【番外】ドラッグ・レース・クイーン 其の三
赤光を振り回し、警察車両が躍り出た。
サイレンを浴びた車はたちどころに道を開け、突き進む回転灯を見送る。すわ重大事件発生かと、各々に想像を膨らませながら。
「廃スタンドまで最速で戻れ」
洋が出した指令を、蓮葉は忠実に実行した。
アクセルに踵、ブレーキにつま先を同時に置く《ヒールアンドトゥ》。カーレースでは基本のテクニックだが、十六歳の少女が使いこなす様子は圧巻と言う他ない。AT車では無意味という説もあるが、蓮葉の運転の前では空論と化す。
逃げ遅れたワゴンに肉薄したパトカーが、ぬるりと車線を変えて追い抜いていく。車間距離わずか数センチ。サイドミラーをかい潜られ、運転手が凍り付く。その表情を置き去りに、なおも車は速度を上げる。着実に順位を上げていく。
──問題はここからだ。
そう考えながら、烏京は夜道の先行きを睨んだ。
廃スタンドから梅田まで、三人は徒歩で来た。およその地理は頭に入っている。
借り物のパトカーは、じきに曽根崎通りを走り終える。まっすぐ西に向かうこの大道路は途中で「北港通り」と名を変え大阪湾まで続くが、廃スタンドに向かうには道を変える必要がある。交差する43号線で右折し、「此花通り」で左折──その後、淀川沿いにひたすら突き進めば廃スタンドに着く。
つまり曲がるのは二回のみ。それ以外はほぼ直線ルートと言ってよい。都心である曽根崎通りを抜ければ車影はほぼなく、安定した加速を期待できる。
しかし懸念はある──信号の対処だ。
青なら問題ない。だが赤なら決断を迫られる。
停止の選択肢はない。減速か、突き進むのか。
法的な問題は無視するにせよ、常に危険は付き纏う。
丑三つ(深夜二時)に差し掛かる深夜。小さな交差点は気にする必要がない。問題は複数車線を擁する幹線道路だ。タクシーや長距離トラックは眠らない。超過速度の車も少なくない。
パトカーの伝家の宝刀、回転灯とサイレンは同列には効果覿面だが、交差点では反応が遅れる。緊急時であれ、救急や警察が交差点で速度を落とすのはそれが理由である。ましてや深夜、さらには時速100km超え。このまま突っ込めば重大事故は免れないこと、自明の理だ。
どの程度まで減速を許すか。あるいは赤信号を回避するべく速度調整するのか。
──お手並み拝見と行こうか。
助手席から高みの見物を決め込む烏京だが、その余裕は最初の交差点で、脆くも崩れ去った。
「なにわ筋」と交わる大型交差点、「浄正橋」。片道三車線、北にJR福島駅を迎える幹線道路。信号は赤。弾丸のように行き交う車の群れ。
梅田からアクセルを踏み続け、過剰なほど速度に乗ったパトカーは、躊躇いなく、その隙間に飛び込んだ──さらに強くアクセルを踏みながら。
動脈に氷酢酸を打ち込まれたように、烏京は硬直した。
松羽流の新鋭として、数多の修羅場を越えて来た烏京だが、それは別種の、未知の感情だった。自身の行動の及ばざる、「他人に命を預ける」という恐怖。
今しもパトカーはスライドしながら、飛び交う車の隙間を際どく縫っていく。蓮葉が一瞬の判断を誤れば、手元がわずかでも狂えば、衝突は必至。全員即死でも何らおかしくない。
烏京はようやくにして悟った。
蓮葉は本当に「最速で戻る」気なのだ。
同時に気が付いた。これは呉越同舟なのだと。
試されているのは自分の方だ。後部席ではしゃぐ豚や、命知らずの運転手では断じてない。漏れかけた呪詛を呑み込む──この、いかれ兄妹が。
稲妻のように車列を切り抜けると、洋が口笛を吹いた。
「いいねえ。やるじゃねーか、蓮葉」
怖気を秘める自分に対し、明らかに愉しんでいる顔だ。こいつの肝はフォアグラ以上に肥大している。
「──まさか、この調子で行くつもりか?」
ようやく吐いた言葉に反応したのは、意外にも洋ではなかった。
突如、助手席の窓が降り始めた。強風とサイレンの音が消魂しく飛び込んでくる。操作したのは蓮葉だった。その手がインパネに触れ、サイレンを切る。
烏京は、思わず息を詰めた。
蓮葉の視線が自分に向いている。同盟を組み、廃スタンドに移り住んで以降も、言葉はおろか一瞥さえくれなかった《雌虎》の瞳が。
視線は刹那で正面に戻ったが、意図を読むには十分だった。
──左は任せる、だと?
