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晩秋の宵

武道場から気合の入った掛け声がする。

裏庭を過ぎようとしたところで、将希が素振りを始めた掛け声が聞こえて雅貴はふっと笑いながら振り返った。

「まるで、あいつの声が私を追いかけて来ている様じゃないかえ。」

そう呟くと、朱色の扇を閉じ武道場に向け正眼に構えて袈裟に切ってみた。

・・・いつまでも、俺を追っかけてんじゃねぇよ。

そうしてもう一度笑って裏庭を出て東門へ向かう。

「やはり気が向かないことはするもんじゃねぇや。」

たまに登城してみたところで、家督も継がず役職もない雅貴にすることなど特になかった。だからといって、会いたい人物も居なければとりたてて話したい事とてない。

・・・まあ、することが無いのは何も私に限ったことではないな。

雅貴は扇をぽんぽんっと唇に当てながら思った。

皆することが無いから何も決議する必要の無い詮議を毎日続けているのだろう。

「なんとも平和な事よ。」

日々は何事とも無く過ぎていく。・・・例え私がそれを良しとせずとも関わり無く過ぎていく。

見上げると秋の夕日は大分と傾いていた。


東門の前まで来ると、門番の男が表情を改め雅貴に一礼を寄越した。

「大儀」

「はっ。阿南様お帰りにございますか。」

年の頃は将希と変わらないぐらいであろうか。門番の男は更にお辞儀を深くして雅貴に声をかけた。

「ほう。私を見知っておるのか。」

「勿論でございます。筆頭家老阿南様のご子息で御座いますゆえ。」

「ふうん。城にほとんど来なくても私は有名なのだな。」

己のことであるはずなのに、他人事のように雅貴は呟いた。

「さぞかしいろいろと噂の種になっているのだろうね。いつまでも遊び歩いている放蕩息子、とか?」

少し意地悪な微笑で門番を覗き込むと、門番はうろたえて耳まで真っ赤になってしまう。

「い、いえっ。そ、そのような事は」

なんと判りやすい。雅貴は何だか愉快な気持ちになる。

素直な人間は嫌いじゃない。

「あっはっは」

不意に笑い出した雅貴に驚いたのか、門番の男は顔を上げて雅貴を見つめた。

漆黒の髪が夕日に透かされて金茶色に輝いて端正な顔を彩る。

なんと雅やかな笑顔だろう。彼はそう思った。

「あながち間違いじゃないから仕方ないやね。」

まだ可笑しそうにくすくす笑う雅貴を見て、門番はあわてて。

「とんでもございません。」

「いいから、いいから」

ひらひらと扇を上下に揺らして雅貴は言った。

「お前が気を使うことはないんだ。素直な男は好きだよ。それにね。」

もう一度、雅な微笑を浮かべて。

「実は、私はそう思われたいんだよ。だから上等。」


さて、と。屋敷に戻る気分じゃねぇな。

城を出ると雅貴の足は武家屋敷の町並みを通り過ぎ、城下へと向かった。

城下を歩いているだけでも何人かの町娘が見つめている。一人顔を赤らめるもの、連れ立って雅貴をみて密やかに嬌声を上げるものもいれば、中には声をかけるものも居て。

「雅貴様。どちらへおいででございます?」

「ん?いや特にないんだけどね」

この娘に会ったことあったっけ、などと思いながら雅貴は答える。

さすがに町娘にと遊んだ覚えはないんだけどね。扇をひらひらさせて、雅貴は娘に笑顔をむけた。

「またね。」

こんな少しの笑顔が。

麗しくてつれないところが素敵、などとまた町娘たちの噂になることなど雅貴は知りようもなかったのだが。

「いらっしゃいまし」

雅貴は、一軒の料理屋に入ると、いつもの2階の一部屋に上がり酒だけを持って来させた。川岸に面した腰高窓の障子を開け、窓の桟に座り杯に口をつける。

日はとっぷりと暮れて、月明かりだけがぼんやりと川面を照らしていた。

