【番外編】雨竜と過ごすお正月
なにかの気配を感じて、ぼんやりと俺は瞳を開く。
薄暗い部屋には誰かがいて、俺の脇に手をついて起き上がろうとするところだった。
垂れてくる長い黒髪を眺めるに、雨竜がのそりと身体を起こしたところで俺もついでに目を覚ましたらしい。
白檀のような香りとともに、雨竜の瞳がこちらを向いた。
「あ、起こしました?」
「うん。いつの間に寝てたんだろ。いま何時?」
なんだろ、薄暗いせいか少し大人っぽく見えた。
見れば雨竜も私服のままであり、布がよれよれになっているし寝グセもある。
俺の肩から先はこたつに包まれていたものの、隙間から冷気が入り込んだせいで起きたらしい。
そっかー、ベッドに入る前に力尽きたのか。
そうだった。酒を飲んでいい気分になったところで「こたつ大好き」と言ってもぐりこんだ記憶がある。
なんとも自堕落に過ぎる目覚めだが、雨竜もまたぽやぽやした瞳でスマホを手に取る。
「えっと、9時ですね」
「ふわぁー……っ、ぜんぜん寝足りないわけだ。うー、寒い。ちょっと閉めてくんない? ほら、そこ。雨竜の出たところが開いたたままなんだ」
いるんだよ。こたつの端っこをぽっかりと空けるふざけた奴が。そういうマナーに反した行為を俺は許せない。開けたら閉める。殴られたら殴り返す。そうやってみんなは立派な大人になれるんだ。よく覚えとけ。
そうお願いしたのに、とすとすと素足で雨竜は窓際に歩いて行ってしまうし、なにをトチ狂ったのかガラッと窓を開け放つ。
「……な、なにしてんの?」
ほんとマジでなにしてんの?
温かい空気があっという間に消えてゆく状況をまるで理解できない俺は、呆然とそんな声を漏らした。
せっせと温めた空気だというのに、地球にプレゼントしてどうすんの? あいつらはもっと寒いのが好きなんだぞ?
などと思っている俺だったが、雨竜はさらに予想外な行動を取る。戻ってきたと思ったら、俺の両脇を掴んで引きずり出そうとしたんだ。力づくで。
「ちょーっ、ちょっ、ちょっ! なにする気? そんなに俺を殺したかったの?」
「先輩、いいから暴れないでください」
おっとっと、こいつマジだよ。信じらんねぇ。ぬくぬくして喜んでいる俺を極寒のなかに放り出す気だ。
いや、俺だって馬鹿じゃないから、そうむざむざと引きずり出されないよ?
だけどさ、逆さまの雨竜の顔がすぐ近くにあって、珍しくむっすりしていたら少しだけ気になる。男だったら頭突きしてたところだけどさ。
「んー、どしたの?」
ずるんとこたつから引きずり出された俺は、ちょいっと指先を向けられた方向に視線を向ける。すると普段とまったく異なる光景があった。
音もなく静かに降り積もってゆく真っ白いもの。
外の景色はいつもよりずっと色彩が少なくて、いつもよりずっと静かだと思う。ほうと吐いた息は真っ白に染まり、頬がつきそうなほどすぐ横から「雪です」という綺麗な声が聞こえてきた。
ぴしゃっと閉じたよ。すぐさまな。
「あっ」
「あ、じゃないよ。寒いんだよ。へー、この時期に降るなんて珍しいな。だから昨夜はすごく冷えたのか」
くしゅっと鼻を鳴らす雨竜に「そらみろ」と俺は言う。
「はしゃぐのはいいけど、防寒具を整えてからだ。はんてんでいいなら貸すし、出かけるなら手袋もいるか。ついでに正月っぽい縁起物を買ってこようぜ」
「……先輩が、縁起物を? 悪霊退散のお札のほうが似合いそうですね」
「もー、うるさいなぁ。俺だって縁起物くらい買うんだよ。お正月だってのに何もしなかったら、きっと『何もしなかったああー』ってあとで後悔するんだし」
そのあたりは強迫観念に近いかもな。豆まきも恵方巻もスルーしてるんだし、一年に一度くらい行事に参加してもいいじゃん。
「……恵方巻を、食べない?」
「ん、正直それは食った。半額のやつを。いいから着替えようぜ。これで売り切れてたら目も当てらんないし。雪が降ってるなら転びやすいし、前に買った長靴を履けよな」
ぽいぽいと赤いはんてんや厚手のズボン、靴下などを放りながらそう言うと、やっと雨竜は動き出す。そして着替えながらまた背後の窓を振り返り、しばらくぼーっとしてた。
無表情だってのに、雪が好きだと分かるのは変な感じだ。
くしっともう一度くしゃみをしてから、のろのろと雨竜は着替え始めた。
さて、お正月である。
年中たくさんの行事はあるが、先ほど言った通りお正月だけはスルーできない。年間行事におけるラスボス的な存在であるため俺でさえ無視できないのだ。
あん? 年越しのときはどうしてたかって?
