【番外】ドラッグ・レース・クイーン
袖から取り出した銀球を摘まみ、事務机に置く。
同じくもう一つ。球の上に球を重ねる。
さらに一つ。無造作に一つ。間髪入れず一つ。
「うわっ、すごい! 器用なんですねえ」
苦もなく完成したパチンコ玉の「五重の塔」に、女の事務員が喝采する。
その感心が、驚愕に変わったのは次の瞬間だった。
塔の作り手が、おもむろに机に飛び乗り、倒立したのだ。
積み上げた五つのパチンコ玉の、さらにその上──指二本のみを支えに、長い脚を天井すれすれまで伸ばして。
絶句する事務員を余所に、松羽 烏京は天地逆のまま、この不愉快な状況を振り返った。
時は深夜一時半。《神風天覧試合》第二試合、開始三十分前。
場所は大阪梅田第三ビル三十階、8931プロ事務所。
魚々島洋の説明によれば、アイドル系に強い芸能プロダクションらしいが、烏京は何の興味もない。日陰の暗殺者には果てしなく無縁な世界だ。
烏京にそう教えたお調子者は、事務所奥の応接間で年季の入った革ソファに肥満体を沈め、我が物顔で出前寿司を平らげている。
「真夜中でも美味いな、ここの寿司」
「新地の寿司屋ですから。夜の上客御用達です」
足元には空の寿司桶が、ローテーブルより高く積まれているが、洋の食欲はまさに豚の如し。隣には畔 蓮葉を座らせ、これ以上ない浮かれぶりである。
その妹の方は、一目で高級品とわかる洋菓子を確かめるように口に入れては、滂沱の涙を流している。こちらは堂島にある老舗の品で、閉店後に無理やり捻じ込んで届けてもらったものだ。二人合わせてかなりの出費のはずだが、スカウトマンも社長を名乗る中年男も嫌な顔一つせず、美辞麗句を絶やさない。もちろん洋ではなく、蓮葉に向けた台詞である。
烏京にとっては面妖な状況だが、ことの顛末は単純に尽きる。
試合場のある大阪梅田に三人が入ったのは昼過ぎ頃。梅田は初めてだという蓮葉を連れ、開発著しい駅北から東通りの繁華街まで、関西最大の都市を見物する途中、スカウトに声をかけられた。「ぜひ事務所で話を」と誘う男に、洋がまさかの快諾。
かくして《神風》候補の三名は、古めかしいビルの上階にある昭和の色濃い芸能事務所で、歓待を受けるはめになったのである。
──まるで欲望の坩堝だな。
逆立ちの姿勢のまま、烏京はこみ上げる慨嘆をまた一つ飲み下す。
事務所側の意図はわかりやすい。目的は蓮葉だ。道端で国宝級のダイヤを拾ったのだから、目の色を変えて当然だろう。
問題は洋の方である。
暇つぶし、タダ飯目当てならまだ可愛げがあるが、そうではない。
あの兄馬鹿は、妹がちやほやされて喜んでいるだけなのだ。
それには少なからず、蓮葉の被服事情も関係する。
アウターは乗馬用ショートジャケット。長袖だが裾丈は短く、トップスに白シャツを着ていなければへそが出るところだ。濃紺に金のダブルボタンは、野趣とフォーマル感を兼ね備えている。
下は純白のホットパンツ。蠱惑的な美脚を艶めいた黒のレギンズに包み、足先はグラディエーターサンダル。ストラップで縛り、足指が自由なタイプである。
乗馬服をアレンジしたこの服は、洋が蓮葉に選んだものだ。出発寸前まで迷い抜き、吟味に吟味を重ねる丸い背中に烏京は半ば以上呆れていたが、その成果はあった。街ですれ違う男たちの視線をほぼ独占したのだ。もちろん蓮葉の美貌ありきだが、露出抑えめ、しかし抜群の輪郭を殺さず、むしろ際立たせるコーディネイトの妙は、洋の手柄である。自分の飾り立てた人形がプロに絶賛され、有頂天になる気持ちもわからなくはない。
とはいえ──あまりに長い。長すぎる。
胸中の苛立ちを諦めに浸し、忍耐の衣をまぶすと、烏京は油に投じた。この天麩羅が揚がるまでに、愚にもつかぬ宴を終わらせねば。
口にはしないが、洋の胆力と頭の切れは烏京も認めるところだ。
だからこそ同盟を申し出たとも言える。
しかし共同生活の中で、烏京は洋の致命的な弱点を知った。
底なしの兄馬鹿であることだ──いずれきっちりと釘を刺さねばならない。
烏京とて、本音ではこんな茶番につきあうのはご免である。しかし目を放せば、蓮葉がアイドルデビューしかねない。「そんな馬鹿な」と笑えないのが、この二人の恐ろしいところなのだ。
同盟者として、暗殺者として、それだけは避けねばならない……!
