5月16日(水)PM19時まで SD8年:再戦
なるほど、太陽か。真っ先に気づいた感想はそれだった。
ものすごくゆっくり指を伸ばし、現在4本の指がガラスケースの北東の方角へ向いている。断面になっているところからしか見えないが、アリの巣がかなり広がっている様子が確認できた。
いつ地表に穴がポッコリ開いて、そこからアリの大群があふれてくるかわかったものじゃない。それに引っ越し先の巣穴ができあがると、そこを中心にアリが防衛線を敷き始める。
いくら10匹程度なら楽に撃退できているとはいえ、サクラ国のど真ん中にアリの巣ができたら大惨事どころの話ではない。一瞬で戦況がひっくり返り、すべての国民は逃げ出すしか選択肢がなくなるだろう。
というわけでとにかく焦っていた僕だけど、ある瞬間からガクッと姿勢が崩れたのだ。何事かと思った。
イメージとしては氷が解けていく感じだろうか、ほぼ完全に固着されていた僕の右腕が急に下にめり込みだしたのだ。そのせいで姿勢が少し崩れた。
何時間も同じ姿勢だったからかなりビックリした。指を動かそうとしてみると、まだろくに動かないが、それでも先ほどよりは抵抗感が少なくなったように感じる。
時刻は夕方5時31分。ちょうど外が暗くなってきて、室内灯の明かりを点けたいなぁと思っていたところにこの変化である。僕の推測はおそらく正しい。
たぶんだが、太陽が昇っている間は異世界の時間が超加速状態になっていて、僕の世界の1日が異世界の1年となるのだろう。
そして日が落ちるといつものちょっと早い状態に戻るのではないかという推測だった。間違いないと思う。
自分の手が動くようになると同時に、ガラスケースの地表の状態が目に見えて遅くなっていたから確信を持てる。
今まで目にもとまらぬ速さでアリや異世界人が動き回り、瞬きの間でアリ対策のトラップができあがっていたのに、今は少しずつ彼らの動きの軌跡が見えるようになってきた。早すぎて良く見えなかった異世界人の動きが見えるようになってくる。
今はどうやら休戦中のようだった。アリを撃退して壁の周辺が荒れている。
そこに異世界人たちが何人も集まって、アリの死骸の駆除や毒水つきの棘を配置したり、物見櫓で警戒している人員を交代させてる様子も見えてきた。人の動きが激しいことに気づいた。
意外なことが一つあった。アリの死骸はサクラ国の中に引き込まれているのだ。
超加速状態のとき、アリの死骸はいつの間にかフッと消えてしまうから、どこかしらに埋めて捨てていたのかと思っていた。でも違うようで、死骸を街の中に持ち帰っている。
まさか食べてるのだろうか、と考えたら少し吐き気がした。そうじゃないことを祈りたい。
当然だが、一秒でも情報が早くほしかった。
なので手が動くようになるのと連動し、ズブズブとゆっくり地表へと手を降ろしていく。指差しをしていた右手をそのままリュウへの出迎えに使うわけだ。
加速状態が解除されつつある、といってもまだ動かしづらく、地表に手がつくまでに10分近くもかかってしまった。ずっと変な姿勢だったためかなり腰と肩が痛い。
ただ例の池の畔に手がたどり着いたときには、いつもと同じくらいの抵抗感になっていた。ついでに窓の外を見ると、完全に真っ暗になっていた。やはり時間か、もしくは陽光の有無が関係するのだと思う。
今日のゲストはリュウ1人のようだった。見覚えのある姿の異世界人が1人しか乗ってこない。他にいないのか、と考えてその理由を察する。
……そりゃ国が現在進行形で襲われてるときに戦力を割けないよね。というかリュウ引き抜いちゃって大丈夫なのかな?
討伐隊の隊長さんを除けば、一番の戦力はリュウのはずだ。ついでに防衛担当のリネ氏と最近痩せてきたセルゲイネス氏も結構強いらしいと聞いている。
他にも戦力自体はゼロじゃないのだから大丈夫だろう、と思いたい、たぶん。
いつものようにリュウを大事に抱え上げ、いつものように早すぎず遅すぎずで持ち上げようとし、いつものように半分ほど引き上げたところでいつもとは違うことが起きた。ビックリした。
物凄い勢いで地表から何者かが飛び出してきて、リュウを背後から捕らえたのだ!
