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追いかけきれぬ蜉蝣

「まったく忌々しい!」

午前の詮議を終えた筆頭家老望月は、控えの間に戻る廊下を怒りをこめるかのように足音高く歩いていた。

「いつもいつも阿南の奴は皮肉ばかり言いおって。」

恰幅が良いといえば聞こえはいいが実のところ太りすぎてきているためなのか、気候のせいなのか、それとも怒りのせいなのか暑くて仕方がない。大汗をかきながら控えの間に戻っても、いまだ怒りは収まらず勢い任せに襖をぱあんっと開け放った。

「お帰りなさいませ。」

控えの間では息子の将希しょうきが文机に向かっていた。

登城は許されているが、家督をついでいない将希は詮議に参加することはできない。しかしながら見習いよろしく書簡の確認や家臣同士の交流のため、毎日登城していた。

「うむ。」

「本日の詮議はいかがでございましたか。」

と聞いたものの、取り立てて何もないことは将希にもわかっていて。

「つつがなく終わったが。」

「それは何よりでございます。しかしながら父上は何やらお怒りのようですが…」

また。阿南様とやりあったに違いない。

聞くまでもなく毎日毎日同じことが繰り返されており、父がかっかしながら戻るのもいつものことである。

将希は文机から向き直り、真面目な顔で父を見上げた。

「あまりお怒りになると、お体に触ります。」


望月将希。高遠藩筆頭家老望月家の嫡男。

17で元服を果たし今年24になった。城内ではそろそろ役付きとなり、ゆくゆくは老中から家老職を約束されている。幼少より武道に秀でており、剣術では敵う者はいないといわれていて、筆頭家老望月家の揺らぎなき次期宗主である。


ともかく。父上も父上で大人気ないが、阿南様も望月家を小馬鹿にしているふしがあると将希は思っていた。

しかし、世は太平。戦もなければ出世も手柄も期待はできない。

ただ続くのは昨日と同じ今日、今日と同じ明日だ。

けれど。将希は思う。

怠惰な毎日だからこそ我が身を鍛えるのも我しかおらぬ。

「忌々しいなりあがりものが。」

ともに登城するようになって後何度も聞かされた言葉を吐きながら、父はまだ怒りが収まらない様子である。

「当家のように先行き楽しみな跡取りもおらぬ故、妬んでおるのだろうが。」

にやりと笑みをこぼしながら望月は将希を見た。

「父上、お口が過ぎます。」

愛息子に窘められたのも嬉しそうに望月は目を細める。

「将希。」

「はっ。」

「そなたが家督を継いだ暁には我が家は安泰じゃ。阿南のぼんくら息子が相手ではそなたにかなうはずはないわ。」

当然だ。

俺は幼少の頃より、代々筆頭家老を務める望月家を担うため、勉学に勤しみ剣術の腕を磨いてきたのだ。

阿南家だけではない。国中の誰と比べられたとて負けることなどあろうはずがない。

「痛み入ります。」

「ほんにそなたはわしの自慢の息子よ。」

満足そうに笑う父を見て、嬉しい事のはずなのにふと何かが心を過ぎった。

父上の自慢の息子。

筆頭家老の望月家の跡取り。

その立場に十分な自分であるはずだ。けど。

…けど。何だろう。

「ありがとうございます。更に精進いたします。」

胸に浮かんだ何かを振り切るように、将希は笑顔で父に答えた。


夕刻。

父と別れ武道場へ向かった将希は、渡り廊下で横手に広がる裏庭を見て足をとめた。

茜色の着物を着た数人の奥女中が庭で何かを探している様子である。

「阿南の若様っ。どちらにいらっしゃいます?」

「阿南さまっ?」

年のころは20前後か。見目も麗しき奥女中が4人ほど甲高い声を上げていた。

「久方ぶりに登城されたと思ったら、あっという間に隠れておしまいになって。」

「今日こそはお誘いいたしたいところがございましたのに」

一人の女が言うと、きゃあと嬌声があがりもう一人も負けじとばかりに声を上げた。

「私もお誘いしたいと思っておりますのよ。」

「あら、私が先ですわ」

火花が散るかと思うようなにらみ合いをする女たちを唖然と見つめる将希に、女中の一人が気づきあっと小さく声を上げて膝を付いて頭を下げた。

あわてて、ほかの三人も膝を付いて頭を下げる。

「騒々しい。何事だ。」

畏まる女たちへ睨みをくれると更に小さくなるように縮こまった。

「い、いえ望月の若様にお話しするようなことでは…」

先ほどの嬌声は別人かと思うほどの小さな声で一人が答えた。

取って食おうと言う訳ではなし俺がそんなに怖いか、と将希は少し機嫌を損ねた。

「どうせそなたら、阿南家の雅貴殿にたぶらかされておるのだろう。」

「ひどいっ」

小さな声ではあるが、一人の女中が抗議の声を上げた。

「たぶらかされるなどと、いかに望月様といえどひどうございます。」

一番年若く見える女中が意を決したように将希を見上げた。

庭に膝を付いている女中からは渡り廊下に立つ将希はかなり見上げる位置となるが、きっとばかりに見つめられて将希は少したじろいだ。そんな自分に少しいらつき、将希は更に怪訝な表情となる。

