71.園芸に目覚めたわけではない
陽が明けてから間もない時刻、駅前のロータリーではおかしな光景が広がっていた。
それはあちこちヒビ割れた歩道、モップで洗い流されてゆくタール状の黒い液体などだ。
昨夜何かがあったという気配だけが残されており、しかし作業を淡々としているものだから通勤者たちはこう思う。
ーーまたアレか、と。
モンスターだかなんだかが現れるなんて世の末だ。それよりも今日の会議のことを考えておかないと……と興味を早々に失う。
異様な光景であろうとも毎日発生するのなら、もはや日常と呼んで良いだろう。そうでなくとも今日の献立やテレビ番組、新刊の発売と他に気にすべきことは山のようにある。
こうしてだんだんと不安定になるのを感じながらも、人々はほとんど生活を変えなかった。だって会社があるから、生活があるから、という風に。
もしかしたらモンスターよりもこんな光景の方がずっと恐ろしいかもしれない。
絶滅に近づきながらも生活基盤をまったく変えない現代社会というものが。考えてみれば地球温暖化に対しても同じ反応だったか、と後藤などは思うかもしれないが。
しかし、そんな都内の駅前に、もうひとつおかしな光景があった。それはバイクを運ぼうとする警察官の姿だ。
まだ破壊の跡が残っているというのに、いま放置バイクの撤去をする必要があるのだろうか。それも自衛隊が乗っていそうなカラーリングをした怪しげな単車を。
あちこちを撮影するマスコミといい、本日の通勤者らは一様に首をひねったらしい。
同時刻、薄暗い廊下にエレベーターの階数を知らせる明かりが照らす。
しばらくしてこの階数に辿り着くと、電子音を響かせてスーツ姿の二人の男が現れた。
まだ眠そうな顔をした痩せ気味の男、薄木という者はズレた眼鏡をそのままに口を開く。
「なんで私は、こんな時間に土を運んでいるのかなぁ」
覇気のないその声に、隣の男は薄木に視線を向ける。ため息を吐く様子の彼は「たっぷり20リットル、花と野菜の培養土!」と書かれた袋を抱えていた。
対称的に体格の良い隣の男は、諦めたような息を吐く。
「うちの連中で園芸なんてやっているのはお前くらいだからな。仕事でも園芸できるんだから少しは喜んだらどうだ」
朝の7時に? と文句を言いたそうな顔で、袋を抱え直しながら薄木は廊下を歩き出す。
そもそもなぜ仕事で園芸をするのだろうか。電話口で「土があるなら持ってこい」という説明しか受けておらず、それが薄木にとって意味がまるで分からない。
「西岡さん……ようやく家に帰れたと思ったらこの命令ですよ。私でなければもっと嫌な顔をしていたでしょうね」
園芸用のスコップや鉢を手にしながら西岡はあとを追う。これ以上の嫌な顔をされるのか、と言いたそうな表情で。
実際、部下である薄木が文句を言うのも分かる。
モンスター騒ぎで関東一帯が騒がしくなってから、彼ら公務員の勤務形態はがらりと変わったのだ。
モンスターの活動期ともいえる夜という時間は、言うまでもなく勤労におけるピークだろう。しかし日中には夜に備えた避難誘導や人員配置、終わったら終わったで報告書をまとめるという仕事となり、一連の業務をまとめ終わる前に次のモンスター対応をしなければならない。
3交代制であり「24時間戦えます」というシフトではあるものの、現場を統括している身にとってのキツさは筆舌に尽くしがたい。しかも出現地域は日に日に広がっており、地域ごとに対処しきれる体制づくりもしなければならないのだ。
「前々から思っていましたけど、西岡さんは少しばかり後藤君に甘い気がしますよ。可愛い娘みたいに思っているんじゃないですかね」
ブツブツと小言を言われる始末であり、やはり叩き起こした恨みを買っているらしい。ふっ、と西岡は笑みを深めた。
「済まないな、ここに来るまで何の説明もできなくて。よく聞け、薄木。その園芸用の土は国家機密に関わることだ」
「…………は?」
眼鏡をさらにズリ落としながら「土が蘇る!」と派手に書かれている袋をもう一度眺めて、そんな間抜けな声をもう一度出す。
何の冗談だと思うのは、一袋数百円の土を見れば当然だろう。もしもいまの言葉で納得したら間違いなくおかしな人だ。
「ついて来い、薄木。面白いものを見せてやる」
そう自信満々に言われて、ぱちくりと薄木は目をまばたきさせた。
§
くあーっ、と俺は目を線にしながら欠伸した。
