【番外】ドラッグ・レース・クイーン 其の二
「好事魔多し──いや、因果応報か?
鳥頭とは聞いたが、これほどとはな」
「いや、これは蓮葉じゃねえ……オレのミスだ」
前回の《始まりの儀》で、たつきに蓮葉の服を笑われた洋は、密かにリベンジを誓っていた。地元量販店の店員任せを止め、これという服を通販で取り寄せては試行錯誤した。着せ替えは出発寸前まで続いた。
結果、蓮葉は納得いく仕上がりになったが、身分証である《耳袋》を忘れた。当初着ていく予定だった服に入れたまま、置いてきてしまったのだ。
普段の洋なら、小学生の母親よろしく忘れ物をチェックする。今回はチェック後に着替えさせたのが仇になった形だ。
「それで──どうする?」
視線に生やした棘を矯め、烏京は再び問うた。
烏京に焦りがないのは、当事者ではないからだ。アイドルデビューと違い、こちらに火の粉が飛ぶ心配もない。もし不戦敗になれば、鉄板と目される蓮葉の優勝がわずかであれ揺らぐ。同盟として請われれば手助けするつもりだが、どちらに転んでも烏京に損はない。
むしろ関心があるのは、洋がこの危機をどう切り抜けるか、である。
脂下がった豚の目が、ようやく猪の眼に戻っている。抜き差しならぬ逆境に陥り、ようやく目が覚めたらしい。
「車だな。走っても間に合わねえ」
──正解だ。
洋の答えに、烏京は無言で首肯した。
梅田までは徒歩で来たので、道は把握している。大きく二度曲がるだけの、ほぼ直線。坂も障害物もなく、夜であれば人目も限られる。
しかし往復20kmを二十分で走破するには、単純計算で時速60kmを要する。車なら並みの速度だが、人の届く速度域ではない。それでも《神風》候補の怪傑なら追いつく目もあるが、あくまで短距離、短時間に限られる。大半の肉食獣が短距離走者なのと同じ理由だ。
例外があるとすれば、蓮葉だろう。人ならぬ《水妖》なら、車に劣らぬ移動が可能かもしれない。
とはいえ、蓮葉単身で行かせるのは論外だ。万一、途中で地理や目的を忘れたらフォローの仕様がない。任せるには危険すぎる。洋もそう考えたはずだ。
「お兄ちゃん、行かないの?」
その妹が、後ろから呑気に尋ねてきた。
「おまえ、これ忘れてきたろ」
「あっ」
《耳袋》を見た蓮葉が口元を押さえた。
こういう少女らしい仕草も最近覚えたものだという。
洋が甘くなるのも納得の可憐さだが、烏京には無縁の話だ。向日葵同様、その愛嬌は兄にしか向かないのだから。
「それでどうする──奪うか」
「いや、時間がかかり過ぎる」
「──ならば、交渉か」
「真夜中だぞ? 強盗に間違われるのがオチだ」
「まさか──タクシーか?」
「当たりが引けりゃ、その手もあるがな」
時速60kmと言えば簡単に思えるが、実際には減速や停止を余儀なくされる。信号無視やスピード違反に協力する運転手は稀だろう。厳選する時間もない。
「ならば──どうする?」
「そうだな……借りてくるってのはどうだ?」
烏京は露骨に眉をひそめた。
「貴様──よもや先刻の芸能屋に……」
「わはは、そりゃあ流石にな。
オレの当てはこっちじゃなくて、あっちだ」
太い指先が第三ビルから向きを変え、広い道路を挟んだ対岸を指す。常人には読めない距離と明度の看板を、烏京の《神眼》は苦もなく読み取った。
「曽根崎警察──だと?」
「パトカーなら何かと好都合だろ」
梅田の一等地に署を構える曽根崎警察と言えば、泣く子も黙る大阪府警の総本山である。
「馬鹿な──警察署を襲うつもりか?
