72. まずいですよ、雨竜君のパンツが丸見えです
陽を浴びると眠気が覚めるものらしい。だけど俺はというと、長いこと昼夜逆転生活をしてるから逆に眠くなるんだよね。
くあっと欠伸をひとつして、涙目をこすりながら青年の背中を眺める。大して年の変わらないこの男はゆとり君、じゃなくて若林といい、受付で俺たちの宿泊の手配をしてくれている。
相変わらず便利な男だなと思いつつ振り返る。
そこにはソファーに座り、膝を合わせた姿勢正しい恰好で「くーっ」と寝入っている雨竜がいた。朝日を浴びながらすやすやと寝息を響かせており、そんな様子にため息をひとつ吐いてから俺は近寄ってゆく。
「こら、頑張れ雨竜。部屋まであとちょっとだぞ」
ぺちぺち頬を叩いても目覚める気配は無い。
あーあ、だめだこりゃ。まったくしょうがねえなと思いながら脇の下に手を入れる。まるで子供を相手にしているみたいだなと思うのは、無防備にころんと肩に頭を乗せてきたからだ。
受付を済ませたらしいスーツ姿の若林を見て、よいせと後輩を持ち上げる。やはり羽のように軽かったし、首に抱きついてきたから運びやすい。
しっとりした黒髪が鎖骨から背中までまとわりついたせいかな。ほんの少し温かいなと思った。
暴れたり遊んだりモンスターを殺したりしているあいだも季節は勝手に進む。めぐりゆく季節は誰にも止められなくて、広々とした受付は冬らしい空気で満ちていた。
「こいつ、一度眠ったらぜんぜん起きないんだよなー」
みたいですね、と若林に笑いかけられた。部屋の鍵を手にしており、その指でエレベーターの方向を示される。並んで歩きながら青年は雨竜をちらりと見て、なぜか知らんがみるみるうちに表情を変えていく。
「ご、後藤さん、あの……」
顔を近づけてくると、耳打ちをこそっとされる。
「ま、まずいですよ。雨竜君のパンツが丸見えです」
そんなことを言われて心からげんなりした。
ひとことで言うなら「は?」だよ。それ以外になんて言えばいいの?
戦闘でビリビリになったストッキングはすでに脱いでいるし、そりゃあ真っ白な太ももも見えるだろうさ。
しかしだな、いまは日本がどうなるかっていう瀬戸際だよ? モンスターは数を増すばかりだし、今朝は女王種から隷属とやらを結ぶことになった。それに比べたら小さい小さい、あまりに小さい問題だよ若林君。
「あのな、文句があるなら自分で歩けって話だよ。パンツごときでガタガタ言っている奴が、モンスターとの戦いで生き残れるかっての。こいつだってパンツを見られるより睡眠を優先したいんだろ、きっと」
「……後藤さん、朝方にものすごく文句を言ってましたよね、パンツのことで」
エレベータの到着音が響くなか、うぐっと俺は唸る。こいつ、俺が履いたハイレグパンツのことをまだ忘れてなかったのか。
なんでかな、若林君からの突っこみって微妙に腹が立つんだよね。このエレベータという密室で、なにが起こるか俺でも分からないくらいに。
そんな不穏な気配を察したのか、がこんと戸が閉じるなりフォローを入れてきた。
「えーと、その、後藤さんは脚が長いですしとても似合っていたと思いますよ。気にしないでいいと僕は思いますけどね」
「それ以上変なことを言ったら、お前にも同じパンツを履かせる」
「…………」
ぎしっと固まる様子と共に、目的の階に辿り着く。
眠りこけた後輩の太ももと背中を抱いており、また向こうからも抱きつかれているので……んー、すうすうという寝息が当たってムズ痒い。
こういうのは意中の男にしてやればいいのに。美人だしいい匂いがするし抱き心地もいい。たぶんだれでも簡単にコロッと落ちるだろうに。
コンビニ袋を手にした若林がドアを開けて、そっと頭をぶつけないようにして通る。すると短い通路の向こうに広々とした部屋があり「へえ」と感心の声を漏らした。
「おー、広ーい。スイートってやつ?」
「ええ、古い建物ですが一番良い部屋です。気兼ねなく過ごしてください」
などという声を背に受けながら、部屋のあちこちに目を向ける。
こういうホテルっていつも思うけどさ、空調が効いているせいか完全に無臭なんだよね。それが不思議というか気になるというか、妙にそわそわする。
「あ、ゆとり。悪いけど、これお願い」
ひょいと片足を上げてブーツの底を見せると、わずかに青年は困った表情を浮かべつつ片手を差し出した。ずぼっ、ずぼっ、と脱がされるとようやく一息つけたかなぁ。ゆっくりしたいなら裸足が一番だよね。
そのままスリッパも履かずに歩いていくと、広々とした開放感のある光景に包まれる。くつろげそうなソファーとツインベッド、それに低めのテーブルには冷えたシャンパンが置かれていた。
歩いているだけでウキウキするのは、たぶん俺が根っからの庶民だからだと思う。見たところ最近の女性には受けが悪そうな内装だけど、おじさん趣味というか居住性を最優先しているのは嫌いじゃない。
「いいなー、これくらい広い場所に住んでみたいなー」
思ったことをそのまま口にすると、若林は急に変なことを言う。
「構いませんよ。後藤さんの気が向いたらここに引っ越しても」
今度は俺がぎしっと固まった。
振り返ると若林はしれっとした顔をしているし、冗談だと言い出すような気配は微塵もない。
スイートルームに引っ越してもいいって、どういうこと? 意味が分からないと思うのは俺だけ?