一瞬の出来事で、僕も最初は何が起こったかわからなかった。いきなりビュンと何か黒い物が飛んできて、それが加速状態のときのアリより素早く僕の手にまとわりついてきた。
突拍子もない出来事だったため、叩き落すことも振り払うこともできず、その黒いナニカは僕の手の上に勝手にまといつき、気づいたらリュウを背中から羽交い絞めにしていた。
驚いたとかそういうレベルじゃない。思考が止まった。虫が急に飛びついてくることはよくある話だけど、この異世界の中でそれが起こったのは今回が初めてだ。
自分の手に乗っかってきた黒い影は何かとは言わずもがなだろう。あの指揮官個体だ。
翅を使って飛んできたにしてはものすごいスピードだった。やはり魔法を使って飛んできたのだろう。
二足歩行の翅アリが魔法を使うことは昨日の報告で知っていた。とはいえ、目の前で見せられるとまた違った衝撃がある。アリが魔法を使うとか意味がわからない。
指揮官はリュウを背後にとり、逃げられないように取り押さえていた。僕は慌てる。
リュウが殺されるのではないかと思ったが、すぐにはそうならなかった。その点だけは安心した。
とはいえ見捨てるわけではない。早く助けたかったが、どう助ければいいのかわからない。
指揮官を潰すのは簡単だ。親指を動かせばプチッといける。とはいえ、それをしたら間違いなくリュウを巻き添えにしてしまう。
右手だけでなく左手を出して無理やり引っぺがすことも考えたが、こちらもうまくいかないと潰してしまいそうで怖い。
リュウは遠くて表情は見えないが、抵抗しているようだった。魔法で反撃しようにもできないのは、被害が僕の手にも及ぶことを懸念しているのだろうか。
ちょっとくらい爆発に巻き込まれても大丈夫だから自分の身を守ってくれと伝えたかったが、こちらから伝える方法がない。手詰まりである。
地表に戻してしまえば指揮官はサクラ国の国民に取り囲まれる。いくら強いといっても多数に囲まれれば駆除できるだろうか。
いや、被害が拡大してしまう。上に持ち上げてからゆっくりリュウを引きはがして、平手打ちすれば倒せるんじゃなかろうか。
いや、こっちもなんかダメだ。この指揮官すごく動きが速い。普通のアリだって逃げられたら探すのが大変なんだ。こんな知能を持った昆虫をうっかり逃したら何が起こるかわからない。アリに寝首をかかれるとか勘弁してくれ。
飛行機をハイジャックされた操縦士の気分である。どこにも動かすことができない。どうしたものか、とずっと悩んでいた。
10分ほどだろうか。掌の上でもめているリュウと指揮官。どうすればいいのかわからず手を動かせない僕。
そしてまた何者かが中空で待機している僕の手に飛び乗ってきた。誰か、と思ったら遠めでもわかる見覚えのある馬(角あり)の姿!
スレイプニル!!