眠いよ。スッゲー眠い。だって完全な夜型人間だし、日が出たら寝るという女子としてあるまじき生活をもう2カ月くらいしているような筋金入りだ。
もしも「だれが女子だって?」という顔をした奴がいたら、血が出るまで頬をつねってやる。
いつもならとっくに寝ている時間なんだけど、今日はもう少しだけ頑張るよ。俺の愛する地球のために、さ。
「先輩、それはただ宿泊先を楽しみにしているだけじゃないですか?」
「んーっ、楽しみだなぁ、旅館。さっさと仕事を終わらせて、お風呂を楽しんでから気持ち良く布団で寝ようっと」
雨竜の突っこみを正面から抱きしめてやれるくらい、いまの俺は懐が広い。だってこれから旅館に行くんだもん。
浴衣を着て、歩き回って、旬のご飯を食べて、くっだらない昼番組を見てからぐっすり眠る。それが公費。つまりはタダ。
「あぁーー、たまんねえええ!」
「後藤さん、今日のところはここを利用してください」
ずいと向けられたノートパソコンを雨竜と一緒に覗き込む。そこに映し出されたのは広々としたホテルであり、なんだかけっこうお高そうな感じのところ。
大理石みたいなピカピカの床と、かなり広々とした洋室。少々古めな印象はあるものの、もちろん俺の部屋なんかよりずっと広いと思う。
さっきまで無料だとはしゃいでいたけど、こういうお高めの内装を見るとちょっとだけ気が引ける。やっぱり俺は庶民だからさ「もっと安いところでいいよ」って言いたくなる。
「……高そうだけど平気? 予約が取れないなら別に家に帰ってもいいんだぞ」
「ええ、そこは気にしないでください。というより、ここしか都合がつかないんですよ。後藤さんの場合は夕方に外出して朝に戻るという生活ですし、チェックインの時間も普通は午後からです」
確かにね。魔物退治をしているからゴールデン番組なんて見れないし、ディナーなんてものは楽しめない。
だけどなんでここなら都合がつくのかな? 知り合いが経営してるとか?
「まあその件はあとで説明しますよ。雨竜君はどうする? 後藤さんと一緒に泊まる?」
「泊まります」
覗き込んでいたノートパソコンから瞳をあげると、一秒タイムラグもなくスパッと雨竜は返事した。
相変わらず欠片も遠慮無いなと思いはするけどさ、こいつはちょっと思考回路が違うというか、俺や若林の意見なんてどうでもいい。本人が泊まりたいかどうか、という判断基準しか持っていないんだと思う。
もちろん慣れている若林は変な顔のひとつもしない。
「じゃあスイートだね。ホテルに連絡しておくからそのあいだに荷物を……あ、西岡さん」
がちゃっと戸を開けて姿を見せたのは、珍しく私服姿の西岡さん、それと細身でよれっとした髪の毛の薄木さんだった。
「相変わらず元気そうだな、後藤」
「まあね、けっこー頑丈みたいだし。でもいい加減、さっさと寝たいかなぁ」
それは同感だと笑われた。
考えてみれば向こうだって起き続けていたのだし、当たり前だけど俺と違って肉体強化なんてしていない。たぶんこっちよりもキツいと思うよ。
ここの部屋は研究施設の一室で、普段はミーティングなどをして過ごす場所だ。備え付けの珈琲メーカーもあり、皆でくつろいでいる様子を薄木さんは不思議そうに見つめていた。
「それで後藤君、土を持って来るというのはどういう意味があるのかな?」
「ああーー、ありがとう! こんな時間にホームセンターなんて開いてないから助かったよ。わざわざ鉢入れまで。じゃあ雨竜、さっさとこいつを埋めてホテルに行こうぜ」
ですね、と当然のように雨竜と若林が席を立つ。そして土で汚れるのも構わずに、テーブルの上でせっせと園芸の真似事をし始める。
なにやってんの? と怪訝な顔をするだろうね。だって平日の早朝というのに、大の大人が5人もそろって園芸をしてんだもん。事情を知らなければ俺だって困惑した顔をしちゃうよ。
「えーと、軽石を底に敷いて、と。その白い粒状のやつってなにに使うの?」
「あ? えーと、これは根腐れ防止用で、植え終わったあとに使うから……」
そう律儀に説明をしながらも、根っこ剥き出しの植物を彼はじっと見つめていた。
なんか変だなーと思ったかもしれない。葉っぱは真っ黒で、おまけに樹の部分まで黒い。薄木さんは園芸に詳しいらしいし、さらに不思議に思うだろう。
「こんな木なんて見たことあったかな……」
「うん、だってこれエギアだし。あ、あ、土がこぼれちゃう! 薄木さん、もう土はいいから!」
