【開幕】《神風天覧試合》、始まりの儀 其の四
京都の夜は、昏い。
他の大都市、例えば大阪や東京に比べて、街灯やネオンの数が明らかに少ない。これはビルの高さ制限同様、景観を守る条例によるもので、京都に相応しからぬ照明を制限している。景観への規制は店の外観や配色にもおよび、特徴的なシンボルマークを持つコンビニや外食チェーンですら、京都では変更を余儀なくされる。
また、京都は日本一の観光都市だが、夜遊びする場所は限られる。それ以外の地域は総じて閉店が早く、それが光の減少に拍車をかける。派手な電飾を好む大阪とは真逆の志向で、夜に出歩く者も当然少ない。華やかな昼と対をなすのが、京都の夜なのである。
しかし、その中にあってなお、この闇は異質に思われた。
京都御苑──京都御所を擁する緑地のことだ。
総面積92ヘクタール。国民公園に指定され、昼は観光客がひきも切らぬ京都の有名スポットだが、陽の落ちた後は嘘のような帳が降りる。一部の施設を除けば御苑の大部分は広大な林と道である。狭い日本から隔絶されたような、長い長い、砂利道の大部分には街灯がない。夜の御苑を訪れた者は、道の彼方に浮かぶ灯を目標に闇の中を歩かされる。魑魅が潜み、魍魎が蠢く平安京の闇を。煙るように濃密な、異界の昏さの下を。
「だがまあ、嫌いじゃないぜオレは」
蓮葉と連れ立ち、闇の中を歩きながら、洋はつぶやいた。
独り言のつもりだったが、蓮葉がうなずくのが伝わる。夜目が利く二人には、このくらいの闇が煩くなくていい。
桜もそうだ。満開のしだれ桜を御苑のあちこちで見かけたが、ライトアップは一つもされていない。夜桜につきものの酔客もおらず、山桜のように孤高に咲いている。この幽玄味は、手つかずの昏さあってこそだ。
「……さて、着いたな」
思いがけず夜桜を楽しんだ後、二人は京都御所に到着した。
御所の面積は11ヘクタール。敷地は縦長の長方形で、ぐるりを築地と呼ばれる土塀で囲まれている。門は六つ。二人が訪れたのは、南に設けられた建令門である。地図によれば集合場所の紫宸殿はこの門のすぐ先だが、風格ある木造の門は閉じられたままだ。
「ま、オレらが門を潜るのもおかしな話か」
蓮葉と頷き合うと、洋は助走をつけ、4メートル近い築地塀を縦に駆け上った。
蓮葉はバッグを振り上げ、その勢いのままに健令門の屋根に着地する。
「あれが、紫宸殿か」
健令門から見下ろす紫宸殿は、御所と同じく長方形の内塀に囲まれていた。南庭の白洲の奥に、寝殿造の平たい本殿が鎮座している。紫宸殿の左右には桜と橘が植えられ、左近桜と右近橘と称されるが、今はそれぞれの前に篝火が焚かれ、白洲を朱色に染めていた。集合場所の目印らしい。傍には忍野の姿もある。
ふいに刺すような視線を感じ、洋は闇に目を凝らした。
紫宸殿の内塀、その一角に、不気味な影が立っている。黒装束の上からでもわかる長身痩躯。露出しているのは鋭い眼光を放つ目元だけだ。
「魚々島が──」
若いが凄みのある声が、対岸から届いた。
闇を渡る距離は20メートル。声を張るでもなく、されど聞き取れて当然という態度である。
「──豚を飼うとは知らなかった」
「俺もさ」
鼻の頭をこすり、洋は冷笑した。
「しゃべる蝙蝠傘を見たのは、これが初めてだ」
睨み合うこと、数秒。
黒衣の男は、現れた時と同様、その姿を闇に溶かした。
──ドロ婆並みの隠形だな。
挑発はともかく、身のこなしには一流の片鱗がある。
男は魚々島を知っていたが、洋は相手の顔も名も知らない。恰好から察するに、どこかの忍の末裔か。調べは万全というところか。
洋は口端を上げた。胸の奥の篝火に火が点った。
「お久しぶりです。洋殿。蓮葉殿。
《神風天覧試合》、始まりの儀のご参加に感謝します」
紫宸殿に降り立った二人に、忍野が丁寧に頭を下げた。
今夜は立派な裃を着ており、眉目秀麗に磨きがかかっている。慇懃さの中にも、この日を迎えた緊張と喜びが滲んでいた。
「そりゃあ来るさ。こちとら怪我までして合格したんだ。
遅刻で出場を取り消されたら、たまったもんじゃねえ」
「そのようなことはございません。
ただし、本日は《天覧試合》の説明と出場者の確認を行います。
欠席者は参加意思なしと見なされ、出場権を失う旨、お伝えした通りです」
「そうだった、そうだった」
洋はスマホを取り出し、周囲を見回した。
「そろそろ時間だぜ。これで全員か?」
「残り一名です」
白洲の上に落ちる人影は、忍野を除いて五つだ。
まずは洋と蓮葉。先刻の黒装束。緋袴も鮮やかな巫女。幼女を肩に乗せた仮面の巨漢。これは二名だが影は一つだ。
その五つの影が、同時に反応した。
遠く、騒音が聞こえる。港に住む洋には聞きなれた、改造バイクの耳障りな排気音である。この手合いは京都にもいるが、周辺を流している風ではない。排気音に小爆発のような音が混ざっている。タイヤが砂利を噛む音だ。御所内を暴走している。近づいて来る。
間近に迫った騒音が一際大きくなり、突如途切れた。
続いて、紫宸殿の土塀に降り立つ気配。
後ろで束ねたピンクの長髪が闇に躍る。ライダースーツの若者だった。肩に担いだ槍の穂先に、下弦の月が掛かって見える。
高みから白洲の参加者を一瞥し、ニヤリと笑うと、近づいてきた。
「始めてンのか?」
「いえ、これからです」
「なら始めろや。オレに構わねえでヨ」
「そうさせていただきます」
ピンク髪の横柄さにも白洲の空気は乱れない。忍野も端然としたものだ。
「すげーメンツ集めて来たな、おい」
洋の言葉は皮肉ではない。偽らぬ本心である。
「はい。全国を訪ねた甲斐がありました」
「相手するこっちの身になりやがれってんだ」
「心にもないお言葉かと」
涼やかに笑う忍野に洋も笑った。いや、最初から笑っていた。
当然だ。日陰者である道々の輩が、《天覧試合》というこれ以上ない晴れの舞台に立つのだから。市井の観客がおらずとも、これは裏社会の最強を決める試合、道々の輩の代表を決める闘いなのだ。
今夜はいわば前夜祭。心逸らぬ方がどうかしている。
忍野が、一同に集合をかけた。
《神風天覧試合》が、間もなく始まろうとしている。