我が愛馬(乗ったことはないけど)の姿に思わず声が出た。空を飛ぶ姿にも見覚えがある。何者かがスレイプニルごと僕の掌の上に飛び乗り、リュウと指揮官のもとに突っ込んでいった。驚いた指揮官が思わずリュウを手放した。
リュウを庇うようにスレイプニルと、その上に騎乗していた誰かが降り立った。
……スレイプニルを使ってるのは確か隊長さんだっけ? 武器は違うけど……。
気絶していたと聞いていた隊長さんはいつの間にか復活していたらしい。まさしく姫を助け出す騎士のごとき勇猛さをもって隊長さんが槍を構えている。1匹と2人が指揮官と対峙していた。
さすがに手に馬(角あり)まで乗っかると狭すぎる。左手を降ろし、手で水を汲むかのように彼らの足場を増やしてあげた。持ち上げてるときの手の形より広い空間が空中にできた。
隊長さんが完全武装なせいで、なんとなく自分の両手が闘技場にも見える。
しばらく指揮官と隊長さんが向き合うこと数秒、昨日見た激闘の再現が僕の掌の上で開始された。
なんの合図もなく突撃し、両手の中間で激突する1人と1匹。早くて何をしているのかよくわからなかったが、とにかく戦っている雰囲気だけが伝わってくる。
昨日の見た光景だと、かなり一方的に隊長さんが負けていた気がするが、今回もやられているのだろうか。不安になる。
しかし、今回はリュウが援護射撃に回っていた。接近戦でぎりぎり互角、遠距離戦だとリュウが相手の動きを足止めして接近戦に戻す。
即席のコンビネーションだけれどそれなりに効果があるようで、昨日のようにすぐ負けるわけでなく、戦闘が長続きしていた。
僕は本物のグラディエーター同士の戦いのような戦闘を真上からハラハラしながら見守っていた。
昨日のレアさんの主観視点だと早すぎて何がなんだか全くわからなかったが、どうやら上からの俯瞰視点だと違うようで、彼らがどう立ち回っているか見分けることができた。
細かい攻撃や回避の動きなどはわからないけれど、誰がどこにいてどう動こうとしてるのかがよく見える。そして動きや立ち回りから、なんとなく有利不利がわかった。
指揮官は本当に強いらしい。隊長とリュウの即席コンビも若干押されている。
リュウが僕に遠慮して射角を上に向けて撃っているのがいけないのか、隊長さんが病み上がりだからかわからないが、とにかく2対1であるにもかかわらず指揮官の方が余裕がありそうだった。踊るように間合いを詰めてくる。
僕は上から応援していた。苦しそうに指揮官の攻撃を打ち払う隊長さんの動きに一喜一憂し、隙を見て魔法を放つリュウに「もっと撃ちまくっていいよ!」と空から声をかける。ついでに遠く離れて観戦しているスレイプニルにも戦えと念じていた。
しかし徐々に追い詰められていった。強い。左手に乗っていた指揮官が、右手の上で膝をついた隊長さんにトドメを刺そうと襲い掛かる!
ヒッ!
異世界人が僕の掌の上で殺される、という衝撃のシーンを見たくなくて、僕は思わず目をそらした。全身がビクンと跳ねる。
隊長さんが僕の手の上で死んでる姿を見たくなくて、目をそらすこと数秒。あることに気づいてすぐに視線を戻した。掌の上を見る。
……あれ? 生きてる?
隊長さんが死んだのなら、せめてリュウだけでも逃さなきゃ、と考えて逃そうと思ったのだが、意外と隊長さんは生きていた。指揮官と再び戦っている。
あれ、なんでだ? と疑問に思ったところ、答えはすぐにわかった。自分の両手の位置が先ほどとは少しズレていた。
……ああ、足場が動いたから助かったのか。
考えてみれば当然の話だった。彼らが戦っている場所は僕の掌の上で、僕は隊長さんやリュウの味方であり、指揮官には負けてほしいと思っている。そして上から見れば、彼らの動きがなんとなく読める。
だったらやることは一つだった。
隊長さんを全力で援護する。あるときは手を動かして足場を揺らし、あるときは指を曲げて指揮官を直接攻撃する。
隊長さんが接近戦で不利そうになったら、手を放して強制的に距離をあけてリュウの遠距離攻撃に任せる。指揮官だけが片手に乗っていた場合、そのまま握り潰そうと手を握って追い詰めた。
2対1で負けそうだったら、僕も加えて3対1だ!!
何度も不利になりそうになるが、僕の援護がそれなりに功を奏して、指揮官を追い詰めることができた。3発ほど、槍が指揮官の体に刺さったのを見た。
余談だが、2回ほど僕の手にも槍が刺さって痛い思いをしたのは忘れない。だけど、リュウを守ってくれてるので文句は言えない。
左手の中指先端にまで追い詰められた指揮官。油断なく距離を詰める隊長さん。
指揮官は槍にさされた肩を押さえながら、何かを大仰に腕を振ると、残った3枚の翅で僕の手から飛び降りて飛んで逃げて行った。
……勝った、のか?
逃げた指揮官を追いかけるべきか迷ったが、左手に隊長さん、右手にリュウとスレイプニルがいるため、動かすに動かせない。
仕方ないので彼らが指揮官を撃退しただけで満足し、僕は手を上に持ち上げた。
詳しい話を聞きたいと思う。