ちゃんと祝ったよ。モンスターを真っ二つに切り裂いて「ハッピーニューイヤあああッ!」って叫んだし。ま、ちょっとだけ悲鳴が轟く祝い方だったけど。
ぎゅむりと埋まる靴を見るに積雪量は3センチくらいか。
「おー、けっこう積もりそうだな。平日だったらきっと大混乱だ。その辺りニートは気楽でいいなー」
「ですね。雪ならさすがに私も休みますが」
などとお互いに傘を持ち、車通りの少ない道を歩きながら話す。
ちんまりとした奴が赤いはんてんを着込んでおり、さらには長い黒髪を左右に結わいているものだから、なんか田舎の子みたいだ。鼻も赤いしさ。
「休むって……これくらいなら電車も動いてるだろう。丸一日休む必要は無いんじゃないか?」
「? 雪の日は休むものです」
平然と言ってのけたけど、そういうものだっけ? 違うよね? 雪で閉ざされる地方ならまだわかるけど……ちょくちょく俺の知っている常識と食い違うな、こいつ。
さほど風が無いので、お互いにきょろきょろと普段と異なる様子を眺める。
雪で覆われてゆく街並みは、どこかいつもと違う気がするんだ。色彩も音もだんだん消えていくし、なんだかぽつんと一人きりになった気もする。
そういう情緒を楽しんでいたときに、きゃっと短い悲鳴が後ろで響いた。振り返ると両手を地面についた雨竜がおり、慌てて手を貸して起こしてやりつつ、ぱっぱっとお尻についた雪を払う。
「あんまり周りを見ているとまた転んじゃうぞ。とりあえず店につくまでは手をにぎって行こうぜ」
「ですね、そうします。滑りやすい場所が雪で隠れていて困ります」
手袋越しにぎゅっと手を握られた。
俺よりひとまわり小さな手で、転びかけそうなときはさらに強く握ってくる。普段……というか刀術士を切っているときは割と危なっかしい足取りだと気づく。
しかしそんな苦労は、地元のスーパーに到着するのと同時に終わりを告げた。雪かきをしている店員さんの横を通り過ぎて、傘を畳むと互いに雪を払う。ぱっと最後に互いの手が離れた。
さて、お正月モードでにぎやかなスーパーだぞ。
鏡餅や玄関飾りの定番品はまだ並んでいるし、売れ残りを阻止すべく「半額」という素晴らしいシールがあちこちに貼られているのだから爽快だ。
「食べたいものを選ぼうぜ。雨竜はなにが好き?」
「伊達巻です」
セーターの上にはんてんを羽織った奴から、きっぱりと簡潔にそう言われた。
渋い。渋いねぇ、雨竜ちゃん。前に和菓子を持ってきたし、さては子供のころから渋いものが大好きだな。ケーキより餡子派だと見たね。
「俺は肉だなー、やっぱり。お正月の食べ物って質素なのが多いから、あんまり好きなのが無いんだ。おほー、これこれ。売れ残りの牛肉。ミニステーキとか作ろうかなぁ。あ、カモ肉があるなら蕎麦もいいね。これなー、脂が乗ってて美味いんだよなー」
ふと雨竜から裏切られたような目で見られていたことに気づく。無表情なそいつと数秒ほどじっと見つめ合った。
「どうしたの、変な顔して」
「先輩、お正月の縁起物を買うって言いましたよね?」
「言ったけど、こっちのほうが美味しそうじゃない?」
「美味しそうだから困っているんですよ。いえ、伊達巻は買います。来る前から私はそう決めていますから」
「ならいいじゃん。縁起物がちゃんと買えたし」
伊達巻にどんなゲン担ぎがあるかは知らないけど。
再び無表情な雨竜とじっと見つめ合う。なんなんだろうね、この空気。人間らしい意思疎通がまるでできないんだけど。
すっと伸ばされた雨竜の手は、そのまま牛肉を掴んで買物カゴに入れられた。なるほどね、表情で伝えるのが無理なら行動で示せばいいわけだ。
「じゃあ一緒に焼くよ。どんな味付けが好き?」
「たぶん私より先輩が決めたほうが美味しいと思います」
「おっけ、じゃあ適当にやるか。タイムかクレソンがあればいいなー。ついでに餅も欲しいかな。あればっかりは保存がきくから半額にならないけど」
ひゅう、たまらないね。イベント翌日の半額セールは。買えば買うほどお得になるけど、食材が余らないように注意しないと。
「みかん好き?」
「好きです」
「あ、豆餅だー。これ香ばしくて美味しいんだよなー」
そうやってカゴにぽいぽいと好きなものを入れてゆき、ついでにチョコとかの甘いものを手に取り……かけたところで雨竜がじっと見ていた麩菓子を選ぶ。うーん、手にしたはいいけどほんと好みが渋いな。
「ま、いーや。お正月の準備はこんなもんだな」
じっと見つめられたのは「お正月とは一体」という無言の突っこみに感じられたけど気にしない。人間というのは昔から、己が欲しいものを手にして生きているんだ。