「おい──いい加減、切り上げろ」
机から跳ね降りると、烏京は凄むように洋に告げた。
試合開始まで、あと三十分。
戦場となる《曽根崎地下通路》が、このビルの地下にあることは確認済みだが、どんな邪魔が入るかわからない。そもそも試合前に初見の相手と食事するのが非常識なのだ。烏京自身は茶の一滴も口にせず、鍛錬で暇を潰している。
「ああ、そうだな。
流石にそろそろ、お暇するか」
物理的にも重い腰がようやく上がり、烏京は安堵した。
社長があわてて反応し、洋に名刺を押し付ける。長時間飯をたかられ、怨嗟が漏れてもおかしくない場面だが、最後まで笑顔を崩さず、「またのお越しを」と見送られた。蓮葉に手土産の菓子まで手渡す辺り、なかなかのやり手かもしれない。
「社長! こちらの方もスカウトしましょう!
背も高いし、マスクを取ればルックスだって……」
「──御免こうむる」
食い下がる事務員に断言すると、烏京はエレベーターの扉を閉じた。
「戯けるなよ、貴様──豚の分際で」
「悪い悪い。そんなキレんなよ、烏京。
時間はまだ全然余裕あるだろ。
それに地下が何時に開くかなんてわからねえしよ」
如何なるルートか不明だが、《天覧試合》の戦場は、忍野が深夜帯の施設を借り受け、使用しているようだ。人の多い施設であれば閉鎖後に再開放し、候補者を迎え入れる形になる。梅田の地下ともなれば、人が減るぎりぎりまで開放しないだろうというのが洋の見立てである。
「フン──ならば、確かめよう」
烏京が取り出したのは、候補者専用の携帯端末、《耳袋》だ。
独自回線による運営および候補者同士の連絡に使う他、許可を取った相手の位置を地図上に表示する機能もある。
「なーるほど。忍野を調べるわけか」
立会人にして総轄責任者である忍野の位置情報は、あらかじめ全ての《耳袋》に登録されている。地図上の地下通路で確認できれば、開放済みと見て間違いないだろう。
「……どした?」
《耳袋》を開くも沈黙する烏京に、洋が問う。
「そこにいる貴様の妹は──本物か?」
「はぁ?」
思わず蓮葉に振り返るも、何が違うわけでもない。
手には《化け烏》を収納したバッグを提げ、手土産のロールケーキを小脇に挟んでいる。夜の限られた照明に浮かぶ横顔は、女神像のように白く美しい。
「何の冗談だ」と返さなかったのは、烏京がそんな性格ではないと熟知しているからだ。
洋は素早く《耳袋》を取り出し、自ら位置情報を調べた。
地下には忍野。自分の隣に烏京。これは同盟間で共有を許可したからだが……
「蓮葉の反応が……ない?」
「いや──ある。廃スタンドの位置にな」
烏京が倍率を下げたマップを提示する。
確かに洋たちの塒に、蓮葉の反応が残っている。つまり。
「《耳袋》を……家に忘れて来たのか……!」
呻く洋に、小首を傾げる蓮葉。
「──とんだ失策だな。
《耳袋》は候補の身分証明──なければ試合に出られず、失格となる」
烏京の指が、現在位置から蓮葉の《耳袋》の位置をなぞる。
「距離にして約10km──残り時間は二十分。
往復なら片道十分しか使えない──」
「さあ──どうする?」
車の行き交う梅田の路上に、烏京の冷ややかな声が響いた。




