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過去の香

年寄格大谷家の跡取り和成が殿の御召を聞いたのは、城の書庫の中だった。

他の者達と同じくまだ家督も継がず役職の無い和成は、登城するといつも書庫に居るのが常である。

「殿が各家の跡取りを?」

和成は訊ねると手にしていた書物を丁寧に閉じ、知らせてきた武石総吾に向き直った。

「うん。そうなんだって。だから俺も明日いつもの朝の詮議の時間に参上するようにって父上が。」

まつげの長い大きな目をくりくりとさせながら総吾は答えた。

「だから、和成殿もお呼びがかかると思うよ。」

「さあどうかな。私は大谷の家を継ぐとはいえ、分家からの養子だから。」

「そんなことは関係ないんじゃないかなあ。元服以上の跡取りを集めるようにって殿の仰せらしいし。」

そう言いながら梯子に腰掛けた総吾には答えず、ゆっくりと書物を棚に戻しながら和成は柔和な微笑を浮かべていた。


大谷和成おおたにかずなり。年寄格大谷家の養子として生まれてすぐ分家より迎えられた。

現当主が男子に恵まれ無かったため養子となり跡を取ることになっている。他の者と同じく学問所に通っており、望月家の将希とは同じ歳にあたる。3歳年下の総吾には兄のように懐かれていて、自身にも本家に入って後は兄弟が居なかったせいもあって可愛がっているので、今回の様に何かあると総吾が報告に来るという訳だ。


「ところで、跡取りたちを集めて殿は何をなさろうというのかな」

再び総吾に向き直ると和成が尋ねた。

「わかんない。父上たちにも知らされて無いみたいなんだよね。だからさあ・・・。」

どうやら総吾は明日の集まりを和成にただ報告に来ただけではなかったようだ。

「父上なんかきっと剣術大会でも行うのではないかなんて言っちゃって、今から剣術の練習をする!なんて言うもんだから」

「・・・ほう。」

「俺、あわてて逃げ出してきちゃった。」

・・・逃げ出したのか。

思わず噴出した和成を総吾は横目で睨みつけながら。

「笑わないでよお。だって父上ったら将希殿に指南をお願いしようとか言うんだよ?将希殿のしごきすげえんだから。明日の集まりの前に俺死んじゃうよ。」

「死にはしないだろう。」

「和にいは将希殿の特訓受けてないからそんなことが言えるんだよ。この間の武道場での団体戦の練習試合、俺んとこの大将が将希殿でさ。あの人練習試合でも負けるの嫌いだから俺たちすっげえしごかれたんだから。」