この俺を睨みつけるなどと、女の癖に生意気な。

「なにがひどい。本当のことであろう。」

「雅貴様はたぶらかすようなお方ではございませぬ。」

頬を上気させそういいながら、見上げる女中の手は少し震えている。しかし他の3人の女中も、頭は下げてはいるがうんうんと頷いているのが見て取れた。

小娘が。重ね重ね俺に逆らうとは腹立たしい。

つまらぬことに腹を立てているとは判ってはいたが、将希は思わず庭のほうへ向き直り女中の目線をはねつけるように睨みつける。

「ほう。俺に逆らうか。」

顔を上げていた女中が唇をかみ締めて、怒りなのか恐怖なのか更に震えて。

「雅貴殿はそなた等に甘い言葉でもささやいたか?」

唇の端に笑みを浮かべ将希は片膝を付くと女中の顔を覗き込んだ。

将希の目は笑ってはおらず、目の前の女中にはそれがわかるのだろう明らかに目に恐怖を浮かべる。他の女中たちは頭を下げたまま顔を上げられずにいるようだ。

「そなた等のような小娘にならどんな言葉も信頼に値するのかも知れぬな。」

…だからといってこの俺にたてつこうなどとは許さぬ。

「雅貴殿の戯れの言葉を信頼できるのだから。」

とその時。

「えらくひどい言われようじゃない?」

くくくっと笑いを含んだ声がした。

将希が立ち上がり辺りを見回すと、いつからいたのか桜の木の陰に濃縹色こきはなだいろの袴姿の雅貴が幹にもたれるように立っていた。総髪の髪が風に揺らいでいて、左手には朱色の女物の舞扇を持ち天を形の良い唇に当てている姿が妙になまめかしい。

「私はいつだって本当のことしか言わないよ?戯れだなんて心外だねぇ。」

「雅貴様っ」

将希の前で恐怖で強張っていた女中たちが喜びの嬌声を上げた。

雅貴はその女中たちににっこりと微笑んで見せて。

「怖い思いさせてしまったね。もう良いよ、お行き。」

ひらひらと扇を広間のほうへ指し示した。

「あ、はいっ。でも」

目の前の女中がちらりと将希を見て躊躇する。

将希も落し所を掴みかねていた所でもあったのであえて抗議もせず無視を決め込んだ。

「庇ってくれて有難う。将希殿もそなたを如何こうしようなどとは思ってはおられまいよ。良いからお行き。」

雅貴は年若な女中の傍まで来ると手を差し出し、その手をとった彼女を立たせてやるともう一度微笑んだ。

この笑みは妖艶というものかと将希は思う。

「は、はいっ。では。」

「ん。素直ないい子だね。またね。」

戯れでないのなら天性の物だとでも言うのか。将希がついたため息にも気づかず、女中たちはきゃあっと声を上げて小走りに走り去った。


阿南雅貴あなんまさたか。言わずもがなもう一人の筆頭家老阿南家の嫡男である。

国一の美男美女と言われた親譲りの美貌と長身で、各家の息女はもとより町娘にまで騒がれる色男で流した浮名は数知れない。27になる今も妻を娶らずいるのも、いろいろな噂の種となっているが本人はどこ吹く風で望月いわく「ぼんくら息子」と言われる所以である。


「それにしても酷い言い様だったじゃないかえ。将希」

雅貴は将希に向き直るとそれでも笑みを浮かべたままで言った。

「戯れでないとしたら、生まれ持っての女たらしなんじゃないですか。本気でどの女にもあんなこと言えてしまうのでしょう?」

「あんな事とは?」

「いい子だなんてよく照れもせず言えますね。」

雅貴はすこし不思議そうな表情をしたが、思い出したのかまたふっと笑った。

「そうかお前は恥ずかしがりやだったからな。」

「い、いつの話をしてるんですか」

高遠藩には各家の子息が集まる学問所があり、もちろん将希も雅貴も袴儀のあとから通っていたので実のところ兄弟のように育ったも同然だった。雅貴は将希よりも3歳年上になる。

「お前は昔も今も変わらんよ。堅物のいい子でな。」

くっくっく。こもった笑い声とともに雅貴がそう言うと、将希は雅貴を正面に見据えて睨みつけた。

「貴方は変わりましたよ。昔は学問も剣術もとても俺では適わなかった。」

…そんな貴方に追いつくのが俺の目標だったのに。

はふっ。扇で口許を隠し、雅貴は将希に目線をあわさず遠くを見るような目でため息をつくと。

「そうだったかねえ。忘れちまったよ」

「俺は覚えています。本当は今だって俺より強いのかもしれない。」

「そんな事ないんじゃない?」

「じゃあやってみますか?」

ひらひら。

扇を一枚だけ開くと口許を仰ぐような仕草をしながら雅貴はふわりと将希を見た。

いや、本当は見ていないのかもしれない。そしてまたうっすらと笑って。

「興味がないねえ。強いか弱いかなんて」

そう言うと扇をひらひらと振り裏庭の向こうへ去っていったのだった。





















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