70.俺のパンツ
ぶすっと頬を膨らせながら俺は女子トイレから出る。
あん? ちゃんと男子トイレを使えって? ったく、俺にはおっぱいがついているから自動的に女に分類されるんだよ。
待てよ、もしもペタンコだったら運命が大きく変わっていたのか? もしかしてつまみ出されたり?
うん、怖いから考えないようにしよう。
しかしイライラは止まらない。
踵を荒々しく鳴らして歩いているし、頭から湯気が出そうなほど怒り肩だし、もしここで声をかけてくる奴がいたら問答無用で殴りかかっている。
あまつさえそいつがパンツの「パ」の字でも口から出そうものなら、口に出せないことをしでかしてやるぞ。
「あーーっ、くっそ! バカかよ俺は! パンツ丸出しのことを忘れて男どもと会話してるとかさ!」
そうわめきながら歩いた。
もちろん既にジャージ姿だぞ。あんなお色気装備なんかリアルでなんか着れねえよ。おっ、痴女かな? って言われちゃうじゃんか。俺にコスプレ趣味は無いんだし、もしもカメラで撮った奴らがいたら順番に殺す。
手にしているエギア装備一式を丸めてそのままゴミ箱に捨ててやろうと持ち上げて、ブルブル震えながら悩み抜く。
絶対にもう着ない。だけどめっちゃ苦労して作ったんだ。それは俺が一番よく分かってて……!
「ふっ、ふざけんなよ、パンツ装備とかさ! しかもあれ、絶対に録画してるぞ!」
事件が起きたとき、大抵の場合は後で調査するために録画をしているものなんだ。尻丸出しでぐるぐる回っていた俺ごとな。こんなのちょっとしたトラウマになるに決まってる。
「そんなに気にするほどですか?」
「気にするの! だって剣術士を開放してるときは尻だってでかくなるんだぞ!」
ぺしーんと尻をはたきながら振り返ると、そこには柵に腰かける雨竜がいた。やっぱりまだギズモ装備を着たままだった。
雨はすでに止んでおり、通りを挟んだ向こう側にはたくさんの回転灯が暗闇を染めている。
サイレンも鳴らさないひっそりとしたその事後処理は、まるでお通夜を眺める気分だった。
「……渋谷のときよりも被害は少なかったらしい。何の気休めにもならないけど、たぶん俺たちにできることは全部やったと思う」
「ですか、ね」
彼女もまた俺と同じ方向に瞳を向ける。広場の中央はぽっかりと人がおらず、そこには墓標のように俺の愛用していた大剣が突き刺さっている。
その隣に立つエギア、人体に近しい形をした存在は周囲にいる数名と会話しているようだ。
「意外でした、先輩が捕獲に協力するなんて」
「うーん、今回はたまたまだけどな。隷属なんて提案されるなんて思わなかったし。だけど魔物の捕獲とかって何となく嫌な予感がするだろ。二次被害とかやっぱり想像しちゃうしさ」
こくんと雨竜は素直にうなずいた。
それから真意を探ろうとするように大きめの瞳をこちらに向けてくる。
あのとき、俺に大した考えがあったわけじゃない。だけどそのほうがいいかなって思ったんだ。
「普通にお行儀よくやっていたら、あと数か月もやってけないと思う。モンスターはどんどん強くなっているし、その速さにはさ、俺だけじゃなくってみんなが焦ってるんだ」
いまは大人しいけど、女王種が何人殺したと思っている。三桁近い被害者数だ。それも俺と雨竜が全力で追跡したからどうにかその数字で抑えられたに過ぎない。放っておいたらどうなったかは……あまり考えない方がいい。
そんな奴を相手に、うちの若林や研究所の生体調査班たちが意思疎通を図っている。
怖い相手だ。普通なら絶対に近づけっこない。だけど躊躇している場合じゃないんだと心のどこかで分かっているんだと思う。
回転灯に照らされながらメモを取る様子をじっと見る。