この場に居るのが二人だけという気安さからか、昔の呼び名で和成を呼んでしまう総吾に、和成はふと暖かいものを覚えた。

「大体さ、うちの武石家は代々賄い方なんだから武道は得意じゃないんだよ。算術が出来ればいいじゃないか」

賄い方は藩の財形を取り仕切る役職である。武石家は代々その役職をついで来た家柄だ。

ふと、和成は気になることを思い出し総吾に訊ねた。

「・・・総吾。算術得意だっけ?」

「えーと。たぶん得意じゃないけど。」

「それ・・・どっちにしろだめじゃないのか。」

「・・・かも。」

どちらからとも無く和成と総吾は噴出して笑ってしまう。

ひとしきり笑うと総吾は急に真面目な顔になり言った。

「・・・明日算術大会だったらどうしよう。」


珍しく夕刻日のあるうちに屋敷へ戻った雅貴は、ざわついた空気を感じた。

・・・まあ。私にかかわりのある事ではあるまいよ。

離れにある自室に戻ろうと庭から座敷を通り過ぎようとした所で、懐かしい聞き覚えのある声に呼び止められる。

「雅貴殿っ。」

声に振り向くと姉の志乃が開け放った障子の向こうに居た。

「姉上?なぜお戻りなのです?」

志乃は10年前に19の歳で隣国の家老の子息の嫁にと望まれ嫁いでいた。里へ戻ったのはその後1,2度しかない。

「私が里帰りするというのも知らぬほど家を空けておいでなのですね。」

それを聞き雅貴は困ったように笑う。

「母上がそなたを心配してお体を壊されるのではないかと様子を見に参りましたの。」

「ほう・・・それはわざわざご足労でございますな。」

「他人事のように仰いまする。」

志乃はあきれた様子でふうっと小さくため息をつくと、雅貴を見やって少し睨みつけた。

「ほんに戻って参ってよかったこと。相変わらずふらふらとされているご様子。」

すっかり武家の妻として凛々しくなった志乃に、雅貴はいつもの口許だけの微笑を湛えて。

「姉上も相変わらずきついことを仰せになる。お優しい義兄上にとうとうお暇を出されたかと心配いたしましたが、無用にございましたかな。」

「し、失礼な。お暇など出されてはおりませぬ。」

「それならばようございました。」

艶やかに雅貴が笑うと、志乃はほほを赤らめむきになって言った。

「ほ、本当ですからっ。」

雅貴は姉をからかうのが楽しくなって、更に続ける。

「元々じゃじゃ馬な姉上を、有難い事にもらって下さった貴重なお方なのですから。義兄上を大切になさってくださいな。」

「じゃじゃ馬ですって?」

思わず立ち上がった志乃は縁側までやってきて雅貴の正面に立った。ふわりと香の香りがたち、その香りに雅貴の微笑が消える。・・・それも一瞬のみでまたふわりと微笑を浮かべて。

「でございましたでしょう?私も何度も姉上には泣かされましたぞ?」

「泣かせたなどと人聞きの悪いっ」

「馬の役をやれだの、裏山の洞穴に探検に連れて行けだの・・・」

「そ、それはまだ小さいときの話ではないですかっ!」

志乃が怒りと恥ずかしさから赤くなっていくのを見て、雅貴は朗らかに笑い声を上げた。

「それにそなたに心配してもらわずとも、ちゃんと旦那様は大切にしております。」

・・・余計なことを言った。聞きたくないことを聞いちまった。

そんな気持ちが雅貴の心に浮かんだが、露ほども表には現さず。

「・・・であれば何より。早々に愛しい旦那様のところに戻られればいかがです?」

志乃から視線をはずし、口許に笑みを貼り付けままで雅貴は言う。

・・・自虐的な言葉を。

「そなたがいつまでも妻も娶らず落ち着いてくださらないから、母上は心を痛めておいでです。そのような所は父上に似ずとも良いのに。」

・・・手厳しいことをおっしゃる。

父の阿南貴純も若いころは数々の浮名を流していた。現に姉の志乃と雅貴は母が違う。志乃の母は志乃を産むと病気のため亡くなったが、その後すぐには雅貴の母を後妻として迎えている。

「血のつながらぬとはいえ、私を娘として育ててくださった母上を悲しませるようなことをなされば、私が許しませんよ」

縁側に膝を付き、庭に立つ雅貴を覗き込むように志乃は見つめた。その志乃に雅貴は視線をあわすことも出来ず。

・・・今日は屋敷で休もうかと思っていたが、また出かけることになりそうだ。

そう思いながら、雅貴はわざとおどけた風に言った。

「・・・相変わらず姉上は怖い。」

「雅貴殿っ。」

「私も母上を悲しませるのは本意ではございませんよ。・・・気が向いたら考えましょう。」

やっと志乃のほうを見つめて雅貴は答えた。しかし、その視線は志乃を見ているのか居ないのか表情も浮かべては居なかった。

「雅貴」

それでも志乃は雅貴を下から見上げて優しく昔のように呼んで。

「私もいつまでもそなたを案じております。いつまでもふらふらせず、早くいいお人を見つけなさい。」

・・・それを貴女が言うのか。

何処か体の奥がうずくような気がして張り付けた微笑が剥がれそうになる。雅貴は何とかそれを耐えながら否定も肯定もせず一礼すると離れには向かわず裏門を出た。

・・・貴女にだけは・・・そんな言葉を言って欲しくはなかったのに。
















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