もしかしたら栄養たっぷりの培養土をエギアの女王種は喜んだのかもしれない。ウネウネと葉がうねり、礼を言うように彼の指先を撫でたのだ。
「はっ、はぉぉっ!?」
「薄木、国家機密と言っただろう。そう驚いた顔をするな」
「しますよ!? これで驚かなければいつ驚くんですか!?」
落っこちようとするスコップを俺は空中で掴み、そんな裏声でわめく薄木さんをじっと見る。
なんでかな。いつも冷静な感じの人を、ここまで驚かせるとちょっとだけ面白くなる。
「それも女王種だって」
「女王種!?」
ぐふぅ、と若林まで口を押えて薄木さんに背を向ける。だよね、吹き出しちゃいそうだよね。良かった、俺だけじゃなくって。
水をやり、窓際に置いた鉢植えに、太陽の明かりがさんさんと差し込む。暦の上では冬とはいえ、温暖化の影響もあって気持ちよさそうにエギアナは葉を広げていた。
機嫌が良さそうだなと、その姿を見て思う。もしかしたら頭の上にハートマークを浮かべていたかもしれないぞ。
じゃ、そういうわけであとは研究チームと西岡さんたちに託そう。いい加減もう眠いし。
伸びをしながら外に出てみると、ちらほらと出社してゆくスーツ姿の連中が見える。社畜さんお疲れ様ですね、などと思いはするものの、もしかしなくても俺のほうが激務だったのだから文句は言わせない。
「こら雨竜、歩きながら寝るなよ?」
「…………」
うつらうつらとし始めている雨竜はあいかわらずの無表情であり、社会人としてはもう耐えきれないようだ。とはいえ最近だと半分以上サボっているので、もう俺とそんなに変わらない気もするな。
無意識なのか知らないけど、俺の袖を掴んでくる雨竜をじっと見る。
「そういやこいつ、魔物を操ってたな。若林、なにか聞いてるか?」
並んで歩いている若林に尋ねてみると「さあ」と首を傾げてくる。こいつって前はもっと生真面目で神経質な感じだったと思うんだけど、どんどん適当になってきてない?
「新しい技能に目覚めたんじゃないですかね。僕の見た光景、それと話を聞いている限りだと、ラジコンみたいな全操作というよりは、ゲームで言う命令に近い感じです」
「え、お前もゲームとかすんの? スマホゲーの課金さえしなさそうなのに」
「ゲームくらい小学生のころ友達の家でしましたよ。さすがに課金はしませんが」
まあねえ、俺も課金ゲーはしたことないし。
なにが嫌だって、急にお金を持ち出されるのは冷めるんだよ。好きな推しキャラがいようと関係ない。いくら美少年だろうとイケボだろうと金が絡んだ時点でそいつはヒモ同然だ。
「じゃなくって、命令式かぁ。ならある程度は臨機応変に動いてくれるのか。それなら事故も少なそうだけど、やっぱ危ないか?」
「ですね。被害が出たらその時点で使用を禁じられるでしょうね。ですがそこはどうにかできます。後藤さんが操っている、ないしは指示していると伝えれば」
あぁー、なるほどな。
毎朝の魔物出現情報はすでに手離せないほど重要なものであり、少なくない量の魔物を連日のように俺が倒している。正確に言うと、俺を統主とする一派が。
ここまで来ると「多少は目をつぶる」という選択肢が加わるだろう。
それには前提があって「善意のもとでの判断」でなければならない。しかしこう見えて俺は表面上だけは真面目に勤めている。裏では魔石やら何やら大量にガメていてもさ。
直接会ったことのない連中は、俺のことを正義感に燃える女性だと思っているだろう。親が警察関係者だと知っているだろうし、きっとそれがプラスに働く。
まあね、そういう風に見せているからね。
粗っぽさで定評のある俺が直接交渉なんてしたら、きっとすぐにボロが出る。その為の仲介役が西岡さんや若林たちであり、おかげである程度は信用されているわけだ。
「じゃあその方向で頼むよ。それで、どこに行くの? まさかホテルまで歩いて行くわけじゃないよな?」
先ほどの駐車場と違う方向に歩いていると気づいて、そう俺は声をかける。すると若林は笑みを浮かべながら指先を敷地の外に向けた。
「ええ、すぐそこですから」
くるんと反対側に目を向けると、そこには「軍人会館」と揶揄される大型ホテルがあった。
なるほどね、だから多少は融通を効かせてくれるわけか。あそこって確かOB連中には値引きしてくれるらしいし。
高級ホテルと聞いて舞い上がっていたというのに、すうっと冷めていくのが分かった。




