よりも強かった。
嘉右衛門はその様子を見て、ふと胸の奥が疼いた。
(あの時と、同じじゃ……)
彼にもかつて妹がいた。京の町が炎に包まれた夜、手を握って逃げた。だが追手の槍が妹の背を刺し、血が噴き出した瞬間、彼の手から妹の手は冷たく離れていった。だからこそ——。
(こやつらの手は、離してやるわけにはいかん)
嘉右衛門は自分でも驚くほど冷たい声で、一行に命じた。
「この兄妹の縄は一本のままにしておけ。切るな」
配下たちは顔を見合わせたが、逆らわなかった。
延徳三年(1491年)四月、時の公方(足利義稙)が六角行高討伐の号令を発し、征討軍が起こされ近江国は血の雨が降っていた。武士も農民も町民も盗賊も、皆が皆を疑い、人を殺す。街は燃え、田畑は荒れ、男は戦に駆り出され、女は売られ、子は捨てられた。こういう時には人買いの商いは増える。
「嘉右衛門どの、今回は儲けが出ましょうなあ」
側にいた配下達が笑った。彼らの目は銭の匂いを追う野犬のようだった。
「今の畿内じゃ、若い男手が一番高いが、三河の菅沼殿のところは、年を問わずとにかく人手が欲しいとか」
「わかっておる」
嘉右衛門は短く答えた。今回の買い付けは、いつもの働き手だけではなく、むしろ値の付かぬ孤児や女でも構わない。——訪れた堺の商人はそう言った。
畿内には、戦で身内を失い、行く先をなくした者は山ほどいた。
「だが嘉右衛門どの、気をつけてくだせえ」
「何をだ」
「男を多く買うと、奴らは逃げます。女や子と違って、力がある。逆らって刃を向けることも」
嘉右衛門は黙った。
配下が縄をかけ終えた男の中に、一人、鋭い眼光をした青年がいた。年は二十五前後。肩幅も広く、体は鍛えられている。おそらくは戦で味方を失った足軽崩れだろう。
「あいつは危ないですぜ」
配下の者が耳打ちする。
「……わかっておる」
嘉右衛門は青年に近づき、耳元で静かに言った。
「逃げれば殺す。だが、三河へ着けば働き口はある。飯も、寝床も、戦よりはましだ」
青年は無言だったが、その目の奥でわずかに何かが揺れた。
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夜、焚き火に照らされる兄妹は、寄り添って座っていた。妹の衣は薄く、震えが止まらない。
「寒いか」
嘉右衛門が外套の端を差し出した。
妹は怯えたが、兄が頷くと、そっと受け取った。
「おっちゃん……三河って、どんなん?」
か細い声で妹が問う。
「山が深い。だが食うものはある。お前らのような小さな者でも、働き口はある」
妹は兄の袖を握りしめ、言った。
「ねえ兄ちゃん……三河へ行けば、おなか……いっぱいになる?」
「……なる」
兄は震えながらも、妹を抱き寄せて答えた。
嘉右衛門はその様子を見つめ、胸が少しだけ熱くなるのを感じた。
(守ってやれ。お前のあの時のようには、させぬ)
三河への道のりは険しい。ようやく美濃を越え山道を抜ける途中、青年がついに動いた。夜半、見張りが眠った隙を狙い、青年は縄を噛み切り、逃げようとした。
だが仲間の男二人を誘っていたらしい。
「逃げるぞ! こんな犬扱い、たまるか!」
残忍な笑みを浮かべた男が、焚き火の棒を振りかざして突っ込んだ。
混乱の中、妹の悲鳴が上がった。
「兄ちゃん!!」
暴れる男の一人が兄妹の方へ倒れこみ、兄が妹を守ろうと飛びついた。だが兄の小さな体では受け止められるはずもなく、押しつぶされそうになる。
「やめろ!!」
嘉右衛門は刀を抜いた。躊躇はなかった。
刃が闇に光り、男の肩を深く裂いた。男は叫び声をあげて倒れ、青年は目を見開いた。
「助けるのか……俺らを……?」
「違う。守るべきはそっちではない」