静かで良いな、と雅貴は思った。

世間ではいつも女をはべらかしているように思われているが、雅貴は本当は一人が好きだった。

人との関わりは疲れる。関わると境界が見えなくなっちまって、気づくと深く踏み込まれてていけねぇや。

夜風にあたりながら一人煽る杯はあっという間に空になり、女将を呼び酒の追加を頼んだ。

「お食事はよろしゅうございますか?」

雅貴の母よりも年かさに見える柔和な女将はいつもどおりに尋ねる。

「いつも酒しか頼まなくてすまないな。」

「いいえ、手前どもはかまわないんですよ。ただね。」

女将は左手をひらひらと胸の前で振り、笑いながら言う。

その仕草がはんなりとした色気を含んでいて、元は花街の出なのではないかと雅貴は思った。

「阿南の坊ちゃまは、うちにおいでの時にはいつもお一人でお酒ばかりお飲みでございましょう?」

「そうだねえ。」

「有難い事ではございますけれど、此処の所おいでになる日も多くなってらっしゃって。」

煙管を咥えて窓際に胡坐をかいていた雅貴の手が止まり、女将の顔を見つめる。それを女将は優しく微笑みながら小首をかしげながら見返した。

女将の指摘にあうまで一人で飲むことが多くなっていることに気づいていなかった。

窓の外からは川辺で鳴く晩秋の虫の音がはかなげに聞こえ、どこかで誰かが奏でているのか笛の音も混じって。

「お体に障りがなければと、余計な事を思ったりいたしますよ。」

その言葉は、決して雅貴を咎める様な響きではなく。だからこそ心に響いた。

「・・・ありがとう。」

ただ、酔えないのだ。一人ではどれだけ飲んでも。

酔ってしまえて何もかも忘れ眠ってしまえるなら、どんなにか楽になるのだろう。

「秋だからね。」

また煙管を咥えなおし、窓の外の明るい月に視線を移して雅貴は呟いた。

「私のような浮ついた者でも、物思いにふけるのかもしれないねえ。」

そしてふうっと煙なのかため息なのかわからないものを窓の外へ吹く。

「お酒、ご用意してまいりましょ。」

女将もそれ以上は何も問わず、静かに頭を下げると部屋を出た。

雅貴はそちらを見ることもなく、ふわりふわりと夜風に流される煙を目で追う。ほのかだった笛の音が、少し大きく聞こえたように思えて、雅貴は目を細め遠くを見つめた。


城下町を少し離れた上流の川岸には、一人の男が笛を奏でていた。晩秋の凛とした空気に澄んだ笛の音が解けていくようである。

一曲奏で終えると、男はふうっと息をついて草むらにゆっくりと座り、懐から取り出した手ぬぐいで優しく笛をぬぐった。まだあどけなさの抜けきらぬ黒い大きな瞳が、愛おしそうに笛を見つめ月明かりにきらきらと光っていた。

「よし。もう一度。」

男は呟くと膝を立て座ったまま、横笛を口許に当て静かに息を送り込む。

ひゅうっと高い音が川岸に響き、虫の音が合いの手を入れているかのようだ。


武石総吾たけいしそうご。藩の財務を任される賄方の武石家の嫡男である。

3年前に元服を果たし今年21となったが、華奢な体と色白な女顔のせいかまだまだ少年のようにも見える。笛の名手であるが、男の割に繊細な風情が彼の父には頼りなく見えるのか「笛などにかまっている暇があれば剣の稽古をせよ」と言われており、夜になると人気のない上流の川岸まで来て笛を奏でている。


「そろそろ戻らねばならんだろうな」

そう呟きながら、次の曲次の曲と総吾の笛は続いていた。

・・・笛を吹いていれば無心になれるんだ。この音とともに自分自身も風に溶けていくような気持ちになる。

月明かりに照らされて総吾は時がたつのも忘れ笛を奏で続けていたのだった。














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