第6話 こんなボーイミーツガールがあってたまるか。
ホテル『ニュー・オリオン』、805号室。
その静寂は、男の悲痛な叫びによって切り裂かれていた。
「いいかタナトス。絶対に、絶対に傷つけるなよ。ミクロン単位の操作だ。震えたら俺の人生が終わると思え」
『……私は死を司る神なのだが。なぜ綿棒のような扱いを受けているのか、甚だ疑問だ』
ベッドの上。
アルバスは、手垢と血で汚れた旧型機『パンドラ2』を、まるで爆発物処理班のような慎重さで押さえていた。
その充電ポートに、死霊神タナトスの持つ巨大な鎌の「切っ先」が差し込まれている。
「うるさい! お前のその『物質透過』と『切断』のスキルしか頼れないんだ! ポート内部の固着した血と汚れだけを削り取れ! 端子には触れるなよ!」
『注文の多い主だ……。えい』
カチッ。
死神が適当に(見える手つきで)鎌を動かすと、ポートの奥から黒い塊がポロリとこぼれ落ちた。
「……!」
アルバスは震える手で、新品の充電ケーブルを差し込む。
カチリ、という確かな感触。
数秒の沈黙の後、画面の電池アイコンに雷マークが灯った。
「きたああああああああああああッ!」
『やれやれ。これで私の召喚コストが消費されるとは』
だが、歓喜は一瞬だった。
……で、パンドラ2の充電だが、もう、2パーセントだったのが、3……4……と増えている。
減るのも早いが、増えるのも早い。
限界まで酷使した電子機器特有のアレである。
アルバスは脂汗を流しながら、もう一台のゲーム機――最新鋭の『パンドラ4』を横に並べる。
「ここからが本番だ。……今のパンドラ2のバッテリーは完全に死んでいる。充電器を抜けば、ものの数分で電源が落ちる」
『ふむ』
「だが、データ移行には専用ケーブルが必要だ。つまり、充電器を抜いて、ケーブルを挿し変え、バッテリーが尽きる前にデータを移し切らなきゃならない」
まさに、デスゲーム。
……というと、多分いろんな方面から怒られそうではあるが、あくまでもアルバスにとってはデスゲームである。
三十分ほど経過し、あっという間に100パーになる充電。
「……増えるの早いな。だが、データの移行だ。おそらくかなり電力を使う。本当に間に合わない可能性は、十分にある。この100%は参考にならない」
『……あっそ』
致命的なほど温度差があるアルバスとタナトスだが、アルバスの方は真剣だ。
アルバスは深呼吸をし、意を決して充電ケーブルを引き抜く。
即座に転送ケーブルを接続し、パンドラ4の「移行開始」ボタンを連打する。
『通信確立……データ転送を開始します』
モニターに表示されたプログレスバー。
だが、その進捗は亀のように遅い。
「遅い! 遅いぞ! カップラーメン出来そうだ! ……思えば腹減ってきたな」
『地下牢でまともなものを食べていないし、そこから出てきて、一度も何も食べてないからな』
パンドラ2の画面では、バッテリー残量がエゲツナイ速度で減っていく。
「頼む……もってくれ……俺のセーブデータ……!」
アルバスは二台のゲーム機を抱え込むようにして、ケーブルの接合部を指でガッチリと固定した。
接触不良などというふざけた理由で失敗するわけにはいかない。
その時だった。
ドカンッ!
電子ロックの解錠音と共に、部屋のドアが乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、黒いスーツの女。その手には魔導拳銃が握られている。
「動くな! 迷宮省特務課だ!」
真夜は銃口を突きつけ、室内を見渡した。
そして凍りつく。
ベッドの上、脂汗を流した男が、複数の機器をケーブルで繋ぎ、何かのカウンターが進む画面を凝視している。
男の手は、ケーブルの接合部(起爆スイッチ)を死守するように固まっている。
(カウントダウン!? やっぱり爆弾テロか!)
見た目は明らかにゲーム機だ。
しかし、組織的な犯行の場合、ゲーム機に偽装することなど容易いだろう。
真夜が集めた情報の中で、アルバスの動きは怪しすぎる。
そして、『ゲーム機と召喚システムが連動している』とは夢にも思わないので、目の前のゲーム機も何らかの作戦に使われていると思っているのだ。
(黒蛇興行の事務所を襲撃したのは、『ゲーム機の箱に偽装した、何らかの作戦のアイテムを回収するため』よ。間違いない!)
