5月12日(土) SD4年:外来生物
一日中冷や汗が止まらなかったのは言うまでもない。
クロオオアリの特徴は誰よりよく知っている。だからこそ異世界人にとって致命的だということもよくわかった。
まず生物としての強さ。体が大きく力が強く、そして何より過酷な環境でも生き延びる頑強さが売りだ。日本に限らず地球上どの地域でも大量に見かけることができるのは、そういう理由のためである。
彼らを捕食する動物や、彼らにも倒せない昆虫もいるにはいるが、クロオオアリ以上にしぶとく生き残る生物はそうそういない。
そして何より、その繁殖力が脅威である。クロオオアリの女王は、なんとその生涯で10万個近くも卵を産むことができる。
とはいえ、それは環境次第でもある。働きアリがまだ少ない時期や、餌が少なかったりすると一度に産む卵の量を減らし、逆に栄養満点の土地に大所帯のコロニーができていると、日に10個の卵を産み、それを毎日続けることもある。
一般的に、1年のうちに産む個体数は1000匹が限度と言われているが、実際はよくわかっていない。人間の観察下だとストレスのせいか個体数は思うように増えない場合が多いからだ。
だからこそこの巨大なガラスケースで、自然に限りなく近い状態で観察しようと思ったのだが、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。僕は後悔した。
……確かに別の世界に繋がるなんてファンタジーが起こるとは想像だにしてなかったけど、これじゃあどう見ても僕が危険生物を送り込んだ張本人じゃないか!
観察日記の過去ログを見直す。この異世界に繋がってから26年経過。
至極単純に計算して、年1,000匹×26年=26,000匹。途中で駆除されたものや栄養不足で共食いされた個体もいるだろうが、それでも20,000匹以上のクロオオアリがいて、今もなお増え続けている可能性があった。僕はこの絶望的な数字を見て、己がしでかしたコトの重大さがヒシヒシと伝わってきた。
……だってたった2匹侵入してきただけであんな大騒ぎだったんでしょう? その1万倍がまだいるって何それ怖い。
異世界の広さが正確にはわからないため、その2万匹の黒い魔物改めクロオオアリがどういう頒布をしているのかが不明である。
もしや魔物が最近騒がしいみたいなことを言っていたのは、僕の常用光から逃げ出した魔物だけでなく、このクロオオアリの巣窟から逃げてきた魔物がいるのかもしれない。いや、そうとしか思えない。
ただ、昨日の段階では動揺してしまったため、ろくなアドバイスができなかった。
とりあえず「1匹でも見かけたら確実に殺すこと。絶対に逃さないこと。特に餌を持ったアリを見かけたら必ず駆除すること」と教えておいた。
アリは餌場を覚える。が、同時に危険地域も覚える。餌を探して遠出するアリをきちんと駆除し続ければ、そこら辺には近づかなくなるはずだ、たぶん。
というわけで午前中はどうせ異世界に干渉できない。なので学校へ行っている間、ずっとクロオオアリの適切な駆除方法を考えていた。
プランA・殺虫剤。
異世界人を巻き込んで中毒症状を起こしてしまう。絶対ダメ。
プランB・毒餌。
巣穴の近くに撒くのなら中にいる女王アリごと駆除できる効果的な処置だが、巣穴の近くでない場合逆に餌場として認識されてしまうかも。要考慮。
プランC・地上だけでなく地下にも壁を設置する。
巣穴は最大で2m近く深く掘られるためそこまで壁なんて作れない。無意味。
プランD・女王アリの捕殺。
女王アリさえ捕まえればそれ以上増えなくなるが、新しい女王アリが複数生まれて被害が拡大する可能性もある。状況次第では検討。
プランE・アリの外敵の投入。
カエルやトカゲ、ウスバカゲロウの幼虫や別コロニーのアリを投入すれば確実に数を減らせるが、異世界人への被害が超拡大する。絶対ダメ。
ろくな手段が思いつかない。基本的に、アリの生態を利用してその活動を停止させるのがアリ駆除の方法である。
が、そこにアリの近くに殺してはいけない生物がいるという前提が加わると、僕の知識では対応方法に限界があった。最高の対処方法なんてあるわけない。
まさかようやく形が整ってきたサクラ国が蹂躙され、瓦礫と廃屋の荒野と化していたらどうしよう。そう考えるといてもたってもいられなかった。
無事でありますようにと祈りながら帰宅時速攻でガラスケースに飛びついた。中を見る。
思っていた以上に平和な光景が広がっていたことと、昨日より確実に人が増えていたこと、そして何より国外を覆う壁が分厚くなっていることが一目でわかった。防衛担当リネさん超グッジョブと内心で大絶賛しておく。
ついでにガラスケースの周囲を確認した。ガラス越しに地中の様子を観察する。アリの巣が近く似合った場合、働きアリが遠征用に巣を伸ばすことがあるからだ。
アリの巣コロニーができたらやろうと思ってたことだが、まさかこんな形でアリの巣を探すことになるとは思っていなかった。幸いにしてアリの巣らしき跡は一つも見当たらなかった。長年の観察によるアリの巣判別が初めて役立った瞬間である。
