第5話 迷宮省特務課、犬飼真夜による現場検証
赤と青のパトランプが、深夜の雑居ビルを毒々しく照らしていた。
規制線の外には野次馬が集まり、中では鑑識と警官たちが慌ただしく走り回っている。
「……酷いな。爆発でもあったのか?」
「いえ、火薬の痕跡はゼロです。なのに、壁は粉砕され、鉄の扉はねじ曲がっている。まるで巨人のハンマーで叩き潰されたような……」
困惑する現場指揮官の横をすり抜け、一人の女性が規制線を潜った。
黒のパンツスーツに、鋭い目つき。腰には特殊警棒ではなく、迷宮省支給の『魔導拳銃』を携えている。
迷宮省特務課、犬飼真夜。
かつては探索者だったが、今は『迷宮省特務課』に所属する……『掃きだめの住人』だ。
「……どいて。素人が踏み荒らしていい現場じゃないわ」
真夜は警官たちを押しのけ、壊滅した『黒蛇興業』の事務所に足を踏み入れた。
「ッ……!」
そこで彼女が見たものは、あまりに静謐な暴力の跡だった。
被害者である半グレたちは、全員、意識を失っているが、不思議と出血が少ない。
鋭利な刃物を使わず、純粋な衝撃だけで制圧した証拠だ。
真夜はしゃがみ込み、床に転がっている「奇妙なもの」を拾い上げた。
それは、拳銃の弾丸だ。
だが、発射された痕跡があるのに、先端が一切潰れていない。まるで空中でエネルギーだけを吸い取られ、ポトリと落ちたかのように。
(物理法則を無視した防御。……いいえ、これは防御じゃない。『拒絶』かも)
さらに不可解なのはテーブルの上だ。
血に濡れた封筒ではなく、綺麗に揃えられた七枚の一万円札が置かれている。
(……現金? 奪うのではなく、置いていった?)
となると、ゲーム機は一台、『彼らが家電量販店から買い取ったもの』よりも少なくなっている可能性はある。
いずれにせよ、襲撃者は、ゲーム機が目的だった。
これは間違いない。
つまり犯人は、強盗に来たわけでも、正義の鉄槌を下しに来たわけでもない。
ただ、「買い物」に来たのだ。
店員の態度が悪かったから店ごと吹き飛ばして、レジに金を置いていった客。そんな理不尽がまかり通るだろうか。
「おい、そこな特務課。勝手な真似をするな」
背後から冷ややかな声がかかる。
振り返ると、仕立ての良いスーツを着た男たちが立っていた。迷宮省・管理課のエリート官僚だ。
「この件は『ガス爆発』として処理が決まった。お前たちの出る幕はない」
「……ガス爆発? 現場を見れば分かる、そんなわけがないと――」
「黒蛇興行は『御剣家』の裏の末端だ。かき回されると面倒なんだよ」
男は嘲るように鼻を鳴らした。その胸元には、迷宮省の銀色のバッジが光っている。
かつては市民を守るための「盾」だったはずの徽章。
だが今、その盾は、組織のメンツと癒着を守るための「蓋」に成り下がっていた。
「正義だの悪だの、そんな古い価値観で組織を乱すから、君たちは掃き溜めなんだよ。……証拠品を置いて、さっさと失せろ」
真夜は奥歯を噛み締め、ポケットの中で、古びた旧式のエンブレムを強く握りしめた。
(……分かっている。今の私が握っているのは、もう誰も守れない、錆びついた信念だけ)
だから、彼らの掲げる腐った盾に、傷一つつけられない。
「……了解しました」
彼女は頭を下げたフリをして、掌の中に隠した「潰れていない弾丸」を、ポケットの奥へ押し込んだ。
(なら、借りるしかない。この理不尽な構造ごと叩き壊せる、規格外の『ハンマー』を)
真夜は現場を後にし、独自に足取りを追った。
犯人の行動は、隠蔽工作など一切考えていないかのように、あまりに堂々としていた。
いや、堂々としていると言うより……。
目撃証言A(近隣のコンビニ店員)。
『なんか、箱抱えて叫んでましたよ。「2パーセント! 2パーセントしかねえ! 死ぬ! 死んでしまう!」って』
(……2パーセント? とにかく余裕がないのは間違いない)
目撃証言B(通りすがりのカップル)。
『変な人でした……。大事そうに段ボール抱えてたんですけど、走りながら箱を開けようとしてて……』
『「硬い! なんだこのテープ! 爪が、俺の爪が!」ってブチ切れてました』
(……走りながら開封? どうして?)
真夜は眉をひそめた。
ここが分からない。
組織を壊滅させるほどの実力者が、なぜ安全な場所まで移動してから開けないのか。
走りながら箱と格闘するなんて、まるで「一秒でも早く中身を確認しないと死ぬ子供」のような……。
目撃証言C(シティホテル『ニュー・オリオン』フロント)。
『すごい勢いで入ってきて、「部屋をくれ! ネットが速くて有線LANが繋がる部屋だ! 今すぐにだ!」って』
(……ネット回線への執着)
情報を繋ぎ合わせると、浮かび上がってくる人物像があまりに歪だ。
というか、変。
圧倒的な戦闘力を持ち、独自のルールで対価を支払う律儀さを持ちながら。
まるで何かに追い立てられるように走り回り、走りながら箱を開けようとし、ネット環境を求めてホテルに飛び込む。
テロリストにしては計画性がない。
強盗にしては金払いがいい。
狂人にしては、目的が「ゲーム機」と「ネット」に絞られすぎている。
「……強い。でも、明らかに変だわ」
真夜はシティホテル『ニュー・オリオン』を見上げ、魔導拳銃の安全装置を外した。
相手は、単身で組織を壊滅させた「強い変人」。
交渉が通じる相手なのか、それとも触れた瞬間に爆発する地雷なのか。
それでも、行かなければならない。
彼女の中にある折れかけた刃が、この不可解な「強者」に賭けてみたいと叫んでいた。
「待っていなさい。……『名もなき執行者』」
真夜は決死の覚悟でロビーを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
8階、805号室。
彼女は、その扉の前で深く息を吸い込む。
彼女はまだ知らない。
その怪物が今、部屋の中で段ボールとの格闘を終え、「システムアップデートの残り時間が『計算中』から動かない」という、世界平和よりも重大な問題に直面してベッドの上でのたうち回っていることを。
これからも知らない方が良かったかもしれないが。
そもそも論、浮かび上がってくる人物像が明らかに変人だというのに、『それでも頼ろう』と思っている時点で。
彼女自身が変人なのか、それとも変人に慣れているのか、そのどちらかだろう。