特務課としての経験だろうか。
特殊任務のための高度な偽装だと思っているようだが、理屈は通っている。
「そのスイッチから手を離しなさい! ゆっくりと手を挙げて――」
「動くなあああああああああッ!」
男が、真夜の声を遮って絶叫した。
その目は血走り、この世の終わりを見たかのような必死さを湛えている。
「空気を揺らすな! 接触が悪くなるだろ! Wi-Fiも不安定なんだよ!」
「は……?」
「あと少しなんだ! 今手を離したら、全部消えてなくなるんだよ!」
(手を離したら爆発する……デッドマン・スイッチ!?)
真夜は引き金に指をかけたまま、動けなくなった。
男の気迫が、尋常ではない。
これは「脅し」ではない。本気で「全てを失う(吹っ飛ばす)」覚悟のある目だ。
室内を支配する、重苦しい沈黙。
聞こえるのは、男の荒い呼吸と、どこからともなく聞こえる「……人間とは忙しないな」という幻聴のような呟きだけ。
タナトスはアルバスの影の中でワインを飲んでいるわけだが、呑気すぎである。
パンドラ2の画面が、1%を表示する。
プログレスバーが、99%に達する。
ピロン。
『転送が完了しました』
プツン。
直後、パンドラ2の画面が暗転した。
完全な沈黙。
「…………勝った……」
男はガクリと項垂れ、魂が抜けたようにベッドに突っ伏した。
真夜は恐る恐る、銃口を向けたまま問う。
「……な、何が終わったの?」
「……セーブデータだ。俺の三年間の……いや、人生の全てだ」
男はよろりと身を起こし、新しい『パンドラ4』を愛おしそうに撫でた。
爆発は起きなかった。
真夜は状況が飲み込めず、だが相手が戦意を喪失している今が好機と判断し、再び銃を突きつける。
「……確保するわ。私は迷宮省特務課、犬飼真夜。あなたを重要参考人として――」
「迷宮省、特務課?」
男の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、真夜を見る。
先ほどまでの「余裕のない狂人」の顔ではない。
値踏みするような、冷たく、理性的な瞳。
「おい。あんたらの課、確か『裏口』を持ってたな」
「……は?」
「とぼけるな。帰化申請の特別決裁権だ。特殊な事情を持つ人や、訳ありの亡命者の戸籍をロンダリング。しかも、上司に報告する必要もなく、アンタ個人がその権限を持ってるはず」
真夜の背筋が凍った。
特務課の持つ「超法規的措置権」。
確かに存在するが、それは省内でも一部の上層部と、裏社会のトップ層……それも『名家』しか知らない極秘事項だ。
なぜ、こんな外国人風の男がそれを知っている?
「な、なぜそれを……あなた、何者なの?」
「何者でもいい。取引だ」
男――アルバスは、ベッドの上であぐらをかき、ふてぶてしく言い放った。
それは、3年間地下牢に閉じ込められていたがゆえの、社会性の欠如。
あるいは、元来彼の中に眠っていた「火ノ崎の血」がさせる傲慢さか。
「俺に日本国籍を用意しろ。名前は……そうだな、アルバスでいい。三日以内だ」
「はあ!? 立場分かってるの!? あなたは今、銃を突きつけられてるのよ!?」
「分かってるよ。だが、あんたも俺が必要だろ?」
アルバスは、ちらりと背後の闇に視線をやった。
そこには、いつの間にか実体化した死霊神タナトスが、悠然とワイングラスを揺らしている。
「俺を逮捕すれば、コイツが暴れ出すかもしれんぞ。……それに」
アルバスはニヤリと笑った。
それは、相手の弱点を見抜いたゲーマーの顔だった。
「特務課って、人手不足なんだろ? 俺の戸籍を用意してくれたら、多少は手伝ってやるよ。……俺のゲームの邪魔にならない範囲でな」
真夜は言葉を失った。
この男、異常だ。
銃口を向けられながら、国家機密を口にし、あまつさえ取引を持ちかけてくる。
だが、その提案は――彼女が求めていた「腐った組織を砕くハンマー」を手に入れる、唯一のチャンスでもあった。