今日のゲストはまた例の三人衆だった。セルゲイネス氏には充電中のスマートフォンを貸して放置し、残りの二人と向き合う。
もちろん本日のお題は、クロオオアリ対策会議である。
「人神様はこの黒い魔物がとても危険な生き物だとおっしゃるわけですね」
はい、たぶんその通りです……。
実は僕のせいで異世界に悪影響を与えていますとは言えず、言葉を濁しながら肯定する。アリは同サイズの生物に対して凶悪すぎる。
アリが人間と同じサイズだったら、2tトラックを1匹で持ち上げることができるという。言ってしまえば暴走トラックが2万台ほど暴れている状況と言えよう。
具体的にクロオオアリの脅威を説明するにつけて、ゲスト2名とリュウの顔色が曇っていった。
「ひ、人神様はこの黒い魔物についてどうすれば対策できるのかわかるのですか?」
リュウが怯えて質問してくる。僕は先ほど作った対策メモを見せながら、うーんと唸った。
対策方法自体は山ほどある。でも、どれも異世界人たちに悪影響を与えてしまいかねない。だから対策手段が選べない。
そう説明すると、財政担当オダカ氏が話に割り込んできた。
「であれば、人神様の支援をより多く頂くことはできないでしょうか? そうすれば対策手段も増えましょう」
曰く、マシュマロや塩の需要が年々増え、最初のうちは余るほどだったが、今では足りなくなってきているほどだという。
おかげで価格が高騰し、その分儲けが出るようになったが、やはり年に1度にしかもらえないとなると流通や保存の関係で難しいそうだ。
サクラ国は神のご加護ということで全体的に商売繁盛なのだが、やはりマシュマロと塩の利益は莫大だ。だからこそそれを増やすことで、国防予算を賄いたいという。
スレイプニルの餌の減り方が尋常ではないので、たくさん貢物をもらっている代わりにできればマシュマロの供給量を増やしてあげたい気持ちもあった。
しかし僕はこれに即座に同意できなかった。理由を説明する。
でも、マシュマロ……もといマシューってアリの好物だからなぁ……こっちに寄って来ちゃいそう。
「うっ、そ、そうなのですか……」
オダカ氏は黒い魔物が大量に押し寄せてくる僕のイメージに怯みつつ、「しかし、マシューさえたくさんあれば予算が多くなるのですが……」と名残り惜しそうにしていた。だが僕はこの段階ではまだ許可できなかった。
マシュマロの量を増やすくらいならホウ酸と砂糖で作った毒餌でも撒いた方がいいはずだ。しかしその毒餌もアリをおびき寄せる結果になりかねないから却下した。
巣の近くに撒くならまだしも、わざわざ餌場……異世界人サイズでいうと戦場……をこっちで用意してやる必要はない。
とにかくアリの情報が足りない、一通り話してみた結果がそれだった。情報を集めるところから始めないとダメだろう、と。
そういうと、リネ氏とリュウが知っている範囲の情報を次々と提示してくれた。
「巣を見た人がいるという話は聞いたことありませんが、ティムゾン大陸のここから北東側、ユーレリア王国の近くの山向こうに出現するという話を聞いています。おそらくそこら辺に巣があるのでしょう」
同時に大陸の大雑把な地図を脳内イメージで見せてくれた。カーナビのマップを雑に表示した感じの絵で、巣のところが見やすくバツ印がついている。
なるほど、山に囲まれた盆地に巣ができたのか。山の大きさが不明だけど、それに阻まれてあまり被害が広がってないんだろなぁ。
「黒い魔物はどんな生物も食べるようですが、特に人間の馬車は狙われる率が高いように思えます。理由は不明ですが、我が国のマシューを乗せた馬車が襲われてから数が増えています。味を覚えたのでしょうか」
僕はアチャーと昭和の漫才師みたいなことを声に出した。アリは餌場を覚える。
糖分が必ずしもアリの好物ということはないが、マシュマロやチョコレートはアリが最も好む餌の一つだ。そのマシュマロを食べたアリは、当然そこに群れなして襲い掛かってくる。大惨事を予想した。
おかげで街道が変更され、サクラ国とユーレリア王国との行き来には大きく迂回路を取るようになったらしい。それで間に合うのならいいけれど、危険には変わりない。
「また、最近討伐隊ができたという噂話を聞きました。彼らなら黒い魔物の討伐は得意なのではないでしょうか」
僕はそれを聞いて感心した。さすが現地の人間だと思ったからだ。
魔法が使えるという前提こそあるものの、自分たちの手で自分たちの身を守ろうとするのは人として素晴らしいことだと思う。原因を作ってしまった僕が言うのもなんだけど、異世界人たちの手を借りる、という選択肢に気づいたのはこの情報が最初だったと思う。
「あと……申し上げにくいのですが、人神様のおっしゃるほど黒い魔物の目撃証言はありません。確かに数は多いのですが、そんな万を超すほどいるという話は聞きません……。知っている話で最も多くて30頭近くの黒い魔物が村を壊滅させた、という話くらいでしょうか」
