69.戦禍と戦果
骨のように真っ白い肌だ。
裸体の女性に近しいが、肘や指などの関節が存在していないかのように蠢いている。とがったあごの少し上には唇らしきものがあり、これはつい先ほど生み出された形状だ。
ごくんと唾を飲みこむ。
魔物は頭を垂れていて戦闘意欲は消えているけれど、その頭部は巨大な食虫花のように有機的であり恐ろしげだ。目にした者は間違いなく化け物、あるいはモンスターと悲鳴を上げるだろう。
――ワレは、種を残すタメ、貴様にクダル。
先ほどと同じ言葉をこいつ……エギアの女王種は繰り返す。呆気に取られていたのを聞こえていないと判断されたのかもしれない。
この願いを承諾すると、エギアというモンスターの権利が俺に移るのだと先ほど案内されている。
しかし判断はつかない。提案を受ける、受けない、という選択肢を示されて、どちらがいいのかすぐに分からなかったんだ。
でもたぶん俺は断らない……いや、断れない。隷属というものがどういうものか分からないが、危険なこいつは倒すよりも監視下に置いた方がいい気がする。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「ドウゾ」
「もうお前たちエギアは人を襲わないのか?」
「貴様が命ジレバ。タダシ、他の女王種には口出しできヌ。群れを成すホクゥも同様ダ」
その答えを聞いて俺は決めた。
いま言われた「ホクゥ」のように、こいつにしか分からない言葉や情報がある。右も左も分からない俺にとって、それらは絶対に手離せないだろう。
「分かった、隷属を結ぶ。もし手順があるなら教えてくれ、夜の案内者」
《 段階的な儀式や技能は必要ありません。エギアは既に受け入れています。変質を与えるために、後藤の血を彼女の傷口に垂らしてください 》
血を? さて、それにどういう意味があるのだろう。疑問を浮かべながらも俺は右手を突き出した。
わざわざ肌に傷をつける必要は無い。まだ白煙を上げているとおり継続治癒の真っ最中であり、完全にふさがってはいないからな。
グイと袖をめくった腕を伝っていく赤い血。
受け入れるようにエギアはまだ穴の開いたままの肩を差し出して、そうして滴が垂れてゆく。
――コオオ!
変質というものが始まった。
色素を全て抜いたように白い肌、そして傷口だけは闇夜のような黒さだったのに、零れた血と混ざりあってぷくぷくと気泡を生み始める。科学の実験のように。
それから紫っぽい色素がエギアの裸体を浸食してゆく。どく、どく、と脈動するのは血管のようだったし、エギア自体に溶け込んでいるみたいだ。
待てよ。この光景を、俺は見たことがあるんじゃないか?
ふとそう感じたのだが、いつのことだか思い出せない。だけど二度目に見るような既視感があって、何となく気のせいじゃないと感じる。
と、懸命に以前のことを思いだそうとする俺に、そっと語りかけてくる声があった。
《 隷属とは魂の結びつきです。互いの存在をぶつけあい、そして変質をする。人間が種を残す行為とさほど変わらず、忌み嫌う者も受け入れる者もいます。後藤、あなたのように 》
きっとこれが変質なんだ。
言葉じゃなくって見るだけで伝わることもある。
ぷつっと音を立てて、真っ白い顔に切れ込みが入る。それは真横に引かれて、まぶたのように盛り上がる。開かれるとそこには光沢のある目玉があって、人間とは大きく異なる紫色をしていた。
花弁が垂れると髪のようになって彼女を飾り、植物は女性らしいタイトなスカート状となり、指の形も繊細になってゆく。尖った爪もいま生えた。
ふう、と熱っぽい息を吐く。
まるでこの世界に初めて生まれたかのように、その光沢のある瞳で周囲を、そして俺を眺めるエギア女王種。
骨格はより人体に近づき、背丈も俺とそう変わらない。その大人っぽい顔つきに合わない牙だらけの口がゆっくりと開かれた。
「新たナ名を授かろう、ゴトー」
なんて言われて、ファンタジー気分に浸かっていた俺の頭に冷や水を浴びせられた。
「うわ、出たよ、ネーミング。俺、この手のイベントが苦手なんだよね」
「ア? 貴様、ワレとの隷属を結ンデおきながら儀礼を欠くノカ?」
ジジと音を立てて細い首に首輪のような飾りが生まれる。そら、早くしろと威圧的に見つめてくる瞳もまた白いまつ毛で飾られてゆく。
なんだろ、ドS顔っていうのかな。勝気で神経質そうだけど、相手はモンスターだからよく分からん。
名前かぁ、エギアのままでいいんじゃね?
