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乳母のつぶやき そのいち

 

 私はグレタと申します。

 メルネスに生まれ育ちました、一領民でございます。


 私にメルネス家の乳母の職が巡ってきたのは、本当に偶然のことでした。

 本来()く予定の女性の産後が思わしくなく、辞退されたのです。


 私は乳飲み子を抱えて住む家と職を探しているところでしたから、調子が戻らないその女性には申し訳なく思いますが、正直ラッキーでした。


 両親は家に戻ってこいと言ってくれましたが、実家は既に兄家族が同居しているだけではなく、歳の離れた弟もいます。

 家族の関係は悪くはないので、子育てをする上で人手があるのは嬉しいのですが、私が戻るとなると、やっと一人部屋になった弟はまたもや両親の部屋の隅に間仕切りをして使うことになります。弟ももう十歳。それは可哀想です。

 弟が複雑そうに「気にしないで戻ってきて」と言ってくれるので、尚更です。

 家にあと一部屋あれば良かったのですが。


 手元にまとまったお金はありますので、片親でも貸してくれる賃貸の一戸建てを仲介さんに探してもらいながら、当たり前ですがお金は使えば無くなっていくだけなので、なるたけ貯蓄を減らさないように、赤子がいても無理なく働ける職を探し始めました。


 今住んでいる家は売りに出して無事に買い手がついたので、期限までに出て行かねばなりません。それまでにはひとまずは引っ越し先を決めなければ……と思っていたところでのお声掛かりでしたから、飛び付きましたとも。


 そのお声掛けも、仲介さんからの賃貸物件を見に行った時、大家さんがメルネス家の分家筋の方というご縁からでした。

 乳母に決まっていた本来の方が辞退されてから何人かに声を掛けられたそうですが、住み込みに難色を示したり、勤務条件で折り合わなかったり、話が進んでいなかったそうです。


 あれよあれよと話は進み、メルネス家で面接を受け、無事に雇っていただけることとなりました。


 家族は皆、私の就職を祝ってくれましたが、一番笑顔だったのは弟だったのは言うまでもありません。


 私としても落ち着き先が決まったのでホッとしました。

 これでようやく前に進めるというものです。

 ……本当は、紹介された賃貸のお家がかなり素敵だったので、少しだけ残念でしたが。


 三ヶ月、かかりました。


 まだ、三ヶ月しか経っていないとも言います。


 お腹の大きな女性が真っ青な顔の夫の腕を引いて我が家に来たのは、可愛い坊やを産んで、夫がユーハンと名付け、三人でこれからの生活を楽しみにしていた矢先の出来事でした。


 うちの両親と夫の両親を巻き込んでの修羅場となりました。


 まあ、詳細は面白くもなんともないので、結論だけ言いますと、別れました。


 夫は「酒に酔っていて覚えていない」の一点張りでしたが、女性から「その後も何回も過ごした結果の妊娠」と言われ、ぐうの音も出せていませんでした。

 もしかしたら関係を迫ったのは女性からだったかもしれません。けれども、覚えていないのは最初の一回のことで、それからのことは、どうせ一回してしまったものなら二回も三回も四回も週に三日も同じだと思ったのは夫です。


 そんな思考回路の人と関係修復は無理です。

 坊やは私が育てます。


 というわけで、結婚のお祝いに両家から贈られた家から夫は出て行きました。

 家は私のものとなりましたので、速攻で売りに出しました。

 私が不在の時に女性は家にも上がっていたとのことで、さすがに住み続けるのは気持ちが許せませんでした。

 元々中古でしたが中々の良い値で売れましたので、坊やが大きくなった時にも少しは残してあげられそうです。


 かくして、私はメルネス家に乳母として勤めることになりました。


 お生まれになるまであと一月ほどといったところで、私は勤務を開始しました。

 厳密にはまだ仕事自体が無いのですが、引っ越し先が必要な私の事情をふまえていただき、まずは自分の生活を確立してメルネス家に慣れるようにとのことで、お給金をいただきながらのんびり過ごさせていただけたのです。