壊滅されてしまった村に申し訳ないと思いつつ、おや、と少し疑問を抱いた。
アリはきちんと役割分担をこなす昆虫だ。そのアリが集団で攻撃を開始したなら、100匹200匹のアリが巣と餌場を移動するのがザラである。
なのにその数が30匹程度。あまり多くないように思えた。餌場が遠かったのか目撃者の証言が間違っているのかわからないが、もし正しい情報だとしたら、アリの個体数はそんなに多くないのかもしれない。
ここら辺までは普通に想像できる話だった。ただ、ここから話が突飛な方向へ変わっていった。
「また、知能を備えた黒い魔物は魔法も使うようです。あまり強くないそうですが……それでも厄介だと思いました」
魔法を使うアリというパワーワードに度肝を抜かされたのは僕だけじゃないはず。どういうこっちゃ、と僕は顔をひきつらせた。
確かに、異世界人たちは魔法を使うのだが、この30年弱でアリも魔法を使うように進化したのだろうか。いやいやそれはいくら何でもありえないだろう、と思いたい。
話はこれで終わらなかった。
「あと、黒い魔物には指揮官がいるそうです。二本足で立ち、空を飛び、武器も使うと聞いてます」
何言ってんだこいつ、とリネ氏を怪訝な目で見たのは当然のことだった。意味が分からない。
アリの足はかなり頑丈で、自重の100倍の重さの荷物を持っても折れることはない。しかし、あの形状で二本足で立つわけがない。どう考えてもお腹がつかえるだろう。
二本足で立てるアリなんて、権利関係に煩い某巨大企業のアニメか、執筆の遅い超大物マンガ家のマンガくらいでしかお目にかかれない。そんなアニメをリュウに見せたことあったっけ、と疑問に思ったくらいだった。
「あと、これは完全に噂なのですけれど……黒い魔物の中で最も巨大な個体がいるそうです。地上に現れた姿を見た、という人の話を聞いたことがあります。その人は、その、あまりの恐怖で気がふれてしまったのですが……」
いわく、アリの巣があると思しき場所の近くの村の元住人が、そのあまりの恐怖に怯えてまだ街だったサクラ街にまで逃げてきたことがあるそうな。
エルバードさんと初代リュウがその人のカウンセリングをしたところ、巨大な黒い魔物が家畜を頭からむさぼり食っていたという話を聞いたことがあるそうだ。今のリュウがまだ生まれてなかったときの話である。
それってもしかして女王アリのことか? と僕は疑問に思ったが、確信は持てなかった。
女王アリは基本的に一度巣を作ったらそこから出てこない。それに女王アリが食べる食事は基本的に働きアリが消化した消化物で、餌を直接食べるということはしないはずだ。
本当にこれはクロオオアリの話なのか、と僕はここら辺で首を傾げだした。当然の反応だと思う。
あとは完全に根も葉もない噂話や確証のない話ばかりだったので、省略する。とにかく、クロオオアリ(仮定)に関する情報が少ないのが問題だった。
せめて巣の場所と頒布範囲をもう少し詳しく、可能なら個体数も把握してほしいという話で落ち着いた。
そしてもし可能なら、討伐隊とかいう人たちとも交渉できないか、と伝えておいた。三人はそれぞれの表情で頷いてくれる。
また、僕の方でも地中からの侵入がないか定期的に確認することを告げておいた。監視カメラをつけて日中も把握することも。
「わかりました。しばらく防衛を固める方向で話を進めましょう」
「予算が潤沢であれば討伐隊との交渉も有利になるでしょうし、もっと選択肢が増えるのですが……仕方ないですね」
真剣な顔のリネ氏と不満そうな顔のオダカ氏、そして最後にまじめな顔をしたリュウが挨拶をした。
「人神様、今日もご相談に乗ってくれてありがとうございました」
リュウも気を付けてね。なんか変な感じだけど、アリは危険だから、十分注意してね。
「ありがとうございます。人神様のお手を煩わせて申し訳ありません。スレイプニルにもよろしくです」
アハハ、あいつ最近めっちゃ食べるから困ったもんだよ。馬ってあんなに食欲旺盛なんだね、そのくせ全然太らないし。
「全然太らない……羨ましいですね」
リュウが自分を見下ろして答えた。別に太ってるわけではなく、すらっとしているようにみえるが、お年頃なのだろうか。
リュウたち3人に別れを告げ、この日は解散した。明日のことを考える。
明日は半日で終わるから、ホームセンターに行って何か良い道具がないか探してみよう。異世界向けの道具はないだろうけど、僕の方から対策できる手段を増やしておいて損はないはずだからだ。
その後、ずっとスマートフォンの上で日本語アプリで勉強していたセルゲイネス氏のことを思い出して、拾って異世界に返した。
スマートフォンを手に取ろうと思ったら、何か小さいモノが右往左往していてものすごくビックリした。存在を忘れていた。
セルゲイネス氏いわく「漢字はまだ難しいですが、ヒラガナはなんとかできるようになりましたぞ!」と自慢げに胸を張っていた。異世界人の学習能力は高そうだ。