と思いはするが、逆の立場なら「人間」って呼ばれる感じだからそれは可哀想か。おとがいに指を当てて、エギア、エギアと呟きながら夜空を見上げる。
「じゃあエギアナで」
「了承した。ワレは今宵よりエギアナの名を持つ」
元とあんまり変わらないじゃんという心のツッコミを受けながらも、そいつから唇の端っこでニッと笑みを浮かべられた。
髪は銀糸のように真っ直ぐで、一輪、二輪と花が咲いてゆく。それはやっぱりファンタジーな光景で、この現実的に過ぎる先進国、日本が大きく変化をした気がする。
膝を折り、頭を垂れたエギアの女王種。
映画かなにかで見た儀式、騎士を迎えるようにまだ血の滴る大剣で彼女の肩を叩いた。
きっとこうされたいんだなって分かったからさ。
◆
小雨のなか携帯電話を片手に歩く者がいる。若林だ。
背後を回転灯が埋め尽くしており、辺りの者に構うことなくビニール傘を差しながら歩いてゆく。
身分証を差し出すと自動小銃を構えた者が道を開ける。日本らしからぬ物々しさではあるが、この場合……この状況では妥当だろうと彼は思う。
危険地帯の予想を覆す地帯でのモンスター戦は渋谷以来のことであり、また被害の大きさも変わり果てたマンションを見ればおおよそ掴める。
「うっ、これは……ひどいな」
立ちくらみを起こしかけるどころではない。
視界はグラグラと歪んでおり、新人のように吐いてしまいそうだった。
建物に面した道路は目を覆うほど荒れ果てており、既に歩道という役割を担っていない。
倒れ伏した大型モンスターは報告の通りエギア種だろう。溶けて原型を失ったぶんを合わせると実に百体近くがここで暴れ狂った。
最悪とも言える憑依型のモンスター、無尽蔵に数を増すエギアとの戦い。
それはつまり元市民の亡骸とも言える。己の内に燃え上がるのは正義感や道徳心だろうか。気づけばグッと手を握りしめており吐き気もだいぶ消えていた。
いつか丸ごと始末してやるという気迫によって、青年は怯えを心から追い払う。あの夜に死にかけた経験は、彼を強い男に変えていた。
「ん、これは……後藤さんの仕業か」
と、よく見れば荒々しい被害のなかに鋭い跡もある。それは大型まで進化したエギアごと断ち切っており、悪夢のような敵に対して嵐のように暴れた者……つまりは後藤の戦いの跡だと分かる。
がなりたてる携帯電話の存在を思い出し、はあと息を吐いてから耳に当てた。
「ええ、はい、ひとまずは鎮静化しました。これからAとその協力者に詳しい話を聞きます。え? ええ、その件も伝えておきますが我々には強制力などありませんよ」
なおもがなりたてる相手に失笑を返して、やがてピッと電話を切った。
右も左も分からない子供と一緒だ、などと思いながらひどく荒れた歩道を進んでゆく。
父や母を相手にするように、頼りになる者にしがみつこうとする。それが絶対的に正しいことだと信じて疑わないのもまた酷似している。
「……溺れる者は、か。どうしようもないな。掴まる相手のことをあまりに知らな過ぎる」
あの人を長く利用できる者などいないだろうに、と言いたげな横顔だ。少なくともこの現場を実際に見れば、多少なりとも悟れそうなものだが彼らは会議室を好み、一歩も外に出たがらない。
若年でありながら、この未曾有の事態に正面から向き合っている者の声でもある。呆れた口調でありながら重さを感じる言葉だった。