仮に車を奪えても、後の始末が──」
「おいおい、落ち着け」
興奮する烏京に対し、なだめる洋は平常運転である。
「借りる当てがあるんだよ。
ここの上層部には《畔》の知り合いがいる。
《魚々島》が頼めば、嫌とは言わねえはずだ」
「なるほど──」
大企業やマスコミ、警察などの組織には、必ず《畔》が潜んでいる。情報収集に加え、いざとなれば内部から《畔》に利するためだ。
特に警察には、古くから専門の一族が存在し、現場からキャリアに至るまで深く根を下ろしているという。その一族の名は──
微かな振動音が響き、洋が胸を押さえた。ポケットからスマホを取り出す。《耳袋》とは別の端末である。
着信名を見てにやりとすると、妹に告げた。
「蓮葉、ちょっと耳栓しといてくれ」
「あい」
言われるままに両手を耳にあてがう少女を横目に、洋は通話をスピーカーに切り替えた。
「久しぶりだな、狼火。
ちょうど連絡しようと思ってたとこだ」
『存じております、洋さま』
それは、若い女の声だった。
低く深く、こちらの息遣いを探るような声。蛙を見つめる蛇にも似た、人ならぬ気配の滲む声。
蓮葉とは異なる──そして烏京のよく知る《畔》の声音だ。
『第三ビルの裏側に車を一台、手配しました。
回転灯とキーはつけてあります。ご自由にお使いください』
「話が早くて助かるぜ」
いや──早すぎる。流石に異常だ。
「──盗聴か」
『梅田は私たちの領域なので』
悪びれもせず、声は続ける。
『初めまして。私は山上狼火警視です。
昨年より副署長として、曽根崎署に配属されました。
以後、お見知り置きを……松羽 烏京さま』
「やはり山上──《畔》の眷属か」
山上は山神、転じて大神に通ずる。明治に絶滅したとされるニホンオオカミだが、力ある雌の群れが《畔》に下り、眷属となった。山上はその末裔である。
『名前こそヤクザですが、8931プロは良い事務所です。
男性アイドルも数名在籍しています。
芸能界に興味がおありならお勧めしますよ』
「だってよ、烏京」
「──あの事務員も《畔》というわけか」
おそらく知っていたのだろう。洋のしたり顔に、烏京はマスクの下で苦虫を噛んだ。電話の向こうにも冷笑の気配がある。
「おっと、無駄話はここまでだ。
車、早速借りてくぜ。ありがとな狼火」
「こちらこそ。お気遣いに感謝します」
これは会話から蓮葉を外したことだろう。
蓮葉は故あって《畔》と絶縁中だと洋は言っていた。理由は聞いていないが、本当なら《畔》が蓮葉に助け舟を出すはずがない。
これはあくまで洋、ひいては《魚々島》の手助けであり、蓮葉はどうでもよい──その体裁を取るための気遣いが耳栓なのだろう。あえてスピーカーにしたのは、同盟である烏京を紹介するためか。
だが、今の声は──
烏京の思考を置き去りに、洋は通話を切るなり駆け出した。耳を塞いだままの蓮葉が続く。
──俺には関係のない話だ。
追いついた烏京を加えた三つの影が、曽根崎通を泳ぐ前照灯を横目に疾走する。午前を過ぎて車が絶えないのは、北新地という不夜城がそばにあるからだ。車の八割はタクシーである。
パトカーを見つけるのに労はなかった。一号線から右に折れたビルの谷間から赤い光が漏れている。
隘路を駆け抜け赤色灯に肉薄する中、烏京は喫緊の問題に気がついた。
「──運転するのは貴様か?」
「ま、何とかなるだろ」
「おい待て──経験はあるのか?」
「港の運搬車なら」「──話にならんな」
「なら、おまえは経験あるのかよ」
「山で軽トラなら」「話にならねぇだろ」
いがみ合う二人の間を潜り、颯爽と運転席に飛び込む影一つ。蓮葉である。
「運転──出来るのか?」
驚く烏京だが、当然のように蓮葉の返答はない。
けれどエンジンに火を入れ、シートを調節し、ミラーの角度を合わせる鮮やかな手並みを見れば、蓮葉が高度な訓練を受けていることは明らかだ。少なくとも素人二人の敵う相手ではない。
「こりゃあ蓮葉の腕に賭けるしかねえな」
洋の言葉にも納得せざるを得ない。
「だが──道は覚えているのか?」
「お前が指示すりゃいいだろ。助手席で」
「──何故、俺が?」
「オレは後ろでやることがあるからな」
そう言い残すと、洋は背中を丸め、尻から後部座席に乗り込んだ。
意味不明だが、問いただす時間もない。
烏京は覚悟を決め、助手席に腰を据えた。蓮葉との間にあるのはナビと無線機、そして暗闇と沈黙だ。
二人が扉を閉めると同時に、車が発進した。
一車線の一方通行。信号を曲がれば幹線道路に出られるが、信号手前で停車する車が邪魔になる。
蓮葉の指が迷いなくボタンに触れ、サイレンが唸りを上げた。
効果は覿面、車は慌てて脇に寄ろうとする。しかし角に路駐したトラックに阻まれ、車幅半分しか道を譲れない。信号が変わるまで待つしかない状況である。
「──残り十六分。もたつけば間に合わんぞ」
「そうみてえだな。
蓮葉、アレやれるか?」
「大丈夫」
振り返りもせず蓮葉が頷く。
バックミラーを見た烏京は、思わず息を呑んだ。
座席中央、中腰で立ち上がった洋が、高々と左足を上げている。両膝に手をついたその構えは、まるで相撲の四股だ。走る車内の片足立ちでも仁王像のように不動のまま、天井に触れた膝を一気に振り下ろした。同時に蓮葉がアクセルを踏み込む。
一瞬、左に沈んだ車体が、直後に右へ跳ね上がった。
左のタイヤを掲げた片輪走行で前方の車両の横を抜け、信号に出る。当然のように無視して、左右に行き交う車の隙間に飛び込み、「天下一品」の看板前で勢いよく右折する。
傾いた車内が水平を取り戻し、シートに取りついた烏京は息を吐いた。
深海のような夜の道路に緊張が広がる。サイレンを鳴らすパトカーがいきなり片輪走行で飛び出したのだ。当然の現象である。
「──何だ、今のは」
「殺し屋バイト時代に《逃がす仕事》もやっててな。
《畔》の運転手に色々教えてもらったんだよ。
蓮葉ならやれると思ったぜ」
「──せめて、先に言え」
「対応してたじゃねーか。流石だぜ」
笑い飛ばす洋に憮然としたまま、烏京は時計を見た。
残り時間十六分。片道八分。ノルマは時速75kmのノンストップ。道路は三車線あるが、やはり車は少なくない。
パトカーとはいえ──果たして間に合うか。
そんな烏京の胸の内を察してか、洋が言った。
「心配いらねぇよ。
《神風》候補が三人いるんだ。何だって出来る。
なあ蓮葉、そうだよな?」
「うん!」
エンジンが猛り、Gを浴びせて加速した。