半分くらいファンタジーに足を突っこんでいる会話だと感じたし、笑いを誘うジョークとも思えない。
頭にクエスチョンマークを浮かべつつも、どさっと雨竜をベッドに降ろす。うん、まんま「美人をお持ち帰りできました」の構図だね。などとアホなことを思いつつも首根っこに絡まった腕が離れてくれず、うんん、と寝言を漏らす雨竜にそのまま引き寄せられた。
ギシッとベッドが鳴り、眠いとき特有の体温が先ほど以上にはっきりと伝わる。間近にある彼女の顔はうっすらと瞳を開けており、真っすぐ俺を見つめていたことに目を見張る。
おーい、おまえなに寝たフリしてんだよと腹を立てつつも、押し当てられた鼻がクンクンと匂いを嗅いでくるものだから本格的に焦り始めた。
「統主……」
こいつ、寝ぼけてんな! 女でもビビるくらい色気がすごいし……こらこら、やめろ。くすぐったい。などと暴れても雨竜は一向に離してくれず、ふううと熱を帯びた吐息を当てられてさらに焦る。たぶん湿度が増したと感じたのは俺だけじゃないと思う。
「……あの、後藤さん?」
「違う違う、こいつが寝ぼけてんだ!」
がばっと起き上がり、そう悲鳴混じりの声を上げた。
掴まる相手がいなくなって宙に伸ばされた雨竜の腕は、やがてゆっくりとベッドに落ちてゆく。くう、という気持ちよさそうな寝息を聞き、意味もなく俺は大きな溜息を吐いた。
あーっ、たくっ、こいつはいつもツンケンしているくせに寝ぼけたときが特にタチ悪いな。そう思い、髪をがしがしかきながら立ち上がる。振り返ると所在なさげにしていた若林がおり、おほんっと咳ばらいをひとつする。
さて、話を戻すか。
スイートに住んでいいなんて、若林はなにを考えているのかな。
とりあえず眠たい頭を働かせて、先ほどの誘いについて考えてみる。といっても誰でもすぐに分かることだったか。
「そういや研究費がどうとか言ってたっけ。となるとエギアナを手に入れたのは大きかったのか。少なくとも防衛省のすぐ近くに俺を置いておきたいくらいには」
「ええ、かなり。いま上層部は大忙しです。モンスターを手なずけたのは初ですし、もうひとつ昨日の藤崎君チームの件も関わっています」
ふうん、と俺は唸る。疲れ切ってはいるが、雨竜に匂いを嗅がれて驚いたから眠気も少し遠のいてくれた。
ぽいぽいっと靴下を脱ぎ、そのまま素足で絨毯の上を歩いて、どさりとソファーに腰かける。うん、おっさん向けのどっしりとした安定感がなかなか良い。
氷に浸かったボトルを手にしようか少し迷って、結局はコンビニ袋からコーラを取り出す。蓋を開けるとパシッと小気味よい音を立てた。
「そろそろ各国も生体サンプルを欲しがるだろうしな。だけどあいつ……エギアナは扱いづらいぞ。3桁に迫る数を殺しているし、当たり前だけど殺戮することにまったく躊躇しない」
「ですね。生け捕りは他のモンスターでもできるでしょうし、せっかく隷属した相手を差し出すのはもったいないと僕も思います」
コンビニ袋をテーブルに載せながら、ごく平然とした口調で若林はそう言う。しかし横顔に迫力をにじませているから、俺の頭はあれやこれやと勝手に邪推を始めてゆく。
若林は俺を駒として扱おうとしている。
大した理由もないが、なんとなくそう感じる。
単なる勘に過ぎないし気のせいかもしれないけれど、昨日とは異なる気配を発しているんだ。そして昨日あった変化といえばひとつしかない。
「おい、エギアナを手に入れたらなにをしたい、若林?」
「うっ……秘密です。男が矜持を抱くにはちょっとした野望とロマンが必要なんですよ、後藤さん」
にやりと笑いかけてきた表情に、なるほどと思う。
これも勘に過ぎないけど、悪いことを考えているわけではなさそうだなと感じたんだ。俺と同じ種類の悪だくみというのかな、素材や経験値を独り占めするとか、そういうたぐいの人畜無害でありながら自分だけ得をするようなことをしたがっている気がした。
だから俺もにやりと笑い返す。
「いっそのこと秘密を口にしちゃおうぜ」
「駄目ですよ。後藤さんは反対するでしょうし、こっちも命懸けなんですから」
えー、いいじゃんか、ケチー。などとブーブー言っても意思を曲げることはできなそうだ。
閉め切ったカーテンから漏れてくる朝日。それを背に受けながら若林はうっすらと笑う。彼の手元には使い古したノートパソコンがあり、淡い光を液晶画面が放っている。
「後藤さんが気にすべきは、僕のことなんかじゃなくてこちらですよ」
誘われるまま目を向けると、そこにはとある映像が映し出されていた。
暗視カメラによるものか白黒の映像であり、また周囲は剥き出しの土をそのままガラスでコーディングしたようなおかしな風景だ。もはや天然の洞窟とは言い難い。
フーフーと聞こえてくる何者かの息づかい。
やがて完全武装をした男たちが画面に現れて、その手にしたものに俺の目は吸い寄せられてゆく。人工物でありながら、現代では再現できないもの……闇礫の剣だった。
確かにそうだなと、脚を組みながら俺は思う。
気にすべきは目の前の映像だろう。しかしものものしい様子といい、戦場としか思えないこの場所が、まさか世界有数の大都会である新宿のできごととはだれも思わないだろう。
俺の意識はゆっくりと地下五百メートルでの戦いに向かっていった。