半額セール品をたくさんレジに通してもらい、雨竜とも折半したのでさらに半額ドン! うーん、年始早々お得だね。たまんねえ。
あ、初詣はどうしようか。
と思ったところで外の雪景色を眺めて「パスで」と潔く決断する。いないでしょ、こんな天気で初詣をする人なんて。んな暇があったらお地蔵さんの頭の雪を払ってくるよ。
俺は右手に、雨竜は左手に買い物袋を持って、パパンと互いに傘を差す。
それから雪でべしゃっとした「いかにも転びそう」な歩道を一緒に眺めることしばし。
ふむ、と雨竜はつぶやいて、それから開いたばかりの傘を閉じた。なるほどね、転倒防止のためガシッと俺の腕にしがみつくことにしたわけか。抜け目ないな。
腕を抱えられて窮屈だけど、テクテク歩きながら空を見上げる。
「積もるかもなー、これ」
「いいですね、真っ白に染まって。私、雪は好きです」
とっくに気づいているよと思いながら「そうなんだ」とつぶやく。
寒いし転びやすいし、雪のどこが好きなんだろうと思っていたときに、隣を歩いている彼女は呟く。
「音が消えていくのが好きです。寂しいのとは少し違って、私だけになっていく感じがします」
「それ、しっかり腕にしがみつきながら言うセリフ?」
ぱちりと大きめの瞳でまばたきをして、彼女は掴んだままの腕を眺める。わずかに小首を傾げるけれど、なにを考えているのかまではよく分からないな。
再び見上げてきた彼女は、黒髪に雪を乗せながら唇をひらく。
「……先輩は一緒にいて気になりませんが」
「はあ、相変わらずよく分からないな、お前って。とっとと帰って、こたつで豆餅でも食おうぜ」
「豆餅も好きです」
どこか足取りも軽やかに、無表情な後輩は雪道を歩き続ける。もしかしたら買物のときも楽しんでいたのかも、とか思いながら足跡のまだついていない雪をぎゅっと踏む。
気のせいか、雨竜は笑みを浮かべているように思えた。
なるほどね、真っ白な雪を踏みつぶしてやるのが好きなわけか。それなら俺にもちゃんと分かるぜ。
しんしんと積もる雪。
俺の愛用バイクにも厚く積もってゆくなか、ぱっと俺の部屋に電気がついた。後藤家への帰宅である。
湯気をあげるフライパンの隣で、俺はお肉にオイルと塩胡椒をまぶしていく。すり込んだこいつを、ブシュワーッって焼いちまうぜぇ。くっくっく、丸焼きだぁ。
牛脂から染み出た油が、だんだんいい香りになってくる。ミニサイズだしミディアムが好きだから、焼くのは一分もかからないかなぁ。
そこで健康にうるさい人なら眉をひそめる行為、バターを投入だ。こういうのはジャンクフードと同じで、健康よりも美味しさを優先しないとさ。
ひょいひょいと引っくり返して表面にいい感じの焦げがついたら、大皿に取り出しておく。熱が落ち着くまでのあいだに鴨を焼いて、さっさと鴨ソバを作らないと。
ステーキがこってりしているぶん、お蕎麦は「かけ」にしよう。ネギをたっぷり入れると香ばしいし、さっぱり美味しく食べれるだろうな。七味唐辛子もまだ置いてあったっけ。
あとは熱の落ち着いたステーキをスライスして、先ほど溢れた汁を軽く煮詰めてから刻みクレソンと一緒に盛る。
うひゅう、簡単なくせにゴージャスな見た目。これなら気難しい雨竜ちゃんも唸っちゃうよ。
正月気分にはまったく浸れないところだけが欠点だ。
「お待たせ―」
なんでもない顔をして、どどんとテーブルの上に置く。すると髪を両脇に結わいた雨竜は、やはり瞳を大きく見開いてまじまじと眺めてきた。
「良かったです。先輩と同じのを選んで正解でした」
「ははっ、そうしたら伊達巻だけだったもんな」
こくんと頷く雨竜に作りたての鴨ソバの器を差し出す。そういや気づいたらコイツ用の食器も増えてきた気がするけど……まあいいか。
窓の外には積もる雪。
当たり前のように置かれたのは瓶ビール。
ほかほかの料理を待ちきれず、そわそわする様子の雨竜を眺めながらグラスに注いでゆくのは、いつもよりちょっとだけ贅沢だと感じる。
そして互いにグラスを手に取り、黄金色の杯の向こうにある瞳と見つめ合う。
「今年もよろしく」
「はい、よろしくお願いします」
ちりんとグラスを合わせて、にんまりと互いに笑ってから箸を伸ばした。
明けましておめでとうという言葉を一度も使わなかったなと気づくのは、瓶ビールを2本ほど空けたあとのことだった。
んふーっ、と雨竜がたまらなそうな顔をしているときだったかな。
それを見て、にっこりと俺が笑ったときだったかもしれない。
明けましておめでとうございます。




