【幕間】魚々島 洋 ―千客万来―
大阪市此花区、洋たちの住む廃スタンド。
布団で目を開けた洋は、のっそりと起き出した。
洋の自室は四畳半である。四方を占める本棚はちょっとした書庫だ。品ぞろえは主に実用書と図鑑。漫画用の本棚も一つある。
タンスからジャージの上下を出し、着替える。柄のない黒一色。当然ながらビッグサイズだ。
最後に万歩計をバッジのように胸に着け、洋は部屋を出た。
灯りをつけず、暗闇の台所で水を飲む。
時計は午前四時。烏京との勝負から一日が過ぎている。
昨日は帰宅後、珍しく熟睡してしまった。蓮葉が同居しているとはいえ、よろしくない傾向だ。《神風天覧試合》が始まった今、常在戦場の精神を忘れれば、いつか寝首を掻かれるはめになる。
その蓮葉が、暗闇から顔を出す。洋の気配を感じると起きてくるのだ。
下着姿をたしなめ、家に居るよう命じると、洋は廃スタンドを出た。
星のない空の下、淀川の堤防に登る。春とはいえ夜はまだ冷える。洋はフードを被ると、黙然と走り始めた。
ほどなく道は左に曲がり、前方に常吉大橋が見えてくる。
大阪湾の三大人工島の一つ、舞洲へ続くこの橋を、息も切らさず、洋は登っていく。無人の車道は、洋専用のロードコースである。
貸し切り状態が終わったのは、橋を登り切った頃だった。
正面に一対のライトが現れた。速い。制限速度を二倍以上、越えている。
減速の気配はない。橋の上では無理もないが、向こうも貸し切り気分なのだろう。夜道で黒の上下を着た洋にまるで気付かない。
無論、それが目的のチョイスである。
光が自身に触れる寸前、洋は真横に身を滑らせた。
触れんばかりの距離で、サイドミラーが通過する。光が駆け抜け、排気音が遠ざかっていく。最後までこちらに気付かなかったようだ。
「オッケーオッケー。
前にこれやった時は、幽霊見たような顔されたからな」
車にほくそ笑むと、洋はジョギングを再開した。
常吉大橋を越えると、左手にあるのが奇天烈なゴミ処理場だ。
正式名称は大阪市環境局舞洲工場。ハンガリーの芸術家、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーの手による奇天烈な外見は、人気のない舞洲にあって、古代の遺跡のような景観を醸している。市の放漫財政の槍玉に上げられることもあるが、夜にはライトアップされるこの建物を、洋は存外嫌いではない。見学者も少なくないと聞く。
そんな舞洲工場の横を抜け、人工島を横断すると、次なる橋が見えてくる。
舞洲と夢洲をつなぐ真っ白な夢舞大橋。これまた市の無駄遣いと揶揄されがちな物件である。
世界初の浮体式旋回可動橋という看板が売りだが、竣工から二十年余り、この機構が役立ったことは一度もない。歩道も使用が禁止されており、車以外でこの橋を渡るのはならず者に限られる。
洋は当然のように、車道から橋を渡り始めた。
舞洲方向にやってくるトラックを何度か練習に使いながら、黙々と走り続ける。
ここは《天覧試合》の始まる前、ドロ婆と会った場所である。
畔の代表である彼女は、別れ際、「《天覧試合》で勝てば、洋の疑問に答える」と約束した。洋が烏京の挑発を受けた理由の一つだ。
訊きたいことは山とあるが、相変わらず連絡はつかない。ここに来ればという期待は、どうやら裏切られたらしい。
とはいえ、洋は足を止めない。
今夜の目的は、ここだけではないからだ。
黒い海を背景に、《キリン》の愛称をもつガントリークレーンが並んでいる。
冷えた潮風に懐かしさを覚えながら、洋は大橋を渡り切った。
初めて蓮葉に出会ったのが、この舞洲だ。
ずいぶん昔に思えるが、まだ一月も経っていない。
ここまで足を運んだのは、その件に絡んでのことだった。
夢洲は無人島である。
望洋の敷地にあるのは、港湾施設のコンテナとトラックばかり。夜には殺風景を通り越し、地の涯ての空気が漂う。監視の目は行き届かず、ノーマンズランドの名に相応しい無法地帯である。
その無法地帯に、唯一存在する店舗がある。
コンビニエンスストア、ヘブンイレブン夢洲店。
それが、洋の目的地だった。
高速道路のSAもかくやという広大な駐車場には、深夜にも関わらず大型トラックがひしめいている。敷地に反して店のサイズは普通だが、その前に並んだバイクの数は尋常ではない。当然のように、原形を留めていないバイクばかりだ。
店の灯りに引き寄せられ、雲霞の如く集まったその持ち主たちが、洋の来店に気付いて、一斉にどよめいた。
「《ガスタの鬼デブ》や!」「マジかよ」「鬼ヤベェ」「初めて見た」
この辺りに蝟集する若者で、洋と《審判邪眼》の抗争と、その顛末を知らぬ者はいない。
関西最強と呼ばれた族グループが、小男一人に根城の廃スタンドを奪われ、あらゆる手を尽くすも取り返せず、一年後ついに解散に至ったのだ。
傲岸不遜のやからどもが、秒で道を開けたのも無理はない。
無人の野を行くが如く、洋は飄々と歩を進め、コンビニの前に立った。
軽快なチャイムが来客を出迎える。明るい店内に定番の品揃え。僻地であれ、変わらない雰囲気がコンビニの魅力だ。
「いらっしゃーせー」
やや砕けた挨拶を飛ばした店員が、カウンターで目を丸くしている。
「よう。久しぶりだな」
金髪の店員に、洋は片手を上げた。
《審判邪眼》の元 頭領 、吉田 文殊だった。