嘉右衛門の視線の先には、兄妹がいた。
兄は妹を覆いかぶさって守り、震えながら嘉右衛門を見つめていた。
嘉右衛門は血の滴る刀を持ちながら、青年に低く言った。
「生きたいなら従え。三河までは、まだ道のりは長いぞ」
青年はゆっくりとうなずいた。
季節が代わるほどの旅路の末、一行はようやく三河へと入った。山深いが、畿内に比べれば遥かに静かで、どこか温かい。空気の匂いが違う。
田峰菅沼領島田村の名主屋敷に着くと、藤兵衛が手際よく人々を仕分けていった。
力のある男は山の開墾に、女は炊事や織りに、子どもは雑役に回される。
だが、兄妹の番になった時、藤兵衛が顔をしかめた。
「痩せすぎだな……働けるか?」
妹は怯えて兄の袖を掴み、兄は妹を庇った。
「働けます。なんでもやります。妹に……飯を食わせたい」
その言葉に、藤兵衛はふと顔を緩めた。
「まずは飯だろう。ついて来い」
案内された土間には、蒸気の立つ大鍋があった。麦飯と、根菜の汁。畿内では見たこともない量だった。
「好きなだけ食え。明日から働いてもらう」
兄は震える手で椀を持ち、妹の口元へ運んだ。
一口食べた瞬間、妹の目に涙が溢れた。
「……あったかい……」
兄も、自分の椀に口をつけた。温かく、優しく、胸がいっぱいになる味だった。
「……うまい……」
嘉右衛門は少し離れた場所からその様子を見ていた。妹の小さな手が、今も兄の手を離さずに握っている。
(よく、守ったな)
わずかに、口元が緩んだ。
仕事を割り振られた後、青年が嘉右衛門のもとに来た。
「あんた……何故、あの子らを守った。俺らより価値があるのか?」
嘉右衛門は焚き火に手をかざし、静かに言った。
「価値ではない。——あの兄の手の握りが、わしには見えたからだ」
青年は不思議そうに眉をひそめる。
「見えた……とは?」
「離すまいとする覚悟よ。妹を護るために死ぬ気でいた。あの手は、わしが昔、離してしまった手だ」
青年は息を呑んだ。嘉右衛門は立ち上がり、夜空を仰ぐ。星が静かに瞬いている。
「お前も、生き直すがいい。ここなら、まだやり直せる。戦で死ぬだけが、男の値打ちではない」
青年はしばらく黙っていたが、最後に深く頭を下げた。
「……あんたに従う。ここで、生きる」
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その夜、兄は満腹で眠る妹の手を握りながら、ぼそりと呟いた。
「三河に来て……よかったな……」
妹は嬉しそうに眠りながら、小さく頷いた。
嘉右衛門は外で聞こえてくる寝息を聞きながら、目を閉じた。
(人は買われる。だが、売り渡されるばかりではない。生きる場所を与えられる者も……確かにいるのだ)
島田村の灯りは、谷間の夜を柔らかく照らしていた。
〜参考記事〜
演目辞典:自然居士/ the 能 .com
https://www.the-noh.com/jp/plays/photostory/ps_074.html
〜参考文献〜
室町は今日もハードボイルド−中世日本のアナーキーな世界−清水克行/新潮文庫
〜舞台設定〜
「戦国時代の人身売買」を初めて「一人称」ではなく難しいとされる「人物切替三人称視点」で書いてみました。
…やってみたら意外といけましたw
陰惨なテーマなので胸糞悪くも書けたし、時代劇寄りの勧善懲悪風にも書けたのですが、色々ググってみると必ずしも当時は悪とも言い切れないようなので、間を取って真ん中な感じで書いてみました。
因みに、ググってて初めて知ったのですが能の名演目「自然居士」って、能の舞で奴隷商を感化反省させて少女を救い出す話なんですね。って…なろう系よりプロット無理あり過ぎだろwwww