実際のところ後藤が一般市民として扱いづらい存在なのは分かっている。しかし何をしでかすか分からない女性であり、むしろそれくらいでなければ凶悪なモンスターには立ち向かえないだろうとも思う。
そうしていつ倒壊してもおかしくない建物を眺めながら歩いていると、見慣れた者の後ろ姿に気づく。一足早く現場にたどり着いていた自衛隊の者だ。
「夷隅さん、まだ現場に残っていたんですか。これでは状況報告も大変ですので、少し協力していただけると助かります」
声を投げかけても彼は振り返らない。いや、まったく聞こえていなかった。知人との挨拶なんかよりも目の前にはおかしな光景が待っていたのだ。
「だからさー、お前はしばらく監視下に置かれると思うよ。さっきどんだけの被害を出したと思ってんだ。嫌だろうけどさ、解剖とかに付き合ってやれよ」
「ワレは貴様と隷属を結んだノダ。他のモノに協力など……ハッ、笑止」
なんだあれ、と若林は目を剥く。
最初、目に入ったのは後藤の露にされた太ももと下着同然のビキニだった。むっちりと腰に食い込ませており、この冬場には似合わない服装だ。
男性を超えた肉体をしているのに、どうしてあれほど腰をぎゅっとくびれさせられるのか。わずかに覗かせるヘソはなだらかな筋肉に包まれており、真上に一本の線を生んでいる。
普段とのギャップにより、意外なまでの色気の強さに吸い寄せられたのは異性として仕方ない。しかし、じっと見つめてくるのは缶コーヒーを手にした雨竜であり、その冷たい瞳によってわずかに冷静さを取り戻す。なんとなく男としての尊厳に関わると思ったからだ。
いかんいかんと頭を振ったとき、ようやく彼女の隣におかしなものがいると気づいた。
あり得ないほど真っ白い肌をした者だった。あからさまな侮蔑の表情を向けてくる彼女は、しかしどこからどう見ても人間ではない。
背は後藤のように高く、勝ち気そうな瞳もどこか似ている。だが、ぬめつける視線には邪悪なものを確かに嗅ぎとれた。
「あ、若林、いいとこに来た。さっき雨竜から聞いたけど、エギアの捕獲を頼んでいたんだろう? こいつをさっさと連れていってくれないか」
「エギア!?」
「エギアではナイ。ワレの名はエギアナだ。先ほど言った通りホクゥになど……ヌ、貴様はなかなかいい宿主ダナ。よく育つ土壌をシテイル」
「土壌!?」
のしんとエギアナと呼ばれた者が一歩近づくと、脚の長さと相まって顔が視界いっぱいになる。わずかに漂う血の匂い。サメのような牙。怪しさを身に纏うものは、間近で二イィと笑みを深めた。
「フム、貴様もゴトーの配下のモノか。でなければ手を出してイタところだガ……こっ、コラ貴様! ワレの耳をつねるでナイ! やめぬか!」
「あのな、ちゃんと隷属化されてろよ。あんまり騒ぐようなら日本流の躾として尻を引っぱたくからな」
ぐらんと先ほど惨状を目にした以上に視界が揺れる。
何をしでかすか分からないとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。生体に乗り移り、無尽蔵に数を増す危険なモンスターを仲間にするなど。
そう思うと同時に、ようやくこの事態を理解する。
どれだけの被害の発生源だと思っているんだ。まず間違いなく公表なんてできっこないし、彼女の言う通り監視下に置くことは絶対だ。
では、コンクリートを易々と破壊するような者を置いておける施設はどこにある?
すべきこと、しなければならないことが宿題の山のように積まれた感覚があって、今さらながら若林の膝が笑いだした。