回避を前提に交差点を見た時、右から来る車は認識しやすい。運転席から見やすく、反対車線を挟むため見通しが立つ。しかし左は違う。運転席から見づらく、角の建物や交差点の構造が死角を生む。
思えば、先刻通過した「浄正橋」では左から来る車が少なかった。さしもの《雌虎》も、左右両方の車を同時に突破するのは荷が重いらしい。片方の時点で神技なので無理もない。逆に捉えるなら、左さえ対処されれば、右は問題ないのだ。
吹き込む強風に暴れる襟元を抑え、烏京は懐に左手を入れた。
今の烏京は、いつもの袋袖や黒装束ではない。サイズの大きなパーカーを羽織り、袋袖は折り畳んで脇腹の左右に収納している。咄嗟の対応に難はあるが、懐から手を伸ばせば袋袖の中身を取り出せる。
再び現れた手には、一掴みの銀球。昼の間にパチンコ屋で掠め取ったものだ。都会で礫は拾えないが、この手の賭博場はうってつけの補給所だった。
一つを中指と人差し指で挟み、残りを握り込んだまま、窓の外に出す。
細く息を吐きながら、高速で押し寄せる街頭の光景に目をくれた。
前方に南北に渡る高速道路の巨大な高架が見えてくる。その下を走る「新なにわ筋」との大型交差点が「野田阪神前」だ。昼なら車でごった返す場所だが、この時刻の交通量は知れている。
ちなみに洋たち御用達の量販店はこの近く。馴染みのある道路の信号は赤く、変わる兆しもない。
現在、烏京たちを乗せたパトカーは時速130kmで飛ばしている。左から来る車を《印地打ち》、すなわち投擲で足止めするには、交差点に到達する遥か前に干渉する必要がある。それも交差点を折れた先、死角を走行する車を察知して、だ。
──簡単に言ってくれる。
そんな心中を見透かしたように、洋が問う。
「やれるかい?」
「誰に言ってる──俺は《松羽 烏京》だ」
「知ってるよ」
茶化した風だが、洋なりの発破なのだろう。それが逆に腹立たしい。
「──黙って見ていろ」
窓の外で左手を上げ、ドアバイザーの上を探る。指が車体と扉の隙間を見つけ、横一線の形を確認する。銀球を押し当て、機を窺う。さながらピンボールやボウガンの如く。
向かい風の中で瞬き一つせず、烏京は《神眼》を発動した。
「──鉄火打ち」
涼やかな摩擦音と火花を散らし、銀球が闇に吸い込まれた。
一度ではない。二発、三発と続けざまに。
時速130kmに射出速度を加えた銀球は、夜鷹のように風を裂き、前方の「野田阪神前」を目指す。狙いは傍らに立つ街灯。鐘のように打ち鳴らし、各々が異なる軌道で、交差点を左折した方向に跳ね返る。
直後、パトカーが「野田阪神前」に到達した。
回転灯にブレーキを踏む車、間に合わない車。食い違いから生じる隙間に頭を突っ込み、横滑りしながら抜けていく。左から来る車は──ない。
弾指を待たず高架を潜り抜けると、洋が息を吐く音が聞こえた。
「すげぇな、おい。どうやって当てたんだ?」
「──人は、光の反射で物を見る。
光源も同じだ──光の形に姿が現れる。
明度、距離、速度、車種──それだけわかれば、狙うのは容易い」
「殺しちゃいねぇよな?」
「──ブレーキを踏ませるのが目的だからな」
フロントガラスに亀裂が走れば、たいていの人間は慌てて速度を落とす。真夜中の大阪ならなおのことだ。
「さすがだぜ、烏京」
「フン──本命は次だ」
一笑もせず、烏京は前方を見据える。
道は「北港通り」に名称を変え、変わらず西へと伸びていく。車は目に見えて少なくなり、その全てが回転灯を見ただけで道を開けた。窓を開けたにも関わらずパトカーは時速140kmに達し、最大の難所を眼中に捉える。
「梅香」は、「北港通り」と国道43号線の立体交差点で、この周辺では最大規模の交差点である。左に曲がれば大阪市内、右なら兵庫県に続く国道43号は阪神間の大動脈で、大型トラックやトレイラーが列をなす。それはこの時間帯でも変わらない。
「──不味いな」
遥か先の「梅香」の状況を見て、烏京がつぶやいた。
信号は赤。さらに悪いことには、左手から来た大型トラックが右折待ちで道を塞いでいる。広大な交差点にも関わらず、開いた隙間はごくわずか。何よりトラックに邪魔され、左から来る車に跳弾が届かない。立体交差の降り口のため、横から狙うことも不可能だ。
「オレも手を貸すぜ」
危機感が伝わったのか、左の窓を開けながら洋が言う。
運転席の蓮葉はと言えば、大理石のような無表情。右手は見通しがよく、車影も限られる。こちらは任せていいだろう。
問題は左だ。柱に反射するライトから読む限り、こちらが進入するタイミングでトラック二台が突っ込んでくる。今しも対処しなければ手遅れになるが、どう計算しても射線が通らない。
「おい、どうする。間に合わねえぞ」
「──任せろ!」「おっ」
驚く洋を余所に、烏京は再び《鉄火打ち》を放った。
灰色のジャンクションに向けて、射出された弾丸は二発。突き出したトラックの屋根を超え、交差点の上に向かう。
外したのではない。それはあり得ない。烏京の狙いは──
ガゴゴォン! 左手向けの信号が鈍い音を響かせた。着弾は長方形のパネルの下端二点。青信号が跳ね上がり、半回転して裏返る。
──直接止められなければ、間接で止めるまで。
突然姿を消した青信号に、二台のトラックが急ブレーキをかける。タイヤの悲鳴を愉しみながら、パトカーは交差点に突入した。
「曲がれえっ!」「うんっ!」
洋が四股を踏み、人力のダウンフォースをくれる。右からの車群をかわし、ハンドルを右へ。
パトカーは尻を振りながらも鋭く右折し、43号線に飛び乗った。