「あとはゆとり……若林の願いだったから、かな。あいつもたくましくなってきたし、だったら少しくらい協力してやってもいいかなって思う」
だからこれは打算的なものでもなんでもなくて、ただの協力なんだ。
そして当の本人が芝生の向こうから駆けてきた。夕方からずっと勤務しているものだから、その表情は疲れているようだった。
「後藤さーん、悪いんですけど輸送車が来ましたので、運ぶのを手伝ってくれません? 後藤さんの言うことしか聞かないらしくて」
「あのなぁ、それくらい自分たちでどうにかしろよ。こっちはボランティアの域をとっくに超えてんだぞ?」
「もし手伝ってくれたら、近くの過ごしやすい旅館を押さえますよ。こっちのほうが『研究費』というお題目がつきますし融通も利きますから」
こっちの面で、という意味らしく親指と人差し指の先端をくっつけて、爽やかに笑いかけてくる。
なるほどなー、俺みたいな奴と絡み慣れるとそんな交渉術まで強くなるのか。人間ってたくましくなるんだなと感心しつつ「よっ」と声をあげて柵を跳び越す。
じゃあ仕方ない。ゆとりと呼んでいた彼がどこまでたくましくなれるのか、しばらく近くで見ていてやるか。決して私利私欲というわけではなく。
冬の冷たい風にさらされながら、俺たちは無音の回転灯の明かりに包まれた。
◆
隷属の契約を交わしたエギアの女王種、エギアナ。
そいつは輸送車の窓からドーナッツ屋を眺めながら「眠い」と言い、そこから一言も話さなくなった。
見れば空が白んでくる時刻で、夜の終わりを告げようとしている。
ゆっさゆっさ肩を揺すってみたものの、意にも介さず瞳を徐々に閉じてゆく。
どうしたものかなと思っていると、不意にくるんと振り返ってきた。
「後藤、ワレは夜まで眠りにつく。激しい戦いのせいで供給停止の術を使うこともできヌ。この身体、預けよう」
すんごく眠そうな不機嫌そうな表情でそう言われたよ。
お、おう、と呻いたときに、ざあっとエギアナの身体から梢の葉擦れの音が響く。
頬を風が抜けてゆき、目を開けたらそこには……。
「はあ、木になっちゃった」
「……小さいし盆栽みたいですね」
木も葉も真っ黒な何かがシートベルトに挟まれているという、ちょっと不思議な光景になってしまった。
じーっと間近で眺めるのは雨竜で、触ったり葉を千切ってみたりと……こいつほんと命知らずだな。
「先輩、これ千切れます」
「可哀そうだしあんまりやりすぎんなよ。起きたらハゲてるかもしんないんだしさ」
「そうじゃなくて、さっきエギアナの言っていた供給停止というのはつまり、外部からの影響を受けなくする術かもしれません」
覚えていませんか、と小首を傾げられた。
さて、そう言われても供給停止なんてさっき初めて聞いたし……いや、待てよ。
ふと思い浮かべたのは昨日の映像に関してのことだった。
「そういやでっかいモグラみたいな……ナッキージャムか。あいつは朝がきたら水晶みたいなのに閉じこもっていたな」
「外部からの破壊ができなかったのも、それと関係あると思います。へとへとにさせたら日中でも手を出せる気がしますね」
ふーん? その情報がどう役立つのかな。
ん、無くはないのか。捕獲作戦みたいなときは、そうやってから朝を迎えればいいかもしれない。
「だけどそれは相手次第だな。俺は時間稼ぎとか苦手だしさ」
ですね、とつぶやかれた。
単にキレやすいというだけでなく、疾走も継続治癒も制限があるんだよ。さっきは体力だって尽きかけていたんだし。
「その前に……なんかヘタり始めてねーか?」
よく見ると葉が弱々しい。たぶん激戦を終えたあとだからだろうけど、気のせいかしんなりし始めている。根っこがむきだしなのもなー、んー、ちょっと気になるかなー。