 さすが辺境伯家です。


 ただ、不思議なことがありました。


 奥様のビルギット様は、あまりお腹が目立たない方で、臨月に入っても締め付けないドレスを着て外出されていました。

 旦那様のヘンリック様は、もうすぐお子様が誕生するとは思えない程、無表情でいらっしゃいました。


 クズな私の元夫でさえ、大きなお腹を撫でては子の誕生を楽しみにしていたので、少々違和感というか、腑に落ちないというか。

 お貴族様とやらは、こんなものなんでしょうかね?


 月が満ちて奥様は紫の眼の玉のような男の子をお産みになり、ロベルト様と名付けられました。


 さあ、私の出番です。

 しっかりしてきた私のユーハンも、生まれた時はこんなにふにゃふにゃだったと思い出すと、愛おしさが込み上げてきました。その思いに呼応したのか、幸いなことに私の母乳は二人にあげても足りるくらいに出るわ出るわでした。


 一生懸命お乳を含むロベルト様。


 ……ビルギット様は、一度もお乳をあげることはなかったと聞きます。

 どの家も貴族の子は乳母が育てるものではありますが、こんな幸せを知らないビルギット様に、ほんの少し同情してしまいました。


 その同情はそう時間もかからずに木っ端微塵に砕かれましたが。


 産後の体調が回復なさったビルギット様は、堂々と『恋人』と会うようになりました。

 私のような者の耳にさえ入ってくる『辺境のトワイニクス』と呼ばれるビルギット様のお話に、噂というものはとかく誇張されるものだと思っていたのですが。


 そのままでした。


 ロベルト様がすくすくと育つのを横目に、ビルギット様はほとんどロベルト様に関わりませんでした。

 気にはされているようなのですが、たまに遠くから顔を見るくらいなのです。

 そして夜はお出かけになり、朝方お帰りになります。パートナーはヘンリック様ではないどころか、月替わり……週替わりなのですが、ヘンリック様はまるで気にも留めていないご様子。


 夜会からの朝帰りなんて、そういうことでしょう?


 ……貴族の夫婦って。


 ロベルト様はとてもよく泣く眠りの浅い赤ちゃんで、常に側にいてあげなければなりませんでした。個人差なのかもしれませんが、ユーハンがおっとりしてあまり泣かずによく寝る子なので、余計にロベルト様の心情を勝手に想像してしまいます。


 寂しいのだと。


 いくら乳母と乳兄弟がいつも側にいても、寂しくて泣いているのだと思うのです。


 ヘンリック様は元々お忙しい方なので、あまりロベルト様に会いに来られません。来られても、見慣れない身体の大きな男性に驚いて本気(ギャン)泣きするロベルト様をヘンリック様は無表情で見ているだけです。


 私でも怖いですよ……旦那様。


 そのうち、報告は細かに要求されますが、ヘンリック様はロベルト様に会いには来なくなりました。


 実のご両親が会いに来られない。

 ならば。

 不肖ながらこの私めが、ロベルト様の乳母として、『乳』だけではなく『母』も担いましょう。


 寝返りを始めたロベルト様。

 声を上げて笑うロベルト様。

 不思議な格好のずり這いをするロベルト様。

 初めて食べたパン粥を見たことのない顔をして吐き出したロベルト様。

 初めてのお言葉は「うれた(グレタ)」。

 連呼する言葉は「うーはん(ユーハン)」。

 おもちゃを「どーじょ」と渡してくれ、返すと「あーと」と笑顔でお礼を言うロベルト様。

 うんちをする時はカーテンに隠れて真っ赤な顔で唸るロベルト様。

 ユーハンと一緒に転がって喧嘩し合っても、そのまま笑い合いに変わって気が付けば寝ている二人。


 両手で抱き締めると私の服を握りしめる小さな手の愛おしいこと。


 ロベルト様は私にとっても息子にとっても、とても大切な存在となっていったのです。


